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グレゴール・キング殺人事件  作者: ナツ & Kan
60/64

60 あの日の光景

 僕はグレゴール・キングに操られたように、ナイフを振り上げた。……その時。


 僕は蝿の大群が飛び交うのを、ちらりと見たような気がした。


 はっとして見直す。確かに、蝿の大群が自分のまわりを旋回している。その渦の真ん中に僕がいる。あたりが蝿に包まれているような感覚だった。それは砂嵐の中のようにも思えた。砂ぼこりが一寸先も覆い隠している。僕は、ナイフを下ろして、あたりをぼんやりと眺めた。


「ああ……なんだろう」


 メイには、蝿たちが見えていないらしく、僕の瞳を正面から静かに睨みつけている。


「一体、何が見える?」


「蝿の大群だ。それにここは砂漠の真ん中だ。まったくおかしな気分だ……」


「君を惑わしているものの正体が見えてきたんじゃない? 」


 それは一滴の水もない砂漠の中の砂嵐のように感じられた。それはどうかすると愛情を失った僕の心の中のようだった。蝿が、蝿が、蝿が、蝿が、自分の分身のように、僕のまわりをしきりに飛びまわっている。そして、それらは、次々と息絶えて、(まばゆ)い光を放つ砂の中に墜落してゆくのだった。


「ああ、不毛地帯だ……」


 ああ、この生き物の生息できない砂漠こそ、今の僕の心なのだろうか。どうしようもなく暗い僕の心を現しているのだろうか。僕は操られている。グレゴール・キングに操られている。だけど、その僕を操っているグレゴール・キングこそは僕の心の、どこか奥底の……。


「見えてくる……」


 見えてくる。蝿の大群が飛び交う中に、あの日の眺めが蘇ってくるのだ。僕の住んでいるボロ小屋。母さんがまだ生きていたあの頃の、何気ない生活の一コマが鮮やかに蘇ってくるのだった。あの頃は貧しくても幸せだった。母さんからの愛情があったからだ。そのささやかな愛情が、今の僕にはあまりにも欠けている。


「ああ……ああ……」


 僕は、記憶が呼び覚まされる度、脳髄に激しい痛みが走ったように感じて、声を上げて、宙をもがいた。今となっては幸せだった頃の記憶など、思い出してもつらいだけなのに、こんなにも瞼の裏に、鮮明に映し出されるとは……。そして、その光景は、母さんの死んだあの日の光景へと移り変わってゆく。ボロ小屋同然の、立て付けの悪い窓や破れた障子のある部屋の中で、干物みたいにくたばっている母さんの姿が、この目にありありと見えてきた。僕は込み上げてくる涙を、振り払うように呟いた。


「ああ……、でも、僕は蝿だ……」


「しかし、それは君の内側でしか存在していない」


 ……メイの声だ。


 でも、違う。蛆だった頃の僕が確かにどこかにいるはずだ。どこにわいた蛆かは知らないが、僕だって、かつては可愛らしい蛆で、元気にぴこぴこと動きまわって、たまには疲れてぐっすり休んだりして、いっぱしの蝿になることを夢見ていた時期もあるのだ。しかし、その映像は目に浮かばない。


「君の外側は人間だ」


「やめてくれ!」


 僕は悲鳴を上げて、頭を抱えた。一体、僕は本当は何者なのだ……?


 その時、背後から声が聞こえてきた。


「どうしたのです? 我が息子よ。そのナイフで、はやく死になさい。あるいは、まずその女をぶすりと刺してしまえば、良いのですよ」


 僕は、はっとして振り返った。グレゴール・キングの顔がまじまじと迫ってきた。声がゆるやかになり、エコーがかかっているように感じられた。


「蝿の大群が……」


「それはあなたを祝福しているのですよ。我が息子よ。さあ、そのナイフを突き刺してしまうのです!」


 僕は驚いた目で、グレゴール・キングを見つめた。笑っているようにも、怒っているように見える、このグレゴール・キングの顔が、だんだんと僕の近くに迫ってくる。こいつは何者なのだ。一体、お前は僕の何なのだ。何故、僕に指図をするのだ。その得体の知れない自分のような何かの声を聞いて、僕はなぜかとても悲しかった……。


「さあ、ナイフを突き刺すのですっ!」


 グレゴール・キングの声が高らかに、耳の中に響いた。


 ……僕は、その呼びかけと共に、わっと叫び声を上げると、ナイフを振り上げた。

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