58 あっちの世界へ行きましょう
僕が、奥の部屋を覗き込むと、グレゴール・キングが、返り血を浴びた黒い蝶ネクタイの白いスーツを干していた。
「それは海に捨てたはずだ……」
「いやいや、そんなことはありません。ちゃんとここにあります。よく考えてごらんなさい。確かに捨てましたか?」
グレゴール・キングはこちらを振り返って言った。
「言われてみれば、捨てた記憶はないな……」
「そうでしょう。これは立派な物的証拠になるでしょう。これで捜査も裁判も円滑に進みます」
「そんなことを喜んでいる場合じゃない。もう扉の外まで敵が来ているんだ。他の乗組員やら警備員やらもすぐに集まってくるだろう。こっちは人質がひとりいるけど……」
僕は玄関のメイを見た。メイはこちらをじっと見て、
「誰と話しているんだ?」
と尋ねてきた。しかし、僕はそれを無視して、グレゴール・キングに向き直った。
「この状況をどう切り抜ければ良いんだ?」
「………」
グレゴール・キングは答えなかった。僕は、軽く悲鳴を上げると、部屋の中をぐるぐる歩き回った。
「これからどうすればいい? どうすれば」
玄関のドアが激しくノックされて、インターホンが鳴った。
「諦めて大人しく出てこい。倫助。お前はすでに包囲されている」
根来の声だ。何を言っているんだ、こっちには人質がいるんだ。それなのにまだ自分たちの立場が上だの思っているなんて。しかし、当の本人であるメイは勝手に居間まで歩いてきて、ソファーにもたれかかって、顔の血を拭いていた。僕はナイフを突きつけると、
「もっと人質らしくするんだ!」
と叫んだ。メイは手を頭に当てると
「アイアイサーキャプテン」
と言った。なんでこの状況で、こんな馬鹿な吐けるのかよく分からない。僕は恨めしげにメイを睨みながら、ナイフをテーブルの上に置いて、ソファーに座った。
ふと見ると、奥の部屋からグレゴール・キングが手招きしている。僕は立ち上がると、メイの元を離れた。
「どうした?」
「船の航路を変えるのはどうでしょう? 」
「しかし、人質ひとりの力では、航路を変えさせることはできない……」
「できます。現代の人間の社会においては、人命こそがもっとも大切はものとされているのです。それとも、この豪華客船の旅行会社や船員は、人質を見殺しにして、のほほんとしたツアー計画を優先したものとしてマスコミに非難されるのを望んでいるのでしょうか」
「いいや。望んでいないだろう。しかし、乗船客全員の予定をそう簡単に狂わせようとも思わないだろうね」
「じゃあ、あっちの世界に行きましょう。ティムから聞いたと思いますが、あそこは楽園ですよ。ティムが好きだった蝿のための遊園地があります。そこには、カフェや、ジェットコースターまであるのですから。蚊取り線香の形をしたメリーゴーランドもあるのですよ。ティムはあれが本当に大好きでした」
「そんなもの、今は望んでいない」
僕は、グレゴール・キングの悲しげな表情を無視して、再び、メイの元に戻った。テーブルの上にナイフを置いたまま、僕とメイはお互いに妙な沈黙に包まれていた。僕はついに来るところまで来てしてしまったと思った。さまざまな感情が込み上げてくるのを感じて、僕は静かに口を開いた。
「……だが、僕は死んでしまおう」




