54 鼠じゃなくて蝿だよ
僕がティムに夢中になっている間も、根来は羽黒にある質問を続けていた。
「それで、いつからこの男を疑っていたんだ?」
「最初に倫助さんを不自然に感じたのは、倫助さんが、ハワードさんが目撃したボーイ姿の男のことを「黒い蝶ネクタイのボーイ姿」と発言した時です。しかし、ハワードさんはこの時、ボーイ姿の男が黒い蝶ネクタイをしていたことまでは喋っていませんでした。不自然きわまりない発言です。それは、ハワードさんでなければ、犯人しか知りえない情報でした」
「確かにな……」
「メイさん。どうでした、僕の推理は?」
「楽しませていただきました。ほとんどの事実は、私にはちっとも推理できなかったし、知りませんでしたが」
根来は黙って、そんなことを言い合う羽黒とメイの姿を交互に見比べてから、深く頷くと、僕に向かってゆっくりと迫ってきた。
「倫助、もう逃げられないな」
根来はもう確信しているのか、少しばかり落ち着いた口調だった。そして、僕を捕まえに来た。がっしりとした片手が僕の右肩を掴んだ。その瞬間、僕はこのまま、この男に囚われては駄目だと思った。
僕は、根来の踏み込んできた右足を、すかさず足で払った。出足払いだった。根来は不意をつかれて、宙に浮くと、その場にすっ転んだ。
その途端、僕はドアに向かって走り出した。この場から逃げ出したかった。
「待て!」
根来は立ち上がると同時に、大声を轟かせ、弾丸のように迫ってくる。僕は部屋に飾られた花瓶を掴むと、振り返りざま、根来に投げつけた。根来は花瓶を割らないようにキャッチすることに気を取られた。実際、花瓶は割れずに根来の両手に収まった。しかし、その時、僕はドアを開けていた。
「まずい!」
一等航海士ハワードはそう叫ぶと、根来の代わりに、僕に飛び込んできた。
この男なら倒せる。ハワードは僕を殴らずに捕まえる気だ。しかし、僕はそんなことお構いなしだ。僕の拳は、ハワードの顎に命中した。ハワードはそのまま、ふらふらとして、僕の膝に倒れかかってきた。
僕は、根来の足音が尚も迫ってくるのを聞いて、慌てて、ドアを開き、廊下に飛び出した。
そのまま、廊下をでたらめに走る。先ほどから、僕のまわりを飛んでいるティムは、
「これからどうする気だ? 兄弟、あんなに暴れちゃって……」
と心配そうに語ってきた。
「いいんだ、今は。どうせ、捕まったら取って食われるしかないんだ」
「でもさ、今から逃亡劇を始めるのは、ちと億劫じゃないか?」
「そんなこと言ったって、ああするより仕方なかったろう?」
「うん、確かにな。済んだことは仕方ないさ、でも、俺っちの言葉を覚えてくれているかい?」
「あのメイって女探偵を利用する話か? でも、どうするんだ、現実的に、こんな船の中じゃ袋の鼠だよ……」
「兄弟、鼠じゃなくて蝿だよ。なあ、頭を使うんだ、そうすれば、きっとどこかに道は開かれる」
ティムと会話を続けながら、僕は身を隠せる場所を探し続けた……。




