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グレゴール・キング殺人事件  作者: ナツ & Kan
15/64

15 初めてにしてはね

 インターホンを押した。重くて、長くて、煩わしい音だった。中から呻き声が聞こえて、少ししてから清蔵が出てきた。その顔色は悪くて、眉毛が下がっていた。

 

 「入れ」

 

 彼はそう言って何回か咳をすると、部屋に招いてくれた。それはさも当然のように振る舞っていた。バレたか、と僕は思った。鼓動が激しくなった。

 

 しかし、そのあとも彼は僕の姿なんて見えてもいないように振る舞っていた。あるいは誰であろうとどうでもよかったのかもしれない。彼の頭も限りなくポンコツになりかけているのだろう。僕が椅子に座ろうとしている間、彼が壁に向かって独り言を呟いている姿を見てほっと安心した。今は現実にいないと確信できた。

 

 「気分が悪いんですか? 」と僕は訊いた。「唇が紫色になってますよ」


 「ああ、さっき転んだせいかもな。変なところを頭にぶつけちまったようだ。船員に応急手当てをしてもらったが、あっちに行ったら医者に見てもらうことにするよ」

 

 彼も席に座ると、ぼんやりとした口調で言った。瞼が半分閉じかけて、頭が少しだけ前方に垂れている。振り子のように肩は左右に揺れていた。

 

 「……ああ、理彩が寝室で寝てるんだった。大きな音は立てないでくれよ? 」

 

 「ええ、わかりました」

 

 「俺も少し寝むたいな。なあ、どうだろうか? 」

 

 「ちゃんと横にいます」

 

 「助かるな」

 

 彼は瞼をカーテンのようにさっと下ろした。僕は懐にある包丁をこっそり握り直すと、寝息が聞こえるのを待った。しかし、清蔵は瞬間的に目を見開いた。その瞳はじっくり僕を観察していた。左から右に視線を移し、僕の握っている包丁の柄を確認すると、彼は大きな声で言った。怒鳴るようでもなく、歓喜するようでもなく、たまたま喉の調子が悪くて大きくなってしまっただけのようだった。

 

 「俺を殺そうとしているようだな!! 」

 

 それから彼は黙った。何の動きもなく、視線だけで僕の小さな心臓を鷲掴みにしていた。すべてを見透かされている気分になった。

 

 「そうですよ」と僕は震えながら言った。「おそらくそうなんです」


 彼はコクりと頷いた。別に逃げるような感じはまったくなかった。それから口元に手をやって、数回咳をすると、吐血でもしたらしく、ぼんやりとその手を見ていた。そのあと両手を擦り合わせると、椅子の肘掛けに指を立てて、不規則に――しかし何らかの法則があるように――動かした。

 

 「……お前は可哀想な子だよ」と彼は弱々しい声で言った。「全てが裏目に出ちまうようだ」

 

 「それはどういうことですか? 」

 

 彼はそれに答えようとせず、瞼を再び閉じた。肘掛けに腕を置いて、肩の力をだらんと抜いた。その顔は真っ白になっていたし、一切の表情が削ぎ落とされていた。寝息すら聞こえない。おだやかで、静かに落ち着いた調子だ。もう彼は死んでいるのかもしれない。あるいはもう起きないのかもしれない。少なくとも通常の状態ではなかった。

 

 ――最後の一撃をくれてやりなさい

 

 僕は頷くと、ゆっくり腰を上げて席から立った。包丁を抜き出し、それを清蔵に向けた。もう起きそうにないか、包丁で彼の頬をぺちぺちと叩いてみた。反応は何もなく、ピクリともしなかった。そのまま、包丁の刃を首筋に移動させると、僕はそれを先っちょだけ突き刺した。ぷくりと赤い珠のような血が傷口から出てきた。さらに奥に押し込むと、ぶちぶちという肉が裂ける感触が柄から伝わった。僕はそのまま刃の根本までゆっくりと刺し込んだ。白いシャツが赤く染まった。

 

 部屋は酷い有り様に変わった。

 

 錆びた鉄の臭いが充満し、血で濡れた包丁がぽたぽたと絨毯を汚していた。清蔵の首からは血がまだ溢れ出ている。

 

 赤、赤、赤と僕は呟いて、口元を押さえた。喉元が焼けるように痛くなった。胃酸が上ってくる感覚があった。そのまま全てをぶちまけかったが、なんとか飲み込んだ。僕は口元に垂れた唾液を袖で拭うと、清蔵のだらんとした右手首を包丁で持ち上げた。趣味の悪い金色の腕時計を巻いていた。僕はそれの時間を少しだけずらすと、包丁で勢いよく突き刺した。最初は白い線のような傷ができるだけだった。そのあとヒビが入り、次第にチクタクという音は聞こえなくなった。

 

 ――もう終わりましたか?

 

 声が聞こえた。僕は変な風に曲がった右手首を元の位置に戻すと、静かに天井に向かって言った。

 

 「終わったよ」

 

 ――見落としたところはありませんでしたか?

 

 「ないよ」

 

 ――上手くやれましたか?

 

 「初めてにしてはね」

 

 それを最後に声は聞こえなくなった。僕は音を立てないように外に出た。清蔵の濁った目はずっとドアの方に向いていた。そして僕は部屋に戻った。酒をたらふく飲んだが、どうにもあの目のことは忘れそうにはなかった。海の端からは太陽が見えていた。

 

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