60 あの日の光景
僕はグレゴール・キングに操られたように、ナイフを振り上げた。……その時。
僕は蝿の大群が飛び交うのを、ちらりと見たような気がした。
はっとして見直す。確かに、蝿の大群が自分のまわりを旋回している。その渦の真ん中に僕がいる。あたりが蝿に包まれているような感覚だった。それは砂嵐の中のようにも思えた。砂ぼこりが一寸先も覆い隠している。僕は、ナイフを下ろして、あたりをぼんやりと眺めた。
「ああ……なんだろう」
メイには、蝿たちが見えていないらしく、僕の瞳を正面から静かに睨みつけている。
「一体、何が見える?」
「蝿の大群だ。それにここは砂漠の真ん中だ。まったくおかしな気分だ……」
「君を惑わしているものの正体が見えてきたんじゃない? 」
それは一滴の水もない砂漠の中の砂嵐のように感じられた。それはどうかすると愛情を失った僕の心の中のようだった。蝿が、蝿が、蝿が、蝿が、自分の分身のように、僕のまわりをしきりに飛びまわっている。そして、それらは、次々と息絶えて、眩い光を放つ砂の中に墜落してゆくのだった。
「ああ、不毛地帯だ……」
ああ、この生き物の生息できない砂漠こそ、今の僕の心なのだろうか。どうしようもなく暗い僕の心を現しているのだろうか。僕は操られている。グレゴール・キングに操られている。だけど、その僕を操っているグレゴール・キングこそは僕の心の、どこか奥底の……。
「見えてくる……」
見えてくる。蝿の大群が飛び交う中に、あの日の眺めが蘇ってくるのだ。僕の住んでいるボロ小屋。母さんがまだ生きていたあの頃の、何気ない生活の一コマが鮮やかに蘇ってくるのだった。あの頃は貧しくても幸せだった。母さんからの愛情があったからだ。そのささやかな愛情が、今の僕にはあまりにも欠けている。
「ああ……ああ……」
僕は、記憶が呼び覚まされる度、脳髄に激しい痛みが走ったように感じて、声を上げて、宙をもがいた。今となっては幸せだった頃の記憶など、思い出してもつらいだけなのに、こんなにも瞼の裏に、鮮明に映し出されるとは……。そして、その光景は、母さんの死んだあの日の光景へと移り変わってゆく。ボロ小屋同然の、立て付けの悪い窓や破れた障子のある部屋の中で、干物みたいにくたばっている母さんの姿が、この目にありありと見えてきた。僕は込み上げてくる涙を、振り払うように呟いた。
「ああ……、でも、僕は蝿だ……」
「しかし、それは君の内側でしか存在していない」
……メイの声だ。
でも、違う。蛆だった頃の僕が確かにどこかにいるはずだ。どこにわいた蛆かは知らないが、僕だって、かつては可愛らしい蛆で、元気にぴこぴこと動きまわって、たまには疲れてぐっすり休んだりして、いっぱしの蝿になることを夢見ていた時期もあるのだ。しかし、その映像は目に浮かばない。
「君の外側は人間だ」
「やめてくれ!」
僕は悲鳴を上げて、頭を抱えた。一体、僕は本当は何者なのだ……?
その時、背後から声が聞こえてきた。
「どうしたのです? 我が息子よ。そのナイフで、はやく死になさい。あるいは、まずその女をぶすりと刺してしまえば、良いのですよ」
僕は、はっとして振り返った。グレゴール・キングの顔がまじまじと迫ってきた。声がゆるやかになり、エコーがかかっているように感じられた。
「蝿の大群が……」
「それはあなたを祝福しているのですよ。我が息子よ。さあ、そのナイフを突き刺してしまうのです!」
僕は驚いた目で、グレゴール・キングを見つめた。笑っているようにも、怒っているように見える、このグレゴール・キングの顔が、だんだんと僕の近くに迫ってくる。こいつは何者なのだ。一体、お前は僕の何なのだ。何故、僕に指図をするのだ。その得体の知れない自分のような何かの声を聞いて、僕はなぜかとても悲しかった……。
「さあ、ナイフを突き刺すのですっ!」
グレゴール・キングの声が高らかに、耳の中に響いた。
……僕は、その呼びかけと共に、わっと叫び声を上げると、ナイフを振り上げた。




