41 蝿人間の一匹
羽黒と別れたあと、自分の部屋に戻った。僕は自分のくたくたになっている靴を眺めながら、洗面台で顔を冷たい水で洗った。頬の肉がぎゅっと引き締まり、それに伴って痛みすら覚えた気がした。耳を澄ましたら、奥からグレゴール・キングの鼻唄が聴こえてくる。奇怪なリズムで今まで聴いたことがない種類の音楽だった。きっとマイケル・ジャクソンが風邪で喉を潰された状態になり、それでも『移民の唄』の出来損ないバージョンを披露したならこんな音楽になっていたのかもしれない。不旋律で、でたらめなリズムを最高の歌手が最低のコンディションで歌うのだ。僕が居間まで行くと、グレゴール・キングはゆっくりと振り返り、恥ずかしそうに鼻唄をピタリとやめた。
「お待ちしてましたよ」とグレゴール・キングは言った。
「……まだいたのか」
「ええ、お前がそう望んだのです。それに、お前の世話をする人が必要でしょ? 私、掃除洗濯には厳しいのです。こう見えて綺麗好きなんですよ」
彼は自慢げに言うと、テーブルの椅子に腰を落ち着かせ、シルクハットをベッドの側にそっと置いた。そして僕に向かい側の椅子を勧めた。
「さあ、我が子よ。父にお前の話を聞かせなさい」
「嫌だ」
グレゴール・キングはしょぼんと項垂れると、次は威厳を振る舞うように姿勢を正した。
「ほら、しっかりと答えるのです。父さん、悲しいじゃありませんか」
それでも僕は答えようとはしなかった。しかしグレゴール・キングはその赤くて丸い目玉で、僕の全てを見通したように頷くと、ぎちぎちと苦しそうな虫の声を出した。
「羽黒 祐介に虐められたのですね? 」と彼は羽を悄気させて言った。「……可哀想に、我が子よ」
「なんでわかる? 」
「私は父ですからね。あなたの胸の内なんてあってないようなものです。それにこの船には蝿がたくさんいますから、その同胞が逐一教えてくれるのですよ。たしか、この船には合計で5200匹の蝿と8000匹もの蛆が潜んでいます。それは厨房だったり、ゴミ箱だったり、排気管の周りにいるのです。彼等はお前を連れて帰るために、命を懸けて協力してくれているのですよ」
「僕は蝿じゃない。お前とは協力関係なだけだ」と僕は言った。「そのために存在するんだ」
激しい羽音が聞こえた。グレゴール・キングは呻いて、ぎゅっと拳をつくった。それでも、なんとか怒るのを堪えようとしているみたいで、荒い息で呼吸を整えていた。
「……まあ、そう思うのも仕方ありません。長くこっちの世界に居すぎたのです。狼に育てられた少女が自分を狼と思うように、お前は自分を人間だと思っています」
僕は黙っていた。
「それでも、愛しい我が子よ。お前は蝿人間の一匹であります。これは疑い用のない事実です。今は信じなくてもいいから、それだけは覚えておいてくださいね。そのために父がここにいるのですから」
「本当のところ、お前がここにいたって仕方がない」と僕は言った。「僕だってそれがわかっているんだ。だけど、手離すのが怖くなっている。それでは救われもしないのに……」
「大丈夫、私が手伝います。それに、お前には何千匹の仲間がいるのですよ? 」
「全て踏み潰されるか、叩き潰されるか、殺虫剤で殺されるかだ」
「ええ」と彼は言った。「しかしどんなに敵がいようと、この父だけはお前の味方です。それが父親ってもんでしょうよ」
僕は口元を下げて、怒ったような顔をつくった。しかしそれは演技で、仲間という声が心地好く感じていた。それを聞くために否定をしているようでもあった。これでは茶番だ。
大丈夫、とグレゴール・キングは何かを仄めかすように言った。そして再びシルクッハット掴んで、埃を払うような仕草をすると、また丁寧に被り直した。それから僕に近寄り、力強く抱擁した。その身体は死体のように冷たかったが、胸の内が幸福感で満ち溢れた。彼の大きな赤い目が僕の顔を写し出している。その顔はなぜか笑っていた。しかし実際に頬を触ってみると、口元は持ち上がってなかった。彼の瞳にいる僕が笑っているだけなのだ。
どうにも不思議な感じがした。僕は僕であるはずなのに、僕じゃない感覚があった。本当は彼の息子で、蝿人間で、あっちの世界の生物であったのだろうか。いや、正確にはそうじゃないかもしれない。あるいは、そうなのかもしれない。考えれば考えるほど、頭がだんだん空っぽになる感覚があった。




