49 たったそれだけ
羽黒に勧められ、僕は部屋へのドアノブを掴んだ。そして指でその感触をたしかめながら、少しだけ捻ってみた。ぎいと音がして、それから無音になった。しかし僕はそれ以上開けることは出来ないでいた。誰に目の前に牙を向けている者がいるのに、真っ直ぐに前を進めるものだろうか。少なくとも僕には出来なかった。もし、このままドアを開けなかったら、もうこの後の展開も進まないのではないだろうか。僕がゆっくりと行動をすれば、その分だけ時間を伸ばせるのではないだろうか。しかしどう考えても、それはナンセンスだった。
「どうしました? 」と羽黒は言った。
「いえ」と僕は答えた。「すぐにしますから」
「ええ、お願いします」
「ええ」と僕は言った。
まずいな、と僕は思った。このままでは怪しまれてしまう。もう逃げられない。いつの日か、似たようなことがあった。僕は知っているのだ。この時と同じ状況を。高校生の時に教師に殴られたこと生徒がいたのだ。彼はプールの授業でふざけて遊んでいた。勝手に足をプールの水に突っ込み、ばしゃばしゃと足を上下させていた。そして背後で近寄ってくる教師に気づくこともなかった。そして、誰もが教師がいることを教えもしなかった。 そうして後で危機に気づくのだ。その時には全てが遅いといのに。
彼はもう待ってはくれないのだろう。しかたなく僕は気の抜けた返事をすると、中からメイの返事が聞こえた。僕はそれはどこか落ち着かないようで、苛立ちを感じていた。それから数十秒待った。
「遅いですね? 」と僕は言った。「なにかあったのかな? また、後で出向いた方がいいかもしれない 」
「すぐに出てきますよ」
「そうですか」
「どうかしました? 」
「別に」
羽黒は微笑んだ。
「もっと気を楽にしてください。問題はないのですから。それはあなたが知っているはずですしね。そうでしょう? 」
「その通りですよ。ええ、わかってますから」
僕は荒くなった呼吸を手で隠し、背中を丸めた。コーヒーが飲みたくなった。台所でマグカップにインスタント・コーヒーの粉を入れて、ヤカンからお湯を注いだものを。それを片手で持って、ソファでくつろぎ、時間をかけてゆっくり飲んでいたい。そのような余裕がほしかった。安くて、ぱさぱさしているドーナツがあったらそれ以上に落ち着くことはないはずだろう。こういう時こそ、そういった食べ物を腹に納めたくてしかたなくなっていた。一時間でいいのだ。たったそれだけ。後はクールでいられる。




