5 303号室にて
カモメの鳴き声が聞こえた。そいつらは風の中でも軽やかに飛行していた。風は冷たく、それはでいて緩やかだった。僕はあくびをすると、船内に戻った。階段をこつこつと上がり、三階を目指す。その途中、ぱりっとしたスーツを着ている乗務員に出会い、ワインを一瓶頼んだ。
「赤ですか、白ですか? 」と彼は言った。
「赤だよ」と僕は言った。「それとグラスを三つ用意してくれ」
「種類はどうします? 」
「この範囲で最高のもの」
僕はそう言って、ポケットから財布を取り出すと、二枚の一万円札を彼の手に握らせた。
「了解しました」と彼はびっくりしたように言った。「しかし金はいりませんよ。ここにいる皆、ワインの分も既に払っていますから」
「ああ、そうだったな。こういうのって、あまり馴れてないから忘れてたよ」
「ご冗談」
彼はそう言って、札を二本指に挟んで返した。僕はそれを受けるとると、すぐに財布に戻してこう言った。
「部屋は303号室。すぐに来てくれ」
「お名前は? 」
「黒田 倫助だ」
「クロダリンスケ」
それは小さくてぼんやりとした声だった。彼はその言葉を続けて三回言うと、ゆっくりと頷いた。ええ、たしかに、と彼は言った。
「じゃあ、僕は先に待っておくよ」
僕はそう言って、また階段を上がり始めた。そして三階に着くと、僕は左に曲がって歩を進めた。部屋の番号が記されている名札を確認しながら、303号室の前でピタリと止まる。ドアを数回ノックした。
「誰? 」
長倉 理彩の声だった。甘ったるく、のっぺりとした音だ。僕は自分の名前を告げると、彼女はドアを開けてくれた。
「倫助君、ひさしぶり」と彼女は言った。
白いドレスに身を包み、いつもよりワンサイズぐらい乳を上げているらしい。顔も化粧で白くて、腕にも何かのクリームを塗りたくっているのか、ほとんど赤みが消えていた。おかげで、どこからが化粧で、どこからがドレスなのか一瞬わからなかった。唇だけがチューリップのように赤かった。
「父さんは? 」と僕は言った。
「奥にいるわ」彼女はくすくす笑った。「ねえ、あなたは清蔵さんを許してあげたんだって? 」
「君には関係ないことだ」
「あら、私はあなたの母親なのに? そういうのって、あんまりだわ。ママ悲しくなっちゃう」
「ふざけてろよ」
じりじりと靴の先を前に出した。彼女はそれを面白そうに眺めながら、身体をさっと横に向けた。僕はそれを無視して部屋に入ると、椅子に座っている父親を見つけた。その目元は険しく、唇は見事にへの字だった。しかし、ご自慢の眉をどういう形にするべきか迷っているようだった。
「なぜ、お前がいる? 」と彼は言った。
「事前に行くと言ったはずでしたよ」
「まさか、そんなこと聞いてないぞ? 」
「そんなはずはない」
彼は一つ咳払いをした。眉毛は八の字に形を定めたらしい。
「……おいおい、どうしちまったんだ。お前さんが理彩にもこのチケットをくれたのは、つまりそういうことだろ? 」
清蔵はそう言って、困ったように長倉 理彩に視線を移した。彼女は首を縦に振った。
「お前さんは、気を利かせたはずだと思っていたがね 」と彼は続けて言った。「どうかしちまったんだい、お前? 」
「いや、言ったはずだ。……言ったんだ、僕は」
僕はそう言って、指先で顎に触れた。髭の感触を確かめながら、口を閉ざして黙っていた。頭のなかでどうにも考えが纏まらない。記憶が甦らない。後々でわかるような気もしたが、それでも曖昧で気持ち悪かった。
「とにかく」と彼はため息混じりに言った。「……まあ、このことは気にしないでおこう。俺と俺の女に立ち入ったのは面白くないことだが、それでもお前と話せることは悪いことではないからね。せっかく仲直りもしたわけだし」
「ええ、僕だってそうですよ。父さん、僕たちはもっと話す機会が必要なんです」
「そうだろうよ。だけど金の話はよしてくれよ? 俺は一銭だって出す気はないからね」
「ええ、そんなこと言いませんよ」
「ケチだと思うかい? 」
「いいえ」
「しかしな、倫助。俺はちゃんと自覚しているんだよ。この低俗で下劣な精神や、金でしかモノを考えられない思考をね。俺は餓死寸前の者であろうと金をせしめる最低な男だよ。……とはいえだな、これが俺が成り上がった理由でもあるんだ。お前の母親は欲のない女だったから理解してはくれなかったがね。だから俺もあいつと上手くいかなかった」
「承知してますよ、父さん。しっかりとね」
「いや、お前はわかってない。俺が若い時とおなじように何一つもね。だが、いずれはわかるだろうよ。なんたって、お前にもこの黒田の血が流れてるのだからな。お前だっていずれは黒田的な人間になっちまうのさ」
彼は続けて言った。
「それでもな、お前さん。俺は冷徹な男じゃない。全くその逆だよ。この非情な行動は、全て心の寂しさからくるものさ。俺は誰よりも愛を欲しているし、時には誰よりも優しくなったりもできるんだ。そして、それが身内じゃないだけなんだ! これを全て知っておきながら、しかし、どうしようもなく生きていることこそ、不幸ってもんだろうよ」
清蔵は最後は声を荒げて叫んだ。そして、風船のように太っている腹から大きく笑って、そのせいで何度か咳き込んだ。だんだん笑い声が小さくなり、次に彼はしんと黙り込んだ。その顔は呆然としていて、目には何の意思も感じられなかった。もう彼はどこにもいない。
「父さん? 」と僕は訊いた。
彼は何も答えなかった。そして立ち上がると、とぼとぼと歩きながら、ゆっくり部屋を出た。その際、長倉 理彩にも気にせず、というより存在すら認知してないように横切った。船に乗る前の僕と同じように、手元がしきりに震えていた。ばたん、と音がして、ドアがオートロックで施錠された。
「最近、特に不安定みたいでね」と長倉 理彩は気にする風でもなく言った。「機会仕掛けの人形みたいな動きをするの。きっと壊れてるのね」
「病院には? 」と僕は言った。
「行ってないわよ。行くような人だと思ってるの? そんな勇気があったら、もっと違うことをしてるわね」
僕は肩をすくめた。そして、廊下に身体を向けた。おかげで、長倉 理彩と正面から向かい合うような形になってしまった。
「そこを退いてくれないか? もう出ることにするんだ。……どうやら、父も体調が優れないみたいだし」
「ねえ」と彼女は何も聞こえてないように言った「さっきのこと、本当はどっちなの? 」
「さっきのことって? 」
「あなたがこの船に乗るってことよ。それ、本当に清蔵さんに言ったの? 」
僕は黙った。彼女はそれで合点がいったのか、廊下の前から少しだけ離れた。僕が玄関まで歩くと、背後から彼女の声が聞こえた。
「あなたもおかしいんじゃない? ……これ、真面目な話よ? 」
「馬鹿なこと言うなよ、アバズレ」
「救えない人達ね。きっとあなたも手遅れになるわよ」
僕は部屋を出た。ドアを強く叩きつけるうに閉めて、その分だけ大きな音を立てた。しかし、さっき出会った乗務員が側にいることに気付き、そうしたことを後悔した。彼は目を見開いていて、盆の上のワイン瓶を今にも落としそうだった。僕は彼の肩をやさしく叩くと、ワインを自分の部屋に持っていくように頼んだ。グラスはどうしますか、と彼は言った。一つで頼むよ、と僕は答えた。