39 頬の傷
しばらくの間、様々な自己の矛盾点について考えながら外でタバコを吸っていた。羽黒 も部屋には戻ろうとせず、柵に背を持たれかけながらタバコの灯火を見つめていた。それで僕はタバコを勧めてみたが、やんわりと断られた。彼はもっと違うことを求めているようだった。
「一つだけ不可解なことがあるんです」と彼は言った。「わかりますか? 」
「さあ」と僕は言った。「僕にそれがわかる脳みそを備えていたら、もっと違うことをしてますよ」
「それはどうだろう? 案外、ちょっとした観察力で閃くものです。『緋色の研究』を読めば、あのシャーロック・ホームズだって後天的に観察眼を養ったことがわかります。つまり未来から物事を考えるのではなく、過去から推理を始めることが大事なんです」
「……それで何がわかったんですか? 」
「それは今のところ誰にも言えません。まだ不安定要素が残っていますから。そいつを取り除くために、あなたに訊きたいことがあるのです」
羽黒はそう言って中指をピンと立てると、自分の頬をさっと撫でた。そして僕に何歩か近づき、いくらか真剣な顔つきをつくった。
「一つは清蔵さんの頬の傷のことです。その事について長倉 理沙さんに伺ったのですが、あの傷は清蔵さんが気絶した際に負ったものと訊きました 」
僕はこくりと頷いた。
「そう父も言ってましたよ。自慢の頬だったらくて残念がっていました」
「ということは、清蔵さん本人から訊いたのですね? 」
「ええ」と僕は答えた。「それが何か?」
「これはとても不可解なことなんですよ。こいつのせいで、僕は足止めを喰らってしまっている。わかりませんか? 」
「わかりません。僕にわかることは何もありません。なにを知りたいのです? 」
「清蔵さんの頬に傷付けたものです。それは意図的な行為によるものなのか、はたまた偶然の産物なのか……そもそも人であるか物であるかも不確かです」
「気絶で転んだんでしょうよ。本人がそう言っていたんだ。それ以外になにがあるんですか? 」
「そいつはわかりません。ただし、転んで傷付いたものではありません。だって清蔵さんの頬の傷はどんな形をしていたか覚えてますか? とても細くて糸みたいな傷でした。この船内の廊下で、そのような傷をつくれる鋭利なものはありません。手すりだって丸い木製で、それでいて丁寧に磨かれているからささくれもない。念のために、彼が気絶して倒れた周辺から刃物を探してみたのですが、どこにも落ちてはいませんでした。おそらくは清掃員がゴミ箱に捨てたかもしれませんね」
「わからないな」と僕は言った。「どちらにせよ、彼は首を刺されている。どこにそんなことで悩む必要があるんですか? 」
「多分ありません」と羽黒は言った。「しかし私はあらゆることを仮定し、想定します。まだまだ様々な要因に対して考える余地はありそうなことに、例え無駄であっても考えます。私はその一つ一つを無視することはできないのです。まあ、それを抜きにしても、おそらくは長倉 理沙が犯人ではないのでしょうが。それは直感的であり、これまでの経験によってもわかることです。しかし私は真実に到達するまで妥協はできない」
「つまり別の者がやったことだと考えているのですね? しかしありえないな。だって例え頬の傷に毒を用いられて死んだとすれば、首まで刺す必要はないじゃありませんか? 」
僕はそう言った。指が震え始めた。それを悟らせないようにポケットに手を突っ込んで、こっそり荒ぶる息を整えた。こいつは何を考えているのだろうか? 表情から何かを読み取ってやろうとしたが、それはわからなかった。
「とにかく、わからないな」と僕は言った。




