59 哀れなシック・ボーイ
「死のうと思うんだ」と僕は言った。「ティムにそう勧められたのだし、また彼に会いたい」
グレゴール・キングは静かにそれを聞いていた。メイは黙って事態を把握しようと勤めている。
「死ぬんだ」と僕はもう一度言った。「そうしたら、あっちの世界とやらに行けるのだろうね? 」
「ええ」とグレゴール・キング は頷いた。「我が子よ、共に行きましょう」
僕はナイフを見つめた。刃先は白くてぎらぎらと輝いている。かすかに僕の顔を投影している。僕はは胸に刃を立ててみた。
「待てよ」とメイは言った。
「なんだい? 言っておくが、もう僕は決めたんだ。止めないでくれ」
「うん」と彼女は言った。「胸じゃなくてさ、手首を切って、湯船に浸かりなよ」
「……なんだって? 」
「手首を切って湯槽に浸かりなよ。そっちのほうが死にやすい。ゴッド・ファーザーpartⅡの裏切り者みたいにさ」
僕はベッドに片足を乗せて、メイの襟元を掴んだ。彼女はにやにやと笑っていた。ビンタを一発だけくれてやったが、唇の端から血が垂れるだけで、笑みが薄れることはなかった。
「言葉に気を付けろよ」と僕は言った。「お前なんかいつでも殺せるんだ」
「だろうね」
「それとも、お前は死にたいのか? 」
「まさか」と彼女は肩をすくめた。「まだやり残したことがたくさんある。わずかだが貯金は残っているし、自宅のローンも支払ってない。死んでも葬儀に来てくれる友人もいないが、飼ってる猫に別れも告げていない」
「寂しい人生だな。みじめだろ? 」
「そうでもない。相続問題に悩まなくていいのは利点だよ」
僕は右頬にもう一発くれてやった。次はかなり強くだ。ばしん、と音が部屋に響いた。
「まったく、誰の役にも立たない邪魔な女だ! 」
「人質になってるじゃないか。私も立派な人質になれて誇りだ」
「……お前はなんでそんなに敵ばかりつくる? 根来にも、僕にも、そしてお前に好意を示していた羽黒にさえ、お前は好意を示さなかった」
「なぜか? 」と彼女は言った。「それは私の領域にずかずかと土足で踏み込んだからだし、私の気がもう一つ乗らなかったからだ。私の自由には誰にも立ち入らせたりはしない。私はその点で個人的な攻撃を始めてしまうし、意図せず歯向かうのだ。正しいか、正しくないかなんて話ではない。私はそれで今まで生きてきたし、これからもそう生きてしまうのだ。そして、その歪んだ生き方にも諦めがついた」
グレゴール・キングは僕の肩に手を置いた。「話しても意味のないことです」と彼は言って、首を横に振ると、ベッドのシーツを剥いで、縄状にした。何らかの法則で、一つ一つ丁寧に編むように。それを僕の手に持たせて、彼は言った。
「その人を拘束しましょう」
そうだな、と僕は答えた。それがいいかもしれない。僕は彼女の腕にシーツを巻き付け、屈強な漁師のように結んだ。足は濡れたシャツで縛りつけた。グレゴール・キングの言う通りにすると、全てがスムーズにいくような気がした。これで終わりだね、と僕は呟いた。ええ、と彼は言った。
「なにをぶつぶつ言っているんだ? 」とメイは言った。「まるで幻覚を見ているようだぜ? 」
「実際にいるんだ」と僕は怒鳴った。「お前には見えないだけだ」
「そうだろうさ。君が見ているものは実在している。だから、そんな幻覚を見ているような振りはやめなよ」
「……どういうことだ? 」
「小さい子どもが見るような想像上のお友だちと幻覚をごちゃ混ぜにするなよ。君は本当は知っているはずだ。たしかに、君だけが見えているものは、君の中で存在している。影響を及ぼし、それなりの成果も与えている。だが、そいつはやっぱり君が作り出したものだ。神様も、創造主も、君なんだよ。見たいものを見たいばかりに、そいつを作り出した」
「違う! グレゴール・キングが僕を産み出したんだ」
「君に黒田 清蔵を殺すことは耐えきれないことだった。だからイマジナリーフレンドを必要としていた。退行してでも、味方が欲しかった哀れなシック・ボーイ」
「違う! 」
「まあ、何にせよ」と彼女は言って、壁に頭を預けた。「そのナイフを向ける相手を間違えないことだ」




