50 キーホルダーの問題
それから、ドアは内側から開かれて、メイが現れた
。彼女に案内されて、僕は清蔵の部屋に一歩足を踏み入れた。そして寝室に入ると、羽黒の言った通り、そこには死体はすでになく、醜く汚れた肘掛け椅子があるばかりだった。
羽黒はしばらく、黙って現場を眺めていたが、思い切ったように僕の方に振り向くと、
「倫助さん。あなたはこの床に、鍵が落ちているところを発見しましたね?」
「ええ、このあたりですね」
あまり芝居掛かった感じにならないよう気をつけながら、僕は、床のある一点を指し示して言った。
「カールさんも、それを見ましたか?」
「勿論です」
カールさんも、少し緊張した面持ちのまま頷いた。
「おふたりは、それが、この部屋の鍵だったと断言できますか?」
「ええ。キーホルダーの303という数字が見えましたから……」
羽黒はカールさんのその言葉を聞くと、さも嬉しそうに笑った。その笑いの意味は分からなかった。それから、鞄の中に手を入れて、キーホルダー付きの鍵を取り出してきた。そして、それを僕たち二人の目の前にぶら下げて、揺らして音を立てて、見せびらかすようにした。取り付けられたキーホルダーには「303」の数字がはっきりと見えていた。
「それは、この鍵でしたか?」
と羽黒は言いながら、僕とカールさんの顔をまじまじと見比べる。
「ええ。確かにその鍵でしたね」
「なるほど。ところで、この鍵、どこか不自然な部分があることに気がつきませんか?」
僕は、その予想外の言葉にどきりとした。寒気がした。言われてから、恐る恐る鍵を見直す。しかし、そこにはいたって普通の鍵が、キーホルダーからぶら下がっているばかりだった。
「い、いえ、分かりません……」
「そうですか。それでは、メイさん。これを見てどう思いますか?」
「逆さまだ」
メイはそれだけ言うと、僕たちの方に歩み寄りながら、さらに詳しいことを述べた。
「鍵に対してキーホルダーが、裏返しのまま取り付けられているようですね」
僕は思わず、あっと叫びそうになった。確かに、鍵は大きな船のマークが彫られている面が表のようだ。しかし、そのキーホルダーの「303」という数字は、それとは真反対、つまり裏向きに取り付けられていたのだった。僕は、キーホルダーを付け直す時に、こんなミスを犯していたのだ!
「さすがはメイさん。鋭い観察力ですね。しかし、この事実をメイさんはどのように捉えますか。ボーイが間違えて、裏向きに取り付けたのだと捉えますか?」
「その可能性も完全には否定できませんね。限りなく少ない可能性ですが。しかし、ここは一等航海士であるハワードさんに伺った方が良いでしょう」
一等航海士ハワードは、メイのその言葉を受けて、一歩前に歩み出すと次のように述べた。
「船内にある、鍵とキーホルダーの表裏は全て統一されております。それに、お客様にお渡しする際に、必ずスタッフがチェックを致しますので、このようなミスは本来、絶対に起こりえないものだと思います」
羽黒は、その答えに満足げにゆっくりと頷く。
「ハワードさん。ありがとうございます。つまり、この鍵は、フロントから清蔵さんに受け渡された段階では、正しい向きに取り付けられていたはずなんです。それがいつの間にか、このようにキーホルダーだけが裏向きになってしまった。これは何故でしょうか。そこで考えられる可能性は、このキーホルダーは一度、犯人の手によって取り外されたのではないか、ということです。そうでもなければ、このようなことになりはしなかったはずなのです」
僕は、この羽黒の演説を聞いているのが辛かった。できれば、両耳を塞いでいたかったが、疑われてしまうのでそれも出来なかった。
「なるほど、面白い推理をしましたね」
メイは、どこか批評家めいた口調だった。羽黒は再び頷くと、僕とカールさんをじっくりと見比べながら、尚も話を続けた。
「あなた方は、殺害現場である寝室に入った際、303号室のキーホルダーが取り付けられている鍵が床に落ちているのを発見して、室内には303号室の鍵が落ちていると思い込んでしまいましたね。ところが、このキーホルダーは、取り外された可能性があるということになるのです」
「つまり、それは、どういうことですか?」
カールさんの苦しげな問いかけに、メイがすぐさま答えた。
「303号室のキーホルダーは、確かにその時、室内に置かれていた。これは間違いない事実でしょう。しかし、それはあくまでもキーホルダーの話です。その時、303号室の鍵の方は本当に室内にあったのか? ということですよ」
僕はこの言葉を聞いて、もう、がたがたと体が震えだした。居ても立っても居られなくなって、羽黒を睨みつけると、
「そ、それで、どういうことになるのですか!」
と思わず叫んでしまった。ハワードとカールさんが驚いた顔つきで僕を見つめる。しかし、羽黒とメイの目つきは何も変わらなかった。まるで、全てを知り尽くしているみたいだ。
「その時、床に置かれていたのは、本物のキーホルダーが取り付けられた偽物の鍵だったのではないかと思うのですよ。それで、犯人はどうしたかというと、犯行後、偽物の鍵を床に置き、本物の鍵でドアをロックすると、悠々と外に出て行ったということになりますね」
「そうですか。それなら、犯行は誰にでも可能だったということですね」
僕の声はがたがたと震えていた。
「誰にでも、ではありません」羽黒の声は一段と鋭さを増して、僕に浴びせられた「あなた方ふたりのどちらかです!」
「なんですって……」
羽黒は、爽やかに笑うと、僕とカールさんの周りをゆっくり歩みながら、
「偽物の鍵は、いつか本物の鍵と交換しなければならない。現に僕たちが現場に駆けつけた時、床に残された鍵は確かに本物でした。では、犯人はいつ偽物の鍵と交換したのか。それは死体を発見した時しかありえない。それは、倫助さん、カールさん、あなた方ふたり以外には不可能なのですよ!」
僕とカールさんは、その言葉に、真っ青になった……。




