2 明智光秀
僕は、帰りの車の中で、悲しみに襲われていた。それは、彼の傲慢な態度を目の当たりにしたためだった。
「あんなもの、予想通りの反応じゃないか……」
僕はそう呟いた。その通りだ。それでも、僕の心のどこか片隅にはまだ、彼を信じたいという気持ちが残されていたのかもしれない。それは、清蔵に対する最後の期待だった。だが、それも今や裏切られた。
ポツポツと小雨が降ってきていた。雨粒は車の窓ガラスに当たると、雫となって流れ落ちた。車内は、空気が湿っていて、エアコンの風の音ばかりが響いていた。外の景色は雨雲のせいで薄暗く淀んでいた。流れてゆくビルすらも色が濁って見えてくるのだった。
清蔵の恥知らずな言動を間近に見ると、とても彼を人間とは思えなくなるのだった。いや、人間と思いたくないのだ。嫌悪感というか、失望というか、訳もわからない不快な感情が僕の心中をかき乱してゆくのだった。
僕は思う。清蔵は蛆虫のようなものだ。一歩譲っても、爬虫類か、両生類か、せいぜいそれぐらいの生命なのだ。そう思うと、かえってトカゲや蛙に申し訳ない気がしてくる。反吐が出そうになる。
「しかし、全てがもうすぐ終わる」
僕は悲しげに呟いた。返事は返ってこない。だけど、これで良かったんだ。もしも清蔵が少しでも人間らしい暖かい言葉をかけてきたなら、僕はこの計画を思い止まっていたかもしれない。そうだ。全て上手くいっているのだ。そして、僕はもう後戻りなんてできないんだ。
僕は帰宅する途中、ビルの間に小さな神社を見つけて停車した。朱色の鳥居が、僕の心に平安をもたらしてくれそうな雰囲気をもっていた。
神頼みをするつもりなんて、さらさらなかった。だけど、運命というものは、どんなに緻密な計画を立てたところで、測りかねるものじゃない。それが無性に恐ろしくて、こうして、神社を前にするとおみくじを引かずにはいられなくなった。
僕は、おみくじを引いた。凶だった。二回引いた。今度は大凶だった。
「不吉だな」
そういえば、明智光秀が本能寺に攻め入る前に、神社に立ち寄っておみくじを引いたという話がある。その結果は、今の僕と似たような散々なものだった。考えてみれば、それが彼の不幸な未来を暗示していた。
「明智光秀か……」
だけど、おみくじの結果を信じるのはもう止めよう。だって、清蔵は織田信長ではないし、僕は明智光秀じゃない。豪華客船は本能寺ではないし、したがって山崎の合戦も起こりえないのだ。
僕はおみくじをポケットにねじ込むのと同時に、ポケットから一枚の乗船券を取り出した。
そこに描かれていたのは、クリスタル・ファースト・エンペラー号という、やたら長ったらしい名前の豪華客船だった。外国人はこれをCFEと略し、日本人はただ単にエンペラー号と略する。
これは清蔵に与えたものと同じチケットだった。僕はこの豪華客船の中で清蔵と再会することだろう。その時、僕の計画の通りに彼は殺されるのだ。
この豪華客船が本能寺かって? 止めてくれよと、僕は思い直した。縁起でもない。