35 グレゴール・キング
一人になって喫煙所に寄った。狭くて、暗い一室だ。僕は煙草に火を点けて、肺一杯に吸った。揺れる煙を眺めながら、瞼を重そうに閉じた。どれぐらいの間、そうしてたかわからない。気がつくと、閉じている瞼が温かくて、ほんのりと湿っていた。
「お目覚めですか」という声が聞こえた。「ここはあなたの部屋です。あなたはベッドで寝ています」
それは知っている声だった。低くて、まるで内側から語りかけるような雑音混じりの音。しかし顔がちっとも思い付かない。誰なんだろう、こいつは。
「今、コーヒーを淹れてますからね」
「すみません、どうやら寝ていたようですね」と僕は言って、瞼を開けた。「……あなたは? 」
しかし顔にタオルが乗っていて、白い生地しか見えなかった。僕はそれを取ると、声の主を探した。声の主はシルクハットを被り、木の杖を持って後ろを向いていた。目玉は丸くて赤色で、外に横向きで飛び出ていた。背中には透明な羽があり、綺麗に折り畳まれている。僕は長らくその羽を不思議そうに見ていた。しかし、次第にゴポゴポとコーヒーが煮えたぎる音が聞こえると、声の主が振り返った。僕はぎょっとして叫んだ。
「あまり驚かないでください、我が子よ」と声の主は諭すように言った。「私は人間です。蝿でもあるだけで……」
「これは夢なのかな? 」と僕は言った。「君の顔が蝿に見えるのだけれど……」
「いえ、紛れもなく現実です。あなたは信じられないでしょうが、私は実在しているのです。そんな悲しいことを言わないでいただきたい」
だまれ、と僕は呟いた。頭に手をやって、髪を引っ張った。
「やっぱり、僕はおかしいんだ。長倉 理沙の言う通りだった」
「たしかに、あなたは少しおかしい」と声の主が言った。「今まで側でずっと語りかけてきたのに、私に気づけないなんて。寂しかったです、我が子よ」
「我が子? 俺がお前の? 」
「ええ、我が子よ。私はお前の父です。信じられないでしょうが、お前は私の卵から還った一匹の蝿人間です。しかし、数多の卵を管理するうちに、こちらの世界に落としてしまったようですね。申し訳ない」
「……蝿人間? 何の話をしているんだ? いや、お前は何者なんだ? 」
「フーム」と声の主は少しの間、静かに黙った。「……あなたは本当に記憶がないのですね」
「本当に勘弁してくれよ。もうこりごりだ。特に蝿なんて! 」
「我が子よ、あまり怒らないでください。そうじゃなくたって、蝿人間は感情が高ぶると取り返しがつかなくなるのに。できるだけ、必要なことだけを分かりやすく話しますから」
「頼むよ。どうせ、僕の想像なんだ」
「ありがとうございます、我が子よ。まず始めに説明しなければならないのは、私はあっちの世界の住人であるということです。あっちとは、こっちではない世界として認識しておいてください。すみませんね、これはこっちの世界では言語化できなくて説明が不可能なんです。そうですね、敢えて言うならば、火の中にいるマントヒヒのようなものです。ほら、わからないでしょう? 」
「ああ」と僕は言った。「一つも頭に入ってこない」
「ええ、そうでしょうね。しかし、あなたもいずれ全てを理解できます。それは感覚的に訪れるのです。だから、今のあなたはこれだけを知っておけば良いのです」
そいつはそう言って、机の引き出しからメモ帳を取り出し、一枚だけ破った。そのあとペンを持って、何かを書いた。そして、それを僕に手渡した。汚くて、乱暴に書きなぐったような字だ。それでも、なんとか読み取れないこともなかった。僕はその文章をぼんやりとしながら読んだ。
~あなたが知っておくべき5つのこと~
1. 私はあなたの父である。
2. 私はあっちの世界の住民である。
3. 私は男の蝿人間である。
4. 私は誰よりもマシな蝿人間である。
5. 私はあなたの味方である。
味方……味方か、と僕は呟いた。その言葉が頭の中で数回繰り返し聞こえた。そうか、敵だけじゃないんだ。そして僕は蝿の男を見つめた。そうすると彼は少しだけ、照れたように手をもじもじと擦り合わせた。顔は蝿そのものなのに、どこか困っているようにも見えた。ぶんぶんと羽を震わせ、そのせいでシルクハットが落ちかけた。
「……本当に味方になってくれるのか? なあ、どうなんだよ? 」
「ええ、我が子よ」と蝿の男は頷いた。「私はあなたの味方ですとも」
彼はもう一度頷くと、僕にコーヒーを勧めた。マグカップには溢れそうなほど注がれていた。それを一口だけ啜ると、蝿の男は優しい声で言った。
「さあ、もうお行きなさい。お前にはするべきことがあるでしょう。眠るのはあっちの世界に帰ってからでも間に合います」
「するべきこと? 」
「隠すのです。そして逃げるのです。そのために最良を望んで最悪に備えるのです」蝿の男は言った。「さあ、もう序曲はおわりました。これからが本当のあなたの物語です。そして私とあなたの新たな殺人計画もこれから始まります」
僕は首をかしげた。彼が何を言いたいのか、そして何を言っているのかわからなかった。そもそも、こいつはどこから沸いて出たのだろう。これは幻覚なのか、はたまた夢なのか。少なくとも、今までこのような幻想的な生物を想像したことはなかった。
「なあ、お前は誰なんだ? せめて名前を教えてくれ」
「ああ、そうでした」
蝿の男は手を叩くと、シルクハットを頭から外して、丁寧にお辞儀をする。
「私はあらゆる世界で蝿の父を勤めております」と彼は言った。「名前はグレゴール・キング」




