表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グレゴール・キング殺人事件  作者: ナツ & Kan
35/64

35 グレゴール・キング

 一人になって喫煙所に寄った。狭くて、暗い一室だ。僕は煙草に火を点けて、肺一杯に吸った。揺れる煙を眺めながら、瞼を重そうに閉じた。どれぐらいの間、そうしてたかわからない。気がつくと、閉じている瞼が温かくて、ほんのりと湿っていた。


 「お目覚めですか」という声が聞こえた。「ここはあなたの部屋です。あなたはベッドで寝ています」


 それは知っている声だった。低くて、まるで内側から語りかけるような雑音混じりの音。しかし顔がちっとも思い付かない。誰なんだろう、こいつは。


 「今、コーヒーを淹れてますからね」


 「すみません、どうやら寝ていたようですね」と僕は言って、瞼を開けた。「……あなたは? 」


 しかし顔にタオルが乗っていて、白い生地しか見えなかった。僕はそれを取ると、声の主を探した。声の主はシルクハットを被り、木の杖を持って後ろを向いていた。目玉は丸くて赤色で、外に横向きで飛び出ていた。背中には透明な羽があり、綺麗に折り畳まれている。僕は長らくその羽を不思議そうに見ていた。しかし、次第にゴポゴポとコーヒーが煮えたぎる音が聞こえると、声の主が振り返った。僕はぎょっとして叫んだ。


 「あまり驚かないでください、我が子よ」と声の主は諭すように言った。「私は人間です。蝿でもあるだけで……」


 「これは夢なのかな? 」と僕は言った。「君の顔が蝿に見えるのだけれど……」


 「いえ、紛れもなく現実です。あなたは信じられないでしょうが、私は実在しているのです。そんな悲しいことを言わないでいただきたい」


 だまれ、と僕は呟いた。頭に手をやって、髪を引っ張った。


 「やっぱり、僕はおかしいんだ。長倉 理沙の言う通りだった」


 「たしかに、あなたは少しおかしい」と声の主が言った。「今まで側でずっと語りかけてきたのに、私に気づけないなんて。寂しかったです、我が子よ」


 「我が子? 俺がお前の? 」


 「ええ、我が子よ。私はお前の父です。信じられないでしょうが、お前は私の卵から還った一匹の蝿人間です。しかし、数多の卵を管理するうちに、こちらの世界に落としてしまったようですね。申し訳ない」


 「……蝿人間? 何の話をしているんだ? いや、お前は何者なんだ? 」


 「フーム」と声の主は少しの間、静かに黙った。「……あなたは本当に記憶がないのですね」


 「本当に勘弁してくれよ。もうこりごりだ。特に蝿なんて! 」


 「我が子よ、あまり怒らないでください。そうじゃなくたって、蝿人間は感情が高ぶると取り返しがつかなくなるのに。できるだけ、必要なことだけを分かりやすく話しますから」


 「頼むよ。どうせ、僕の想像なんだ」


 「ありがとうございます、我が子よ。まず始めに説明しなければならないのは、私はあっちの世界の住人であるということです。あっちとは、こっちではない世界として認識しておいてください。すみませんね、これはこっちの世界では言語化できなくて説明が不可能なんです。そうですね、敢えて言うならば、火の中にいるマントヒヒのようなものです。ほら、わからないでしょう? 」


 「ああ」と僕は言った。「一つも頭に入ってこない」


 「ええ、そうでしょうね。しかし、あなたもいずれ全てを理解できます。それは感覚的に訪れるのです。だから、今のあなたはこれだけを知っておけば良いのです」


 そいつはそう言って、机の引き出しからメモ帳を取り出し、一枚だけ破った。そのあとペンを持って、何かを書いた。そして、それを僕に手渡した。汚くて、乱暴に書きなぐったような字だ。それでも、なんとか読み取れないこともなかった。僕はその文章をぼんやりとしながら読んだ。


 

 ~あなたが知っておくべき5つのこと~


 1. 私はあなたの父である。


 2. 私はあっちの世界の住民である。


 3. 私は男の蝿人間である。


 4. 私は誰よりもマシな蝿人間である。


 5. 私はあなたの味方である。


 


 味方……味方か、と僕は呟いた。その言葉が頭の中で数回繰り返し聞こえた。そうか、敵だけじゃないんだ。そして僕は蝿の男を見つめた。そうすると彼は少しだけ、照れたように手をもじもじと擦り合わせた。顔は蝿そのものなのに、どこか困っているようにも見えた。ぶんぶんと羽を震わせ、そのせいでシルクハットが落ちかけた。


 「……本当に味方になってくれるのか? なあ、どうなんだよ? 」


 「ええ、我が子よ」と蝿の男は頷いた。「私はあなたの味方ですとも」


 彼はもう一度頷くと、僕にコーヒーを勧めた。マグカップには溢れそうなほど注がれていた。それを一口だけ啜ると、蝿の男は優しい声で言った。


 「さあ、もうお行きなさい。お前にはするべきことがあるでしょう。眠るのはあっちの世界に帰ってからでも間に合います」


 「するべきこと? 」


 「隠すのです。そして逃げるのです。そのために最良を望んで最悪に備えるのです」蝿の男は言った。「さあ、もう序曲はおわりました。これからが本当のあなたの物語です。そして私とあなたの新たな殺人計画もこれから始まります」


 僕は首をかしげた。彼が何を言いたいのか、そして何を言っているのかわからなかった。そもそも、こいつはどこから沸いて出たのだろう。これは幻覚なのか、はたまた夢なのか。少なくとも、今までこのような幻想的な生物を想像したことはなかった。


 「なあ、お前は誰なんだ? せめて名前を教えてくれ」


 「ああ、そうでした」


 蝿の男は手を叩くと、シルクハットを頭から外して、丁寧にお辞儀をする。


 「私はあらゆる世界で蝿の父を勤めております」と彼は言った。「名前はグレゴール・キング」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ