48 血文字の謎
その時、船内放送が流れた。どういうわけか、それは根来の声だった。
「黒田倫助さんとカールさん、すみませんが、この放送をお聴きになられたら、一旦、303号室までおいで下さい」
僕たちは顔を見合わせた。ふたりは、何が起きたのかも分からず、怯えながら、303号室へと向かった。そのドアの前には、すでに羽黒祐介と、根来警部が立っていた。
「何を始めるのですか?」
僕は、焦りを隠しつつ、羽黒に尋ねた。
「もう一度、現場検証をしようという話になったんです。今回はメイさんも一緒です」
「何か疑問があるのですか?」
「いえ、密室自体が大きな疑問なんですよ。これを解かなきゃ、どうにも捜査が進まないんです」
と、羽黒はしごく当然のことを言った。
「メイさんは?」
「室内にいます。自分の無実を証明するために、快く参加してくれました」
僕は、その言葉に蒼ざめた。それでは探偵が集結してしまったわけか。現場から離れていたことで少しは落ち着いたというのに、またしても、殺害現場に引き戻されることになるとは……。
「ちなみに、ご遺体は病室に運びました」
「そうですか」
「そして長倉さんは疲労が溜まって、別室で寝込んでいます。……そのため、まずは僕が代わりに、彼女の状況について、口頭で状況を説明しますね」
「はい」
「長倉さんが目を覚ましたのは、あなた方がインターホンを鳴らしたことがきっかけでした。そして、長倉さんは目を覚まし、清蔵さんのご遺体を見つけて、すぐさま悲鳴を上げた。それから廊下に出てきたのです。その際、寝室の鍵は確かに内側からかかっていたと彼女は証言しています」
「それは、今まで嫌というほど、聞かされた話ですよ」
「そうですね。もう少し辛抱してください。それで、いくつかの点から、僕もメイさんも、長倉さんが犯人だなんて思っていません。それは以前もお話した通りです。彼女にとって、この状況はあまりにも不利すぎるのです。犯人が自ら不利すぎる状況を生み出すのは不自然です。まして、寝室に鍵がかかっていたということは、彼女自身の証言が唯一の根拠なのですから、自分自身を突き落とすような行為です。あまりにも不自然です」
「不自然な、不自然な、と繰り返していらっしゃいますが、僕に言わせれば、それは、殺人なんか考えたことのない、常識的な人間の理屈ですよ」
僕は、軽蔑したようにそう言い放った。その直後、僕ははっとした。いつの間にか、自分は殺人者の方に同情し、殺人なんか考えたことのない人間への不信感が募って、それが不意に吐露していたことに気づいた。つまり、僕はいつの間か殺人者の精神を無闇に賛美する人間になっていたのだ。
「そうかもしれませんね。しかし、そのように簡単に、長倉さんを犯人として、事件を片付けてはいけない証拠は他にもあります。それは出刃包丁に付着した指紋の形です」
「長倉さんの指紋だったのでしょう?」
「そうです。しかし、それは逆手の指紋でした。つまり、長倉さんは出刃包丁を逆手に握ったのです。ところが、おかしいのはあなたのお父さんの刺し傷は明らかに順手で出刃包丁を握って、切り刻まれたものだったのです……」
「そんなことまで分かるのですか?」
「力の入り具合がだいぶ違います。それに器用さも変わります。逆手で人を刺すのには、限界があるのです。したがって、長倉さんの指紋は、犯人によって意図的に付けられたものである可能性が高いのです」
「面白いことを仰いますね。しかし、それだけではなんとも言えないでしょう……」
「ええ。しかし、疑問はまだあります。それは室内のあまりにも不自然な痕跡でした。あの肘掛けにこびりついた血です。あなたはそれをどのように捉えますか?」
そして、羽黒の話は、死体のあった肘掛け椅子の肘掛けのことを指し示した。そこには、すでに色が黒ずんではいたが、血で「LLて」という文字が書かれていたのだという。
「そんなものは知りません」
僕はそう答えながら内心、冷や汗をかいた。なんということだ。清蔵が殺される前に、不自然に指を動かしていたのはこれだったんだ!
「では、LLて、という言葉に心当たりは?」
「いえ……。しかし、服のサイズですかね。「LLでお願いします」と書こうとして、途中で殺されたんじゃないですかね」
そんなはずはないだろうが、とにかく、事実から引き離すことが先決だった。
「それは面白いジョークですね。いや、やっぱり面白くない。なんとも、つまらないお話です。だって殺される間際に、そんなことを書き残す人がいるでしょうか」
ええ、とばかりに声を出さないで頷くと、僕は頭を回転させた。すぐに、この時点でもっともまともと思える解答を思いついた。
「羽黒さん。これはきっと意味のある言葉ではありませんよ。父は殺される時に、心を落ち着かせようとして、デタラメに文字を書いていたんです」
「なるほど。その回答を聞きますと、あなたの方が僕なんかより、よっぽど現実主義者のようですね」
そうして、羽黒は、美しい微笑みを浮かべた……。




