10 映画館のカールおじさん
僕は息をついた。何にせよ、長倉 理彩の指紋がついた出刃を手に入れたというわけだ。どんな犯罪を犯しても、疑われるのは彼女ということだ。残酷じゃないかって? 残酷だとも。僕は潜在的に、ひどく残酷な本能をもっているのかもしれないのだ。それが悪いことかって? 悪いことには違いないさ。だけど、僕は思うんだ。そもそも、人間の内面にはそうした本能があるものなんだよ。
僕は立ち上がると、ふらふらとした足取りで、豪華客船を散策することにした。しばらく歩いて、劇場の入り口を素通りすると、突き当たりに、紫色に照らし出された映画館の入り口があった。僕は、売店でキャラメルポップコーンとコーラをもらうと、映画のタイトルも見ないで、劇場に入った。
そして、僕はあえて一番後ろの席に座って、ぼんやりと白黒のその映画を見ることにした。映画は、フランスの国歌が流れて、すぐにモロッコのシーンになった。俳優のハンフリー・ボガードが何やら頑張っているなと思っていたが、ストーリーはまったく頭に入ってこなかった。この映画の内容が、頭に入ってきて心から楽しめる日は、犯罪を行おうとしている今も、そして、犯罪を行った後にも訪れるものか分からなかった。
僕はひどく不安になった。落ち着かなくてまわりを見渡せば、あまり人がいないようだったのだが、僕の隣の席には、口ひげを生やした英国紳士風の男性が座っていた。イギリス人だろうか。
「お若い方……、この映画をどう思いますか?」
「えっ」
口ひげの男性は、瞳を輝かせながら、僕に話しかけてきた。
「私は通りすがりの映画評論家です。カール・ハリデイと申します。カールおじさんと呼んでください。ところで、あなたの名前は……?」
「えっ、黒田倫助です……」
僕は困ってしまった。映画の上映中に、こんなに堂々と話しかけてくる人も風変わりなものだ。
「今時の若い方は、昔の映画を見ませんからね。あなたは立派だ。そう思いますよ。本当ですよ。この映画はね、「カサブランカ」っていう映画なんです。最後は感動しますよ」
「有名な映画ですか」
カールおじさんという紳士は深く頷くと、こちらを見て、にやりと笑った。
「映画は好きですか?」
「ええ」
「もし良かったら、僕の部屋に遊びに来てください。映画の話が山ほどあるんです。あなたとは気が合いそうだ。私の部屋は、302号室ですから……」
「わかりました」
僕は、適当に愛想笑いを浮かべると、そのカールおじさんという紳士も満足したように、再びスクリーンに向き直った。僕も、少しほっとした気持ちで、大スクリーンに映った美しい女優の顔を見つめた。
その時、僕はギョッとした。
302号室……?
なんということだ。僕はたった今、殺人を行おうとしている部屋の、隣の部屋の住人に顔を覚えられてしまったのだ。




