31 血も滴るステーキ
「とにかく」と彼女は言った。「私は食事中なんですよ。しかも食べているのは血も滴るステーキ。こいつは胡椒に合うが、死人が絡むと吐き気がする」
羽黒は肩をすくめた。それから細い顎にゆっくりと一差し指を当てて何度か叩いた。
「この船で人が殺されたんです」と彼は真剣に言った。
「知ってますよ」と彼女はぶっきらぼうに答えた。「さっき聞きましたから」
「もしかすると、あなたが殺されていたかもしれない。あるいは次はあなたかもしれない。それはご存じで? 」
彼女は肩をすくめた。そして軽やかに頭が垂れて、すぐに持ち上がった。
「恐ろしいことです。刑事さんに早くなんとかしてほしいもんだ」
「刑事はいます。しかし、一人だけですが。それに捕まえるのは得意ですが、捜査に向いているわけではない」
「どのみち、私の出る幕ではない」
彼女はそう言って、ワインを見つめた。赤紫色の液体はグラスの半分まで減っている。少しだけつまらなさそうな顔をつくった。
「なぜ? 」と羽黒はゆっくり訊いた。「僕にはそう思えないけど」
「三つの理由があります。一つ目は私は酒を飲んでしまった。二つ目は私は警官と反りが合わない。自腹で払ってまで旅行に来たのに腹を立たせたくはない」
「三つ目は? 」
「私は役には立てない。というのも、あなたとは全く違う世界に住んでいるのです。私には布切れを見て、事件を解明するような芸当はできない。もし解明したとしても、その根拠を明確には提示できないでしょう。基本的にシャーロックホームズ的な人間ではないのです。もちろん、彼より優れている部分はあります。ある程度の推理だってできます。しかし、どちらにしても警官にさえ劣る。個人レベルでは別として、組織である彼らの見逃すものが、私に見つけられるような場面はありません。私が輝くのはもっと限定的な場面においてでしかない。それは組織ではないが故の自由の獲得にあります。だが、その自由で抗うことは骨が折れる行為だ。文字通りね」
羽黒は静に聞いていた。唇はしっかり閉じていた。そしてしばらく目を瞑ったあと、ぱっと見開いた。
「一人でも力が欲しいところなんです」
「それは警官の仕事だ。私ではない。ましてや君でもね」
「僕はやれるからやっているだけです。誰かがやらなければならない。だとすれば、力があるものが働かなければならないでしょう。その事について、僕には責務を感じています」
彼女はぱちぱちと拍手をした。口元は嘲るように歪んでいる。
「素晴らしい心構えです。しかし私は素行の悪い人間ですし、これっぽっちも責務なんか感じてない。私の仕事は煩わしい離婚問題や、駆け落ちした家出娘を取り扱うことなんです。しょっぱい仕事だ」
「取り敢えず、見るだけでもどうですか? 興味が湧くかも」
彼女は唇を尖らせてから、ゆっくりと項垂れた。テーブルがわずかに揺れて、ワインに波紋をつくった。
「……なぜ、そこまで私を買うかな? なんにも役にも立たないのに。そもそも、立とうとさえ思ってない」
「そういう勘があるんです。理論的ではありませんが、確信に似ているものを感じています」




