23 羽黒祐介の微笑
「……ボーイ姿の男」
羽黒はそう呟いて、小さく微笑した。そして椅子に腰を落ち着かせると、一差し指で肘掛けを叩いた。トン、トトン、トン。それは何かのルーティーンのようであり、合図のようだった。
「あなたはその人を見たんですか? 」と羽黒は言った。「どうなんです、倫助さん? 」
いや、と僕は言った。咄嗟に出た言葉だった。できるだけ自然体でいなければ、という使命感で頭が一杯だった。
「いや、当然見てませんよ。だって、三時から四時の間は自分の部屋に籠っていましたし。ちっとも知りませんでした」
「なるほど、自分の部屋にいたわけですか。だからあなたはボーイ姿の男を見ていないし、顔も知るわけがない」
「ええ」と僕は言った。
受け答えにミスがあったとは思えない。できるだけ、当たり障りのないことしか言わなかったはずだ。だが、この男の目を見ると、全てを見透かされたような気分になった。それは根来のように威圧感が見え隠れする怖さからではない。もっと巧妙で狡猾なやり方からだ。自分が彼の思惑通りに従っている気がしてならなかった。こいつは雨を見ただけで、川の存在を知り、ついには海まで理解できるような気味悪さがあったのだ。
「そういえば、根来さん」彼は思い出したように言った。「本部へ連絡をしなくて良かったんですか? なんたってこいつは殺人なんだから」
「……お前がその心配をするのかよ」と根来はため息混じりに言って、出口へと進んだ。「少し話してくる」
すぐにドアが閉まり、オートロックで施錠される音が聞こえる。部屋の空間が一気に広くなったような気がした。
羽黒は言った。
「ハワイは諦めるべきかもしれませんね」
「どうして? 」
「国際問題に発展させるわけにはいきませんから」
「……困りますね」とハワードは顔をしかめた。「うちは大損害だ」
「仕方ないことですよ。このまま、ハワイにいく方が大問題ですし。マトモな判断だったらこのまま港に戻るでしょう。まあ、既に根来さんが絡んでいるのだからどうなるかわからないけど」
「どういうことですか? 」と僕はつい口を挟んだ。
「刑事の根来さんがたまたま乗り合わせたことが疑問に思いましてね。僕と結構付き合いも長いのに、旅行の経緯について話をしてくれないし、少し態度がおかしい。ということは、だいたい仕事が関係していて、あまり面白くないことを上から押し付けられているのでしょうが。……つまりは話が出来すぎている、ということです。まるで誰かがこの舞台を用意したようだ」
「じゃあ、この事件を警察組織は予測していたと? 」
「それは違うでしょうね。しかし、なんらかの危険性は把握していたのかもしれません。それで根来さんがその役割に抜擢された、ということです」
「なぜ、そこまでのことがわかるのですか? ……というのも、あなたが何故そこまで自信を持てるのか不思議なんです 」
「まず、第一に根来さんは海がそこまで好きじゃありません。第二に、一人じゃ豪華客船に乗ったりはしないでしょう。きっと、一人しか乗れないのだったら、切符を娘さんにプレゼントするような人です」
羽黒はそう言うと、にやりと笑った。僕は口を開き、言葉を発しようとした。しかし、そのタイミングを狙ったかのように彼は話を続けた。
「こんなの憶測でしかない」と彼は言った。「そうですよ、倫助さん」
どくん、と鼓動が激しくなった。背筋が冷たくなった。目の前のいる人間の素性が余計にわからなくなっていた。関われば関われるほど、イメージが難解になっていく。
「……なぜ、僕が言おうとしたことを? 」と僕は言った。
「偶然でしょう」と彼はにやりと笑った。「ラッキーでした」
それから彼はハワードに視線を向けると、小難しそうな顔をつくった。こうした方が話が進みやすいんだからと、敢えてそうしたようだった。
「それとハワードさん。問題はまだあって、ここで死人が出たことをどう処理するかですが……どうします? 」
「そんなこと乗客には伝えることはできません。……パニックにさせるわけにはいきませんから」
「僕もそれに賛成です」と彼はぽん、と手を叩いた。
これで一旦話を終えましょう、という感じで。彼の目は緩やかに細くなった。
 




