6 羽黒祐介現る
僕は自分の部屋に立っていた。211号室だった。
なかなか上等な部屋だ。まず目についたのは、純白の大きなベッドだ。ふかふかしている。そして、円形のテーブルの上には、先ほど乗組員が持ってきた赤ワインとグラスが置かれている。壁には、色彩豊かな装飾の壁紙が貼られていて、大きな鏡が一枚かかっていた。枕元のスタンドライトが明かりを灯し、窓際にはベージュのカーテンがかけられている。その先は青い海と空が見えていた。まったく、呑気な眺めだった。
僕は、前もって旅行会社に渡しておいたアタッシュケースが、ソファーの上に置かれていることを確認し、それをぱかりと開いた。中身を隠すように敷かれている布をまくり上げる。そして、手袋をつけて、鋭利な出刃包丁を取り出した。まじまじと光る刀身を見つめていると、途端に頭がぼうっとしてきた。また包丁を中にしまった。
「やっぱり、ワイヤーで殺した方が良いかもしれない……」
ぼそりとそんなことを口に出した。今になって、返り血のことを心配しているのだ。しかし、ワイヤーにははっきりとした指紋は残らないだろう。ところが、僕は、そこに別人の指紋を残さないといけないのだ。気の迷いをどうにか振り払うと、今度は睡眠薬の入った小瓶を拾い上げた。
盛るならいつがいいだろう……。ディナーの後だろうか。指紋、睡眠薬、出刃包丁。船員の制服に似せた服装も使えるはずだ。頭の中をぐるぐるとめぐる言葉の数々。本物の証拠は海の中へ。偽物を残してゆく。しかしこれで本当に上手くいくのだろうか……。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。僕は立ち上がって、入り口へと向かった。
ドアを開けると、そこには根来が立っていた。僕を見ると、慌てた様子になった。
「あっ、すいません。部屋を間違えました。……ん、あれ? なんだ。黒田さんじゃないですか」
僕はぞっとした。なんで、この男は僕の部屋を知っているんだ。部屋を間違えただと……?
「どうしたのですか。根来さん……」
「いえね。このあたりに三十歳ちょっと手前の男、いませんでした?」
「僕のことですか?」
「いえ、そうではなくて、羽黒祐介という男なのですが……。いえね、やつは私の知り合いなんですよ。さっき、偶然、ロビーで会いましてね。なんでも、懸賞に当たったとかって……。それで、羽黒の部屋で一杯やろうという話になったんですがねぇ。部屋、分かんなくなっちゃった。ははは。だから、手当たり次第、二階の呼び鈴を鳴らすことにしたんですよ。確かね、211号室だったと思うんですが……」
「211号室ではありませんよ。僕の部屋なんですから……」
僕は腹が立って言い返した。根来は困った様子で頭を掻いていた。その時……。
「何をしているんですか? 根来さん」
根来は後ろを振り向いた。そこには、爽やかな美男子が立っていた。
「おお! 羽黒。探してたんだよ。部屋分かんなくなっちまってな。何号室だっけ?」
「212号室ですよ。そちらの方は?」
根来は、僕の方をじろりと見ると、また美男子の方に向き直った。
「黒田倫助さんだ。一緒に、お前の部屋を探してくれていたんだよ……」
美男子は微笑むと、僕にお礼を言った。
「羽黒祐介です。今後ともよろしく。そうだ。黒田さんもご一緒しませんか?」
僕は、根来の握りしめているビニール袋に目を移した。缶ビールと芋焼酎が入っていた。このふたりと酒を飲めと言うのか。それは避けたい事態だった。
「生憎ですが、用事があるもので……」
この場で愛想を振り撒くより、最初から釣れない男と思い込ませる方が良さそうだった。そして、僕という存在が、彼らの記憶から一刻も早く消え去ることを願った。