38 彼女は逃げ出した
それから、ほろ酔い気分の僕は、冷え切ったデッキを歩いた。静けさが妙に悲しげに思えた。黒い海を眺めながら、ふらふらと歩く。
正面からアスピリン持っている中国人のコックが歩いてきた。レストランで北京ダックをつくっていた料理人だった。彼は僕の顔を見ると、まるで占い師のような口振りで、
「あなたは狐に取り憑かれていますね」
と言った。僕は、その中国人コックの直感に感心しながらも、首を横に振って、
「蝿ですよ」
と答えた。
中国人のコックは頷くと、目を大きく見開き、片手で持っているアスピリンを飲み込んだ。その際、彼は神経質そうで落ち着く気配がなかった。なにかを感じ取ったのかもしれない。あるいは精神的な症状のせいかもしれない。彼の目には焦りがあった。叫ぼうと唇を震わせているが、どこかパニックになっているようだった。しかしそれは症状だけのせいではないことは、彼を見ている方向を見るとわかった。
そこには長倉 理彩がいた。彼女はまさに今、デッキの柵を残り超えて、海に飛び込もうとしているところだった。僕は驚いて、あたりを見回した。すると、祐介と根来の二人がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「倫助さん、彼女は逃げ出したんです!」
僕は羽黒の声を聞いて、あらためて長倉 理彩を見つめた。希望を失った蒼白の表情。彼女は今、黒い海面だけを見つめていた。その先に自分の行き先があると思っているかのように。
僕は、わっと身体中が震えた。そこに死が訪れようとしている。その途端、我慢ができなくなった。一歩、踏み出した。彼女の方へと。
「止めないで!」
その声が、僕の心臓をさらに高鳴らせる。長倉 理彩の怯えている瞳が、印象的だった。そして僕は、無我夢中で、長倉 理彩を取り押さえようとした。その時、長倉 理彩の手が僕の頬に触れた。瞬間、激痛が走り、僕はよろめいて床に倒れた。それでも、どうにかすぐに立ち上がって、彼女を抑える。すぐに腹を蹴り上げられた。目眩がする。僕は叫び声を上げた。
そうこうしている内に、根来が飛びかかって、長倉 理彩を取り押さえた。
「死なせて!」
長倉 理彩はそう叫んだ。しかし、彼女はふらつきながらも、根来に強引に連行されていった。後から追いついた羽黒は、僕の方に向いた。
「よかった。あなたのおかげで、彼女は死なずに済みました。ちょっとした監視の隙をついて、逃げられてしまいましてね。やれやれ。容疑者を自由にしておくのは、あまりお勧めできませんね」
羽黒はそう言って笑うと、僕と握手をした。
そのあとやって来たメイは、僕の方を見ると何も言わずに、海を眺めてから、元来た道を戻っていった。
僕はその光景を居心地悪く眺めながら、自分にもある不信感があることに気づいた。そもそも、なぜ僕は彼女を助けてしまったのか、と言うことを。それは本能だったのかもしれない。自然な行動だったかもしれない。しかし、僕は彼女が死ねば、それはそれで都合がよく、満足できたはずだ。何しろ、僕は悪魔の類に違いないのだから。それだのに、人間味のある行動をおかしてしまうなんて、なんという狂気だろうか。
それでも、僕は助けたかったのかもしれない。命が消える。灯し火が消えてゆく。それだけがおそろしくて、物悲しく感じられて、後先も考えずに、飛びだしたのだ。それがあまりにも自己矛盾しているのだった……。




