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蒼sou  作者: 櫻木 馨
7/14

no.7


* 殻 *



目が覚めると、頬が濡れている事に気づいた。


「泣いちゃったのか…」


昨夜あのまま寝てしまったのか。ヒスイは、いつまでいてくれたんだろう?


起き上がると、部屋には私一人で、開けっ放しにしていたドアもきちんと閉じられていた。

部屋を出て、バスルームへ向かう。まだ誰も起きていないようで、研究所の中は薄暗い。


バスルームの洗面台の明かりをつけて、鏡を見た。




「―――――――――ッ」




映っているのは、おそらく、ソウ。


昨日よりも濃い蒼の髪、同じく濃い蒼の瞳、透けるように白い肌の顔つきはわずかに残っていたアオイの面影も消えている。顔をなぞる手も大きく長い指。

思わず、着ていた服を脱ぎ捨てた。

完全に無性ーsexless[セクスレス]の身体。まるで人形のような。



「これが…ソウ…」



声を出して、その声にも驚いた。

昨日までは完全に自分の、アオイの声だったのに。

幾分低くなった、紛れもない、ソウの声。


私の本体…。



呆然としたまま、シャワーを浴びる。

今までと全く違う身体の感触。おそらく、背丈も完全に戻っているのだろう。

長い腕を伸ばせば、バスルームの天井に手が届いてしまう。



もう、私の…アオイの外見は、完全に消えてしまった。こんなに早く。まだこちらに来て1週間しか経っていないのに。



こちらに来る時は、私の居場所が他にあると聞いて、少なからず興奮していた。なんとなく居場所が落ち着かなかった理由がわかって、嬉しかったのだ。

私らしく振る舞える場所、私を必要としている場所が欲しかったから。



「私は…アオイは…ここに戻るまでの間、ソウを護る為の、偽りの人格…」



ザアッと身体に掛かるシャワーの音が、周りと自分を遮断しているような気持ちにさせる。


「もうこちらに戻った。身体もお前のものだ…。なぜひと息に私を消さないんだ…?」


頭の中の、この身体の持ち主に問いかけた――――。




ぞんざいに身体を拭いて、下だけ服を着てバスルームを出た。sexlessとは、便利なものだ。女として生活していたのが苦痛だったわけでもないが、なるほど、こちらの身体が本物なのだという実感がわいた。ぎこちなさが全くない。


肩にタオルをかけたまま、キッチンに行って、コーヒーを沸かす。

初めてキッチンのものを触るのに、どこに何があるのかがわかっているかのように身体が動く。


この身体が、覚えているのだ。

嫌が応にも、思い知らされる。


この容れ物がアオイのものではない事に。




コーヒーをカップに注ぎ、身体はヒスイの部屋へと向かった。

もう、自分の意志なのか身体の意志なのか、わからなかった。

ヒスイは起きたかな、と考えただけで、身体はそちらへ向かって動き出すのだ。

見て確かめればいいじゃないか、とでも言うように。


控え目にノックしてドアを静かに開けると、ヒスイはまだ寝ていた。

静かな部屋に、ヒスイの寝息がかすかに満ちていて、なんとなく胸がキュウと締め付けられた。


コーヒーを飲みながら彼の眠るベッドの端に座り、初めて見るヒスイの寝顔に魅入る。

相変わらず美しい顔立ちの王子の寝顔―――。


この人の月色の瞳に、私はどう映っていたんだろうか…。

消えてしまった、都築蒼の姿を知っているのは、もうこの人だけになってしまった。


私を知る唯一の人。


ソウが必要だ、と言っていた。時間を越えてこの身体を探して、何の力も持っていない、空の身体を、危険を承知で持ち帰った。

この人も、私が消えるのを望んでいるんだろうか…。




言いようのない寂しさが込み上げる。



「ヒスイ…」



寝ている彼にもたれ掛かって、名を呼んだ。

長い睫毛が何度か瞬き、眠そうに身じろぐ。


「ヒスイ…」


もう一度呼んで、髪を撫でた。栗色の髪は見た目通りの繊細な、柔らかな感触。


そして、暁月翠という彼に出逢ってから、胸の内に生まれていたもどかしい感覚に、今になって気づかされる。



ああ、私はこの人のことが好きなのか…。



自分が消えるかもしれないという時になって気づくとは…我ながら自虐的というか…。



「ん……アオイ?どうしたの…」


モゾモゾと寝返りを繰り返しながら、ヒスイが目を覚ます。


「ははッ…ナイトのくせに、寝起きが悪いよね」


ソウの声で、ソウの手で、ヒスイを起こす。

ぼんやりと瞳をこちらに向けたヒスイは、一瞬の間を置いて、飛び起きた。


「う…わ………ア、アオイなの?」


正直、驚いた。


これまでさんざんソウの覚醒を願っていた彼の事だから、ソウの姿に完全に戻った事を手放しで喜ぶのだろうと思っていたから。

昨夜の話を覚えていてくれたのか、そうでないにしてもこの状態で一言目にアオイを気遣ってくれたのがたまらなく嬉しかった。



「もう、完全に外側が戻っちゃったよ」



苦笑してそう告げると、ヒスイは複雑そうな顔をして笑った。


「ドクターの分析は正確だなあ…。可愛かったのになあ」


「もう、以前の私を知ってる人はヒスイだけだよ」


「あ、ホントだ。僕が、アオイの存在の証人なのか」


「ちゃんと最後まで見届けてよ?」


「当然。こうなったのも僕の責任なんだ。最後まで、君を護るよ」



胸の内がカッと熱くなって、眼を合わせる事が出来なかった。




寝起きのドクター・ユアンが一瞬驚いて、満足そうな笑みを浮かべた。


「分析通りだな。あとで検体させてくれるね?」


「お願いします」


「中身はしっかりアオイなんだな?」


「そのようですよ」


朝食はヒスイが準備してくれた。

といっても、例のレンジに小さなパッケージの中身を入れて取り出すだけのパンケーキにサラダ、豆のスープなど。

私の前には、気を使ってか、ミント水を入れたグラスが置かれている。


「午後は、フォーブスが来るから護身術の訓練だよ」


「わかった」


努めて明るく振る舞おうとしたが、自然と口数が少なくなってしまう。

興味深げに観察しているドクターの視線が、正直、鬱陶しく感じられた。



朝食の後、ドクターの検体を受ける。


階下の研究室へ降りて、躊躇なく服を脱ぎ捨ててベッドに横たわった。

ふうん、というドクターの笑みと共に、身体の周りを緑の光が走った。


「178センチ、67キログラム。完全に体格は戻った。色素サンプル、細胞サンプル、血液サンプルをいただくよ」


髪の毛、皮膚、血液がサンプリングされる。

次に、体中に電極が取り付けられて、心電図と脳波を測定。それから麻酔が打たれ、睡眠時のデータが取られる。そのままCTスキャンで内臓の状態を確認する。


約一時間程度のサンプリングを終えて、ぼんやりとした頭で服を着て部屋に戻った。30分もすれば、この身体が誰のものであるかが証明されてしまう。


なんとなく憂鬱な気分でベッドに沈み込んでいると、開けっ放しのドアをノックして、ヒスイとフォーブスが現れた。


「具合悪いの?大丈夫?」


「ん、いや、ちょっと麻酔が抜けきれなくって…」


実際、そうだった。麻酔のせいでぼんやりともやがかったような感じで、よけいに暗く考えてしまっている。


「しかしまあ、惜しいもんだな」


フォーブスが言った。


「可愛かったのになあ…」


「…なにを……ソウに戻れって言ったのはそっちでしょう?」


「確かに言ったけどなぁ…」


しみじみと眺めながら私を惜しんでくれるのが、ちょっと嬉しかった。

ごろん、と仰向けになってまともに顔を見せた。


「中身は戻ってないんだよ。オカマみたいだね」


言ってクスクス笑うと、フォーブスがきょとんとした。


「オカマってなんだ?」


今度はこっちがきょとんとした。

ヒスイが苦笑している。


「あ…こっちはそんな考え方ないんだっけ…」


無性であり、両性である世界は、ヒトがヒトであるという至ってシンプルな概念によって調和していた。




検体結果が出るまでの間、私の部屋でフォーブスの簡単な自己紹介が行われた。


「名前は知ってるだろう。俺はフォーブス。見ての通り、色素が極端に不足している。だから俺の’擬態’は限られた範囲しか出来ない」


「たとえば?」


「うん、同じ色素状態の人物か、老人が主だな」


「なるほど…他に何ができるの?」


「俺の能力は少ない。’擬態’と’跳躍’、これは水平20m垂直10m。あと’潜水’が約30分、’自己再生’、’思念の視覚化’…こんなもんだ」


「思念の視覚化?」


「頭で考えた事を、ゴーストのように見せる事が出来る」


言って、フォーブスが眼を閉じた。何か考えている様子だ。

10秒程考え込んで、彼が眼を開けた。


すると、


私とヒスイの前に、ぼんやりと影が出来始めた。

影は次第に形を成し、やがて1人の人間の形に出来上がった。


「うわ…これ…」


「昨日までのアオイだね…そんなに印象深かったんだ」


まさに、ちょっと前の私だった。わずかに残った顔の印象。昨日初めて会ったあの一瞬で、ここまで鮮明に覚えている事に驚いた。


「俺の記憶力は半端じゃないんだ。だから、たとえ口がきけない状態になっても、これを使えば情報を渡す事が出来る」


「すごい…」


「フォブがすごいのは’能力’だけじゃないんだよ。剣術、武術、柔術、気功術をマスターしている。ソウも彼に武術を習ったんだ」


「上達早すぎて、手合わせで俺を負かす程になったんだぞ」


フォーブスがそう言って苦笑した。


「え、じゃあ一度習ってるのか…」


「だから、アオイの脳に情報が入ってしまえば、後は身体を動かすのは簡単だと思うよ」


「また俺屈辱を味わうのか…」


そう言って苦笑するフォーブスからは、なるほど、面倒見の良い兄貴分といった雰囲気が感じ取られた。


「ふふ、そうかも。ねえ、フォーブスはいくつなの?」


「俺か?俺は27歳だ。ソウと逢ったのは10年前。野生のカンだけで生きていたお前に戦闘を教えたんだ」


「その2年後に、10人の『ダブル』を1人で…」


「あれ、その話聞いたの?やだな、ドクターってば」


ヒスイがむくれた。


「聞くも何も、本人じゃないか」


「色々あるの!」


呆れ顔のフォーブスが肩を竦めた。





「キッチンに集合〜」


遠くからドクターの声が聞こえた。分析結果が出たようだ。

話していたおかげで、麻酔も抜け、気分もだいぶ持ち直していた。


キッチンへ入ると、4人分のお茶の準備がされていた。

各々席に着くと、ドクターはおもむろにフィルムをテーブルの中央に置いた。

指先でトト、と叩くと、フィルムの上にソウの…私の姿が現れた。


「帰還から6日と4時間。性識別±0。色素情報100%正常化完了。骨格情報100%正常化完了。筋繊維62%正常化完了。内臓機能情報89%正常化完了。」


「外見は完全にソウに戻った…と」


「筋繊維情報も、これからフォブの訓練を受ければすぐに回復するだろう。内臓情報も、明日にはフィルターなしで外出可能だ」



……とうとう証明されてしまった。目の前のホログラムがゆっくりと回転しながら結果を見せつけている。



「睡眠時の波形はどうだった?」


ヒスイが聞いた。


「それが、今回は完璧にアオイの脳波だけだったんだよ」


「へえ?そう言う場合もあるの?毎回出てるわけではないんだね」


「そのようだ。本人の精神状態やら、思考やら諸々関係しているからな。今現在はアオイがこの身体を支配していると言っていい」


思い当たる。今現在も私は、私が私である事を望んでいる。


「擬態した人格が、本体を乗っ取る可能性は?」


つい流れ出た言葉に、しまった、と思った。

3人が眼を見張って私を見た。

ドクターは眉間にしわを寄せている。


「アオイはアオイで居たいってことか?…というか、ソウの意識がない以上、擬態のソウ自身ではないという事だな」


「はい。私も昨夜気づきました。私は都筑蒼であって、ソウという人物の人格とは全くの別人ではないかと…」


「…別人なのか、異なる環境が育ててしまったもう1人のソウなのか」


ドクターは私の眼をじっと覗き込む。

ちら、とヒスイを伺い見ると、深刻に考え込んでいるようだ。フォーブスはただただ驚いているという感じだった。


「ヒスイ」


不意にドクターがヒスイを呼ぶ。瞳は私を捉えたまま。


「はい」


「こちらでソウの女性化に遭遇した事は?」


「……ない」


「他にそれを知る者は?」


「僕の知る限りではいない。おそらくグエルも」


「フォブは?」


「俺じゃ、有り得ないね」


ふう、と深く息を吐いてドクターは肩を竦めた。


「少しでも女性体のソウの情報があれば、もう少し見通しがつくんだがなあ…。私もこのケースには詳しくないから、他にこのエリアで専門家が見つかるまで経過をみる…というか、成り行きに任せる事しか出来ないな…」


「私が消えるか、ソウが消えるか…?」


「あるいはどちらも残るか、だ」


「…………」




「だあ!そしたらこうやって考えてたってだめだ!」


沈黙をフォブが破った。


「お前らが帰って来た以上、俺たちは前に進まなくちゃいけないんだ。でっかく考えろ。俺たち『マルチ』には、こいつの能力が必要なんだ。だったら、まず、こいつの身体を覚醒させなきゃならない。ソウが要らないわけじゃない。アオイじゃダメなわけでもない。この身体を動かす脳みそが健在なら、アオイにだって能力を使う事は出来る筈だ!」


紅い瞳が燃えるように見渡す。


この世界が欲しいのは、この身体に宿る力。『マルチ』に託された人類の可能性を拓く為に。今現在の自分たちだけでなく、これからの新しい人類の為に。その為に遺伝子情報を護り、発展させていく役目が私たちにはある。


壮大な価値観。



得心顔の二人をよそに、呆気にとられていると、ガシッとフォーブスが私の腕を掴んだ。


「いくぞ。今日は基本の体軸を叩き込んでやる」


「え、ちょ……?」


ほとんど引きずられるように、キッチンを後にした。

ヒスイがあわてて追ってくる。


ずんずんと研究所の玄関に向かっていく。


「フォーブス!ちょっと!フィルター置いて来ちゃったから!」


ドクターの分析では89%の内臓回復率だ。まだ呼吸器は完全ではない。

フィルターは部屋の服のポケットに入れたまま。というか、私はまだ上半身裸のままだ。


「そんなヤワな身体じゃない筈だ。あの野生児なら1割の可能性で十分だ」


低く静かに返す声には、得体の知れない自信があふれている。

助けを求めてヒスイを振り返るが、ヒスイも暗に賛同しているようで、ニコッと笑顔を向けられた。


シュン、と音がして扉が開く。むせるような緑の匂い。

一気に気管が締まる。


「……ッ…フォブ…!」


苦しい。気道がどんどん狭まっていく。

涙眼でフォーブスを見た。


「…ゆっくりだ」


「……?」


「眼を閉じて、ゆっくり鼻から吸い込め」


そんな事、言われても…。苦しくて吸い込むどころではない。むしろ有害な分子を吐き出したくてたまらない。


「眼を閉じるんだ。耳を澄ませ。この惑星の中心を感じて、大気の声を聞け」


止めるつもりはないらしい。観念して、眼を閉じる。

瞼の裏に地球の中心を想像する。


「頭で考えるなよ。感じるんだ」


フォーブスの忠告で頭を空にして耳を澄ませ、苦しいながらも呼吸を心掛ける。

耳に入ってくるのは、サワサワと木の葉が揺れる音。かすかな風が髪を揺らしているのがわかる。


「鼻からゆっくり深く吸い込め」


静かな声に言われるままに、緑の香りを感じながら鼻からゆっくりと吸い込んだ。


「いいぞ。そのまましばらく息を止めろ。肺に大気を取り込んで広げるイメージだ」


胸いっぱいに吸い込み、息を止める。狭くなった気道から入る空気はわずかなものだが、それでも徐々に肺に溜まっていく。胸にあるすべての細胞が、わずかな酸素を取り込んで膨らむようなイメージを描いてみた。


息を止める事は数秒しか続かないが、何度も繰り返しその作業を重ねていく。

無心に酸素を取り込んでいると、ある一瞬、あの洞窟の部屋にあった大樹が脳裏に浮かんだ。


大樹は水に半身を浸し、水中に大きく根を張り、大気に向かって大きく枝を広げる。足元から吸い上げた清い水がその幹を通り抜け、細かく分かれた枝葉を潤しながら、最後には大気へと還っていく。


そのイメージが完全になった瞬間、それまで狭く、苦しく感じていた気道が一気に広がり、大量の酸素が肺に送り込まれてきた。


「……!………ハアッ!ゴホッ」


―――――――息ができる。信じられない。



ものの10分程度で、細胞機能が回復してしまった。投薬するでもなく、描いたイメージのみで。

見ていたフォーブスとヒスイは顔を見合わせて、ニヤリと笑った。


「…何?」


呼吸を整えつつ問う。


「な?出来ただろう?」


満足げにフォーブスが笑う。


「アオイ、これが”思念”だよ。能力は、この思念の力を最大限に発揮する事で身体を状況に適応させるんだ」


ヒスイの言葉に、はっとした。

確かに、これまでの説明の中で、イメージや思念といった言葉は何度も聞いていた。そして、今実際に自分が『マルチ』の身体でそれを証明したのだ。


「これが…『マルチ』の力…」


「ああ、使えそうか?」


「え?」


「その身体を支配する意識は、どっちに転ぶかわからない。武術とか銃だけではこのエリアでは生きていけないんだ。少しずつでも『マルチ』の身体を使えるようになっておかないと、あっという間に捕獲されちまうぜ」


フォーブスは真剣に私の身を案じている。


「お前に死なれちゃ、『マルチ』は全滅だ」


「そんな大袈裟な…」


「それほどの遺伝子を持っているんだよ。君の身体」


柔らかな微笑みでヒスイが言った。








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