46 闇夜の中の豪華客船
僕は、乗組員以外立ち入り禁止の文字が浮き出たドアを開いて、廊下に出ると、時計の針を見つめながら、どこへゆくともなしに彷徨った。デッキに出て、外を眺めると、夜の闇は深まるばかりだった。
対照的に、豪華客船の空気はだんだんと色めき立ってきていた。上層階のデッキから見下ろすと、下のデッキのプールは眼が覚めるような青色に照らし出されていて、その底で光が揺らめいている。プールの周囲には、なにやら、黒い人だかりができて、やたらと賑わっていた。マイクを通した機械的な声が、甲高く騒がしいアナウンスを響かせて、その場を盛り上げている。言っていることをよく聞いてみると、高級車をかけたビンゴ大会なのだった。僕にはなんとなく、このお祭り騒ぎが、ひどく馬鹿馬鹿しく虚しいものに感じられた。
それにひきかえ、靄にかすみながら、時々まばゆい光を放つ月が妖しげに浮かぶ海上の眺めは、僕の心をひどく研ぎ澄ませ、かつ落ち着かせた。運命というただならないものが迫ってくるのを、ただ一時、この幻想的な眺めは忘れさせるのだった。
刻々と自分の処刑台が迫ってくるような気がした。それと、人の目には見えない、人殺しという烙印が、心の底で自分を焦がし狂わせてゆくように思えた。その秘密が暴かれることを恐れている自分も、また一夜の夢の道化師のように思えてならなかった。
鼓動が熱っぽく、それでいて、調子外れに響いている。最後に勝利するのは己かそれとも警察なのか。清蔵の死が完結した今でさえも、僕はまだ苦しみの只中にいないといけないなんて、そんな馬鹿な道理がどこにあるのだろう……。
いっそのこと、このデッキから飛び降りれば。そこに待っているのは、天国か地獄か……。
風が少し冷たかった。僕はデッキから飛び降りる代わりにプールにでも飛びこもうかと思った。しかし、それも寒いから止めた。それに今、プールはお祭り騒ぎの狂乱の中にある。だから、豪華客船の中をただ彷徨い歩くことにした。
全て上手くいっているはずだ。しかし、羽黒とメイは僕に少しばかり疑いを持っているように感じられる。なにをきっかけに、そんなことを思いついたのだろう。まったく解せなかった。
どこへ行っても、ホールは美しかった。琥珀色の灯りに包まれたその中で、ガラスと鏡とが一際輝きを放っていた。そのいくつもの光は折り重なり、夢のように鮮やかで、儚かった。正面に掲げられた大きなギリシア風の壁画が、どこか古代の雰囲気を醸し出していて、それに寄りかかるようにして立つ椰子の木もまた絢爛を極めた。しかし、夜のせいだろうか、ホールには妙に静けさが横たわり、何かが息をひそめているように張り詰めているのだった。
それから、薄暗い廊下を歩いて行くと、洒落た装いの船内ショップが並んでいる。僕はその店を冷やかした。煌びやかな磁器やグラス、艶やかな着物や和傘、優雅な年代物のワイン、舶来品の珍奇な洋菓子、神秘的でエキゾチックな小物、色鮮やかな油絵や水彩画、可愛らしい動物のぬいぐるみ、魅惑的な芳香の珈琲豆、そこはかとない音色を奏でるオルゴールなど、記念品の数々が所狭しと並ぶ。しかし、そのいずれも今の僕には必要のないものばかりなのだった。
僕は何も買わずに、そのまま、ガラス張りのエレベーターに乗って、最上階へと向かった。琥珀色の光が、雨のように、地の底に沈んでゆき、僕は飛翔するような感覚にとらわれると忽ち、最上階に到着した。ドアが開く前にふと思った。ここには展望室があるという。ドアが開いた。
展望室に入ると、窓の外は真っ暗闇で何も見えなかった。しかし、黄色っぽい白熱灯のあかりに照らされた正面のベンチに、カールさんのしょげた背中があった。
「ここにいたのですか」
僕はカールさんに声をかけた。カールさんはかなり頼りない表情で僕を見上げた。
「気分を変えようと思いましてね。でも、こうして展望室に来てみると、暗くて何も見えないんです……」
どうにも憐れな男に思えた。
「そういえば、6時頃に物音を聞いたそうですね」
「誰からそれを?」
「羽黒さんからです」
カールさんは納得したらしく、数回頷いて、近くのテーブルに置いていた紙カップのココアを手にとって、一口飲んだ。甘い香りがふわりとした。
「倫助さん。犯人は、6時頃にも隣の部屋にいたんですね。おそろしい話です」
「犯人とは限りませんよ。理彩さんが寝ながら、何か蹴飛ばしたのかもしれません」
「そうかもしれない。しかし、ですね」カールさんはココアをまた一口飲んだ「考えてもみてください。現場検証の際、ハワードさんが夜の3時か4時頃に見慣れないボーイ姿の男を見たと言っていたじゃないですか。やはりこの時間ですよ。犯人は11時半よりも、ずっと後に何か不審な行動をしていたことになりますね。このことを、根来さんに伝えようと思いましてね……」
僕は焦った。カールさんにまで、そんなことを暴きたてられちゃたまらない。推理小説で例えれば、お前はただの容疑者のひとりに過ぎないじゃないか。推理なんかするんじゃないよ。僕は非常に腹が立った。
「そんな余計なことはしなくていいんです。そんな余計なことを言ったら、カールさん、あなた自身が疑われてしまいますよ」
「何故ですか?」
カールさんは驚いた顔をして、尋ねてきた。白々しい。分かっているくせに。
「あなたのアリバイが無くなるからですよ」
「私のアリバイが、どうして?」
「もしも、6時頃に殺人が行われたのだとしたら、僕たちのアリバイは無くなってしまうでしょう?」
そこまで言ってから、理解の追い付いていないようなカールさんの表情を見て、はっとした。また言い過ぎたか。カールさんの考えは、そこまで至ってはいなかったらしい。
「殺人が、6時頃に……?」
カールさんは頓狂な声を出した。
「い、いえ、そうではなくてね、つまりそういう推理もされてしまいますから、僕たちにとっては困るかもしれないというだけです。今の言葉は忘れてください」
カールさんは何かまた考えているらしく、俯いて、ココアを飲んでいる。こいつにまで探偵を気取られちゃ困るよ、と僕は横目でカールさんを恨めしげに見つめてから、再び真っ暗な夜景を見つめ直した。




