61 指す奴を間違うなよ?
肉にナイフが刺さり、刃の半分を赤色に染めた。呻き声が聞こえる。メイの太股から流れる血を眺めながら、またナイフを振り落とした。狙いは彼女の心臓だった。しかし彼女の汗ばんだ顔に浮かぶ不敵な笑みを見て、僕は身震いがした。殴られ、ビンタを喰らい、ナイフで刺されて出血までしているのに、彼女の表情はまるで闘士を失うことはなく、僕の顔を挑戦的な目付きで睨んでいた。僕の腕は、刃が彼女の胸に到達する寸前で動かなくなっていた。
「どこが可笑しい? 」と僕は言った。「お前は狂ってるのか? 」
「滑稽だよね」と彼女はくつくつと笑った。「君って類を見ない滑稽な人間だよ」
「……何が――」
「どうせ死ぬつもりなんだろう? 」と彼女は遮って言った。「だったら、一人で死になよ」
たしかに彼女の言う通りだった。結局のところ、僕は死ぬ予定であり、また死ななければならないのだから、そのために彼女を殺す必要性はないのだ。僕はナイフの刃先を床に向けると、しばらく黙った。そう、僕は死ぬのだから、これ以上殺人をする意味がどこにあるのだろう。
激しい羽音が聞こえる。
グレゴール・キングは怒鳴った。
「駄目だ、我が子よ! 彼女も殺しなさい!」
「意味がわからない」と僕は言った。「理由もないし、必要性も感じない」
「わかってないな? お前はまだ人間の社会通念で考えている。殺す理由もなければ、生かす理由もないないのなら、それは殺すべきだ」
「わからない」と僕は言った。「なあ、それは承知しかねるよ。僕は人を殺すことが好きな人間じゃないんだ。殺さなければならないから殺すんだ」
「それなら、なぜ黒田 清蔵を殺めたのですか? 」とグレゴール・キングは静かに言った。
僕は答えることができなかった。しかし理由はいくつもあった。僕が黒田 清蔵を殺したのは、彼が他の女に現を抜かして、母を苦しませ、見殺しにしたからだ。 そして僕を貧乏のために飢えさせて苦しませたからだ。せめてもの遺物である指輪を僕にでなく、あろうことに愛人に渡したからだ。
「だが、あなたは黒田 清蔵の闇に触れて、一人の人間として、憐れみ、共感し、同情もしていた。殺す理由はそれでもあったんですか? 」
「……あったはずだ」と僕は言った。「僕は彼を恨んでいた」
「違います。あなたは怨恨で殺してなんかいません。その立場は逆転しました。目的と計画は入れ替わったのです」
「だが、僕は恨んでいた! それは今でもわかっているんだ 」
「ええ、あなたは恨んだのです。しかし過去のためでなく、未来のために。過程のためでなく、結果のためにです。あなたは殺すために恨んだのです」
からん、と音が鳴った。ナイフを落としたのだ。彼の赤い目は、僕の表情を欠いた目が映っていた。
「さあ、ナイフを拾うのです」と彼は言った。「腰を屈めて、ちゃんと握って……確実に殺せるように」
僕はナイフを拾った。
「そして刃先を女に向けるのです」
僕はその通りにした。
「準備はできましたか? 」
僕は頷いた。
「さあ、刺しなさい」
しかし僕は動かなかった。メイの瞳が憐れむような視線で何かを訴えかけていたせいだ。同時的にそれは僕の記憶からある言葉を手繰り寄せていた。それまでの迷いがその言葉で一気にぶち壊された。
――刺す奴を間違うなよ?
僕はそいつにナイフを突き刺した。




