擬態
no.5
* 擬態 *
「やあ、ヒスイ。おかえり、ソウ」
ヒスイと私とに順に目線を向けて声を掛けた人は、ブロンドに碧眼の優しそうな女性だった。白くて長いジャケットを羽織り、長いブロンドの髪を後ろで無造作に束ねている。
「おはよう、ドクター」
「あの、よろしくお願いします」
どぎまぎして声をかけると、ドクターはクスクス笑っている。
「ほんとに記憶がないんだねえ。これが女性体のソウか。思ったより可愛いじゃない」
「そうなんだ。これでも外観はだいぶ戻ったんだけど、21世紀の頃はもっと可愛かったんだよ。ねえ、ドクター、お腹空かせてるんだけど」
「ああ、そうだったね。こっちにおいで。食事を用意してるからね」
優しく肩を押して、建物の奥に案内される。
奥にあるキッチンから、良い匂いが漂って来た。
「資料を読んで、21世紀風の朝食を作ってみたよ。パンに、ジャム、ソーセージ、スクランブルエッグ、カフェオレ、サラダ…日本の資料が手元になかったから、欧米風だけどね」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
思えば、もう何日も食事をしていないような気がして、並んだメニューに喉が鳴る。ヒスイと二人で席について、食事を始めた。
いただきます、と手を合わせるのを見て、ドクターが笑った。
「あの…ドクター…?」
「あは、ごめん。あまりにも元のソウとのギャップが激しくて…クックッ」
すっかり困ってしまってヒスイを見ると、ヒスイも笑いを堪えていた。
「ソウ、もう察しがつくと思うけど、君はかなり男らしい性分だったんだ。なんと言うか…野性的な…、やんちゃな…」
「クソボウズ…クックッ」
私を傷つけないように言葉を選ぶヒスイをよそに、絞り出すようにドクターが暴言を吐いた。
「ドクター!ソウはまだ女の子なんだから!」
「だって、記憶が戻ればいずれわかることじゃない。知っておいたほうが傷は浅くて済むと思うよ」
まだクスクスと笑いながら、ドクターが私を見る。
「あ、名前を言ってなかったね。私はユアン。ここで『マルチ』の能力と生態を研究している」
おもむろに差し出された手を握り返しながら、よろしく、と応えて、先ほどから気になっていた疑問をぶつけた。
「あの、さっきから、女性体とかまだ女の子なんだからって…ソウは男だったんですか?」
これを聞いて、ドクター・ユアンはヒスイと眼を合わせる。
「あんた、IS[アイエス]の説明しなかったの?」
「あ〜…してない。説明が難しくって…ドクターにお願いしようと思ってたから…mimic[ミミック]の説明だけ…」
「そう、じゃ、話は早いかも」
くるりと向き直り、カフェオレを一口飲んでドクターの顔に戻る。
「mimic…『擬態』については理解している?」
「あ、『擬態』なら…はい。私の髪の色がどんどん蒼くなっているのもそのひとつで、21世紀での生活に支障が出ないように、本能的に『擬態』して周りの人間と同等の日本人として変化したんだと…」
「よろしい。じゃ、さっきの質問にダイレクトに答えるとすれば、答えはNO」
「え、じゃあやっぱり女?」
「それも、NO。どちらでもない。でも、どちらでもある」
ピン、と指を立ててニヤリと笑う。
「IS[アイエス]すなわち、intersexual[インターセクシャル]、ソウが行ってたアオイの時代ではまだ一般には広くない言葉だったけれども、ここではこれが『マルチ』を繁栄させるマスター・キーになる」
「両性具有」
ヒスイが訳してくれる。
「両性…?ええ?」
とても食事をとりながらの話ではなくなってきた。食べかけのパンを皿に置いて、水を飲む。
「ソウの時代…ああ、ややこしいな。21世紀での名前は?」
「アオイ…」
「よし、記憶が戻るまでは、ここではアオイと呼ぶよ」
「はい」
「アオイのいた頃のIS[アイエス]の基本概念は、生殖器が男性器と女性器と両方ある。しかし、ここではより効率的に確実に繁殖活動を行えるように、しかもそれ以外の想定外の機会を与えないように、普段はsexless[セクスレス]つまり無性の状態となっていて、交配相手の性別や遺伝子的な性情報の優劣によって、sexless[セクスレス]からsexual[セクシャル]、有性、に変化する」
……完全に食欲を失ってしまった。
なんてこと。普段は無性別状態で、相手の性別に合わせて自分の性を決めるなんて!
「では、『マルチ』はバイセクシャルだらけ?」
「はは、そう言うことになるね。理解が早いな」
だから、さっきヒスイが「みんな中性的な顔立ち」と言ったのか…。
そして、私も中性的な身体と顔に戻る。
「か、身体の変化って…」
おそるおそる聞いてみた。
「単純。普段はツンツルテン。遺伝子交配に最適な相手が出来て、その人が男性的であれば、自分の身体が自然に反応して3日程度で女性器が現れる。相手には男性器が現れる。同性傾向だと、話し合ってそれぞれの性別を決めて『擬態』の作用で変化する」
「うわぁ…」
頭では理論的には理解できたけど、生理的に慣れるまでは時間がかかりそうだ。
「このシステムの良い所はね、限りある交配細胞を無駄にすることなく使うことが出来るってところ。強姦なんかの、当事者の意思を尊重しない交配のみをターゲットにした犯罪から自分を守れるし、『ダブル』に特有の、快楽のみを目的とした交配で交配細胞を無駄にすることもない」
「すべては、少ない種の繁栄のために…?」
「そう。頭良いのね。理解が早い」
でしょ、とヒスイの大きな瞳が笑った。
彼はこの手の話に慣れているのか、食事を一通り済ませ、カフェオレを飲み干している。
「あんたたち『マルチ』はまだ進化の途中。ネオヒューマノイドとして完成体に至るまでは、まだ時間が必要で、それまでは少しの情報細胞も無駄に出来ないんだよ」
ネオヒューマノイド…私たちが向かっているのはそこなのか。
それにしても、いくら進化途中とはいえ少々グロテスクだな…いや、生物として考えればそんなものかもしれない。人間って言ってもそんなに崇高なものじゃないし、他の生物より脳細胞が多いだけで、他に差はないんだし。
眉間にしわ寄せて、パンの皿を見つめながら考え込んでいる私に、ヒスイがグラスを差し出す。そこには例のミント水が注がれていた。
「ありがとう」
受け取って、一気に飲み干した。
相変わらず、思考が冴えわたる。
「性別の仕組みについては理解できましたが、私が21世紀で女性体だったのはなぜなんですか?」
「それも簡単。今でこそ、性別によって力の差はほぼなくなっているけど、アオイの時代では、まだまだ生物として女性は非力だ。逆に、男性で力のあるものはどうしても目立ってしまう。自分の遺伝子を守るために、目立たない女性に’擬態’したんだと推測できるね」
「でも、ヒスイは男でしたよ?」
「僕はsexless[セクスレス]のまま過ごしていたんだ。『マルチ』の力さえ使わなければ、あちらの男性とはほとんど変わらなかったんだよ。それに加えて、この顔だったし、どう見たって力があるようには見えないでしょう?」
「ソウは違った。sexless[セクスレス]の状態でも、幾分男性的な顔で、攻撃的な性格だったし、力も並外れている。意識があるまま着いていたら、間違いなく犯罪者になる。良かったよ。記憶無くしてて。こんな可愛くておとなしい子になれたんだから」
聞くこと聞くことがいちいち耳を疑うような話ばかりで、めまいがした。
「さあて、こちらの情報はこれくらいにして、アオイ、君の情報を診せてもらおうかな」
ドクターがおもむろに立ち上がり、私たちをキッチンから研究室へと案内する。
キッチンから通路を出て、右側の扉に入ると、そこには床にぽっかり穴が空いていて、螺旋階段が地下室へと続いていた。
建物が被害に遭っても、研究室は防護できるように、シェルターになっているという。
研究室には、パソコンらしき機械が4台と、検体用のベッド、CTスキャンのような大きな機械があり、カウンターの上にはモニタと検体用機材がずらりと並んでいた。
「服を脱いで、ベッドに座って」
「え、脱いでって、裸で?」
ヒスイもいるのに?と戸惑っていると
「ああ、まだ女性体だっけ。ヒスイ、シアタールームに行ってな。用があったらインタホンを鳴らすよ」
「はあい」
つまんない、的な返事を残してヒスイは螺旋階段を上って行った。
広い部屋で裸になるのはすごく不安だったが、自分の身に起きている変化をきちんと知りたい欲求が勝っていたので、腹を決めて服を脱いだ。
「まず、今の段階を眼で確認しなさい」
大きな鏡が天井から降りてきた。
自分の裸の姿を改めて見るのは恥ずかしい気もしたが、そこに映っている、おそらくソウである姿に眼を見張った。
昨日より一段と濃くなった蒼い髪。水鏡で見た瞳の色はやはり明るいブルーになっていた。顔つきはまだいくらか女の子的だ。
元々大きくもない胸は、今朝見たよりも平に近くなっていて、その分胸板が厚くなっているようにも見える。腕も脚も、気づかないうちに逞しくなっていた。
問題の下腹部に、眼をそらして手を這わせてみると、尿道はそのままに、外陰が退化し始めていた。
信じられない変化の早さに、言葉を失う。
「よし、確認できたね。ベッドに横になって」
鏡が天井に戻され、言われるままに横になる。
身体の周りを緑色の光が走った。
「身長は170センチ、体重55キロ…と」
「え?165センチで50キロのはずですけど?」
「ソウは178センチ、67キロ。まだ伸びるってこと」
そう言えば、さっきヒスイと並んで歩いたときに、そんなに見上げなかった気がする…。
「この分じゃ、明日かあさってには外見はすっかり元通りだね。戻った途端に自己主張始めてるのが、ソウらしくて良いね」
天井に戻された鏡が、ベッドの真上にあり、自分であるのにそうでないものをまざまざと映しだす。
それから血液検査、脳波検査、骨格検査、内診と、一通りのサンプリングが終えるまで1時間程度掛かった。
「よし、じゃあ、サンプルを検証に掛けるから、上に戻ってていいよ。結果が出たら呼ぶからね」
にっこりと笑って、血液の入った試験管に薬剤を注入している。
元通りに服を着ると、螺旋階段を上がってヒスイのいるシアタールームを探した。
いくつかドアを開けてみたが、ヒスイはどこにもおらず、仕方なしにキッチンへと戻ると、真っ白な髪の人物とヒスイが話していた。
「あ、終わったんだね」
気づいたヒスイが微笑みながら言った。その言葉に反応して後ろ姿の真っ白な髪の人物が振り返る。
白い髪に赤い瞳、肌も恐ろしく白い。何かの映画で見た、色素欠乏症の僧侶のようだ。背はヒスイよりも高く、すらりとした体躯から見下ろされると、まるで大きな白蛇のようだった。
「ソウ、か?」
「あ、はい…」
見た目よりも声は柔らかく、ヒスイのそれとも違って、低く安心する声だった。
「ソウ、こいつはフォーブス。僕らの悪友だよ」
ヒスイが紹介してくれた。
「本当に女性体なんだな。でも、だいぶ戻ってる。滅多にない機会に遭えたもんだな」
またしてもクスクスと笑われてしまう。
こんな調子で、いつまで笑われるんだろうか…。こんな風に晒されるのは不愉快だ。
「よろしく、フォーブス。まだソウとしての記憶がないから、お手柔らかに」
なんとか社交的に振る舞って笑ってみせた。
「記憶がないって…ほんとなのか?ヒスイ、それじゃあ、あの計画は…」
私の発した言葉に驚いて、フォーブスがヒスイに振り向いた。
「あの計画は、残念ながら延期。ソウがこれじゃ、他に突破できる能力のやつなんていないしね…」
「能力も消えてるのか?記憶だけじゃなくて?」
「うん。試しに今日潜水を試みたけど、『ダブル』並みだった」
「そんな…あんなに念入りに準備して、お前らが帰るのを待ったっていうのに…。ドクターは?なんとかしてくれないのか?」
「まだサンプリングが今終わったばかりだ。これから検証だよ」
あからさまにがっかりした目線を私によこし、何のことかわからずにぼんやり立っている私の両肩をがっしり掴んで赤い眼が覗き込んできた。
「ソウ、頼むよ…お前がいなくちゃ、この計画は始まらないんだ…。早く戻ってくれ!」
瞳の奥の、脳に話しかけるように、焦点をまっすぐ向けてフォーブスが懇願している。いくら控えめに言っても、赤い瞳が怖い。
「おい、フォブ、混乱しちゃうから、順番を守れよ。まず、身体のチェックが先だ。それから、ここでの生活に必要な知識を教えて、外界に独りで出られるように回復するまで待たないと」
「そんなに待てるか!俺は気が短いんだ!」
呆気にとられる私をよそに、ヒスイを怒鳴りつけたフォーブスはドカドカと出て行ってしまった。
「ごめんね、ソウ。あいつほんとに気が短くて。君のせいではないんだよ」
心底すまなそうな表情で、ヒスイが頭を撫でてくれた。
「あれ、背が伸びてるね」
「今、170センチだって。ヒスイを超えちゃうんだね」
「そうそう、まったく、態度もデカイし、背も高い。能力も僕より多い。勝てるのは、跳ぶことと顔が可愛いことくらいだよ」
「だから、私に‘可愛いね’って言わせてたの?」
「うん。優勢な部分はきちんと意識していないと、遺伝子が完全に劣勢になっちゃうからね。みんな、自分の能力の中でも自信のあるものは常にアピールして、交配のときに優勢になるように、子孫に残せるようにしているんだ」
「ほんとに種の繁栄に重きを置いているんだね…」
「そうだよ。僕らがこの時間に生きているのは、その為なんだから」
生まれながらに、生命体として存在意義を理解しているなんて…。なんて羨ましいんだ。こんな時間に生まれていたのか…これは、今までよりも遥かに生きることが楽しめそうだ。
「で、さっきフォーブスが怒ってた、計画って?」
「ああ、あれは、今は説明できないよ。もっとこの世界のことを知って、君に能力が戻るまでは。だから今のやりとりは、聞かなかったことにして」
「…それは、怒られ損だな」
「ははは、アオイはソウより理性的だ」
それから、ドクターの分析を待つ間、ヒスイにこちらの説明をしてもらうことにした。今はとにかく、ここで生きる為の情報が欲しいから。
「えっじゃあドクターは『ダブル』なの?今たまたま女性体の『マルチ』じゃなくて?」
「話してて気づかなかったの?あの人は、『マルチ』のエリアで生きる数少ない『ダブル』だよ。それに、sexual[セクシャル]化した『マルチ』は、交配相手以外にその姿は見せないよ」
「気づかなかったよ…」
「賢いくせに、抜けてるんだな…」
「うるさい」
ヒスイの説明によると、防護スーツなしで外界に出られない『ダブル』は、地上にいくつかの巨大なドームを作り、大気調節された施設内で生活しているという。
一方、防護スーツの要らない『マルチ』は、ドームの建っていない地上のジャングルなどに他の生物と共に暮らしている。
『ダブル』は当初、氷河期等の気候変動を『マルチ』と協力しながら『地球人』として共存してきた。しかし、環境が安定し始めるに従ってその間には様々な確執が生じ、さらに劣状への変化を嫌う『ダブル』は、『マルチ』の次々と遺伝子変化を起こす性質とその身体能力に脅威を感じ、これを生殖のみを生態の基盤とする『アニマル』と同等視することで精神的格差を生み出した。
『ダブル』はまた、その先代からの科学技術を元にクローンや人工頭脳、戦闘ロボットを開発、『マルチ』を従属させる為の圧制を始めた。
「螺旋戦争、今まさに2つの人種が互いの生存を掛けてその戦を始めようとしている」
「戦争…」
思いがけない言葉に、どうコメントして良いのかわからなかった。
だが、洞窟の部屋からここへ来るまでの必要以上の警戒、トラップの可能性を考えると、合点が行く。アレは他の生物への警戒ではなく、同じ人間である『ダブル』への警戒だったのだ。
「しかも、生身で戦うぼくらに対して、『ダブル』の奴らの身体は脆い。その対策として、奴らは無人戦闘ロボットを開発したんだ。最近は『マルチ』を‘捕獲’して遺伝子情報を取り出し、『ダブル』の遺伝子に組み込む研究もされている。その為に多くの『マルチ』が命を落としている」
「そんな…!ただでさえ少ないのに!」
「人間の歴史に‘暴走したフリークの時代’は恥だ、そう言う思考に落ち着いたんだとさ」
「矛盾している!‘フリーク’の遺伝子を取り込もうとしているくせに!」
「そう。人間てのは矛盾だらけの生き物なんだよ」
ヒスイはまるで人ごとのように笑う。
「でもね、幸か不幸か、僕らの遺伝子は『ダブル』に対して拒絶反応を起こす場合が多くて、組み込まれた『ダブル』の母体も死亡するケースが9割なんだよ」
「え、そんなに?」
「うん。原因のひとつに、僕らの能力の発端となる『思念』が関係しているみたいで、ほとんどのケースでは『マルチ』は意に反して捕獲されて遺伝子を採取される。その際に『ダブル』に対しての強いマイナスの思念が遺伝子情報に書き加えられ、結果、移植先の『ダブル』の母体を内側から攻撃してしまう、という説があるんだ」
「………こわ……」
「生命の神秘だよねぇ〜」
クスクスと意地悪な笑いを浮かべながら、ドクター・ユアンがキッチンに現れた。
「ドクター!」
「お勉強は順調のようだね。アオイの身体情報も出たよ」
片手にカルテをヒラヒラさせて興味深そうに私を眺めている。
ヒスイがコーヒーをいれてくれたので、3人でテーブルを囲んだ。
「さあて、何から話そうかねえ〜。うん、まず、身体の’擬態’状態から。
帰還から5日と6時間、性識別はfe10パーセント、これは女性的な部位の残る割合で、その半分は顔に残っている。色素情報は98パーセント正常化完了。残る2パーセントがあるのは頭髪。骨格情報は86パーセント正常化完了。これはソウが178センチ・67キロに対して現在170センチ・55キロ。皮膚情報は100パーセント正常。これはほとんど変化していない為。筋力情報については、筋繊維は40パーセント正常化完了、行使能力が0に近い為戻るのがかなり遅れている…。内臓機能情報も遅れていて、50パーセントってところ。呼吸器と循環系が追いついていない。
……つまり、今アナタの身体は約70パーセント、ソウに戻っている。見た目は96パーセント」
ピッ、と手元のスプーンを指揮棒のように私に向けた。
「身体の外と内とでそんなに差があるんですか?」
「直接外界に晒される所から『擬態』するの。昆虫だってまず色を変えるよ」
「あ、なるほど。では、内臓の正常化が遅れていると、具体的にどんな制約がありますか?呼吸器は、さっきここに来るまでに息が出来なくなったけど…」
「そうだね、呼吸障害、思考力低下…これはあまり影響してないようだね…あと、反射動作の鈍化、そんなもんかな…」
「反射動作が鈍いっていうのは、危険が迫ったときに対応が遅れる可能性があるんですよね?」
「そうだね。だからある程度能力が戻るまではヒスイの側を離れない方が良い。ヒスイも、それは充分承知しているだろうけど、このお姫様から離れないように」
「はい。わかってます」
月色の瞳がキッと引き締まる。
「そして、それよりも問題なのが、脳の状態だよ」
少々難儀だ、という表情で私の脳を見透かすように二人の目線が私に注がれる。
「脳波のブレは微弱。しかし、脳波の形状が完全にアオイのものなんだ。普通、身体がここまで戻るっていうことは、少なからず主人の脳波が表に出るものなんだけど、擬態の正常化は完全に自然帰化に任されている。内臓の戻りが遅いのもここに影響しているんだろう」
「じゃあ、まだ全然、ソウの気配がないってこと?」
心配そうにヒスイが尋ねる。
「残念ながら。かなりの時間を要するだろうね……。
ただ、微弱だが、脳波のブレは存在している。どうやら睡眠時、不定期にそのブレが大きくなる瞬間があるようなんだが…」
カルテに表示された二つの脳波グラフ。おそらくひとつはソウのもの。定期的に上下を繰り返す私の脳波が確かに突然乱れている部分がある。
睡眠時…?
「そういえば、たまに不思議な夢を見る時があった…。今朝も見たような…いつもはっきりと懐かしい感じがして、でも起きるとどんな夢だったか覚えていないんです」
「そこだ。レム状態のときにソウの意識が一瞬だけ表に出ているということか」
「夢…なら、ドクター、僕になんとかできるかも」
ヒスイがパッと明るい顔になった。
「たしかに、ヒスイの能力でソウが出る瞬間に一気に引きずり出せるかもしれない…」
「じゃあ!」
「だが、ソウの意識が出るのは本当に稀だ。しかも不定期だから、待ち構えていても出逢う可能性はかなり低い。それだけ運に任せて見張るのはきついぞ…」
「でも、やらないと、進まないじゃないか!僕やるよ!」
「もうひとつ、あのソウがこれだけ裏側に閉じ込められているというのは、よほどの磁場干渉を受けた可能性があるが、同じポータルを使ったにしては、アンタはほとんど干渉を受けていない。意識の有無も関係するだろうが、それだけではない気がする」
「どういうこと?」
「本人が出たがらないのか、あるいは…アオイが抑えている可能性も…」
向き合っていた二人の視線が、ゆっくりとまた私に注がれる。
話が見えない上に、何やらソウが出て来れないのは私のせいになっている?
「あの…私、すっかり置いてけぼりなんですが…」
「ああ、ごめんね。ドクター、アオイには『能力』についての話がまだほとんど出来ていないんだ」
「そうなのか?」
「あ、はい。潜水は昨日見せてもらいました。私には…無理でしたけど」
「フフ、だろうな。あれは21世紀の‘普通の人間’には無理だ。他の能力にしても然り。たとえ現代でも『ダブル』である私には…」
苦笑してくしゃっと顔をしかめたドクターはとても可愛らしく見えた。喋り方はかなり男前なのがその容貌には不釣り合いだ。
「ヒスイの能力って…脳をいじれたりするの?」
「え?」
「さっき、夢ならなんとかできるって…」
「ああ、たしかに。僕は、無意識状態の相手の脳に影響を与えることが出来るんだ。つまり、寝てる人の脳に音波をぶつけて、簡単な操作が出来る」
「音波?って声?」
「そう。ただし、人間の聴域では聴き取ることは出来ない。所謂、超音波ってやつだよ。僕の喉は、それが出せる」
「……すごいね」
おもわずパチクリと眼を見開いてヒスイの喉を眺めた。
ヒスイがニヤリと笑って口を開けた。
ドクターが何かを察して嫌な顔をした。
「…?」
ヒスイは口を開けたまま何も言おうとしない。
が、……なんだか視界が揺れている感じで、気分が悪くなってきた。ドクターも顔色が悪い。
「ヒスイ、無闇に啼かないでくれ…」
口元に手を当てて吐きそうな顔でドクターがテーブルをトン、と叩いた。
ヒスイが口を閉じて、にっこりと微笑んだ。
視界の揺れが止まり、スッと嘔吐感が引いて行く。
もしかして、今、超音波を発していたのか…?
「こんな感じでね、人は起きている間は意識して空気の振動を『音』として意味付けて聴き取ろうとする。結果、鼓膜の聴域を超えた振動は不快な振動としてしか脳に伝わらず、今みたいに気分が悪くなるだけなんだよ。
でも、これが寝ている時や気を失っている、無意識状態のときには、鼓膜から伝わる振動を脳が独自に処理してくれるんだ。だから、その人の夢の中に故意の情報を流したり、映像を見せて記憶に埋め込み、操作することが出来る」
「それ…」
夢?夢の記憶って、もしかして…?
「うん、君に使った。ポータルを作る為の磁場増幅装置を君がいつも使うPCに取り付けておいて、それを作動させる為のプログラムを君に夢の中で教えたんだ」
「…!」
ふいに頭の中に夢の記憶が蘇った。
――――見事な満月の光が降り注ぐ広い場所に大きな樹が1本立っていて、その下に暁月君…ヒスイが微笑んで佇んでいる。近づくと、大きな樹からは絶えず水の音が聞こえていて、ヒスイは微笑んだまま、手に月の光を集めて持っている。
「ソウ、きみはかえらなくちゃいけないんだよ」
そう言って、ヒスイが集めた光を空中に放ると、光は大きなアルファベットをひとつずつ空に描いていく。
私はその文字をひとつひとつ食い入るように見つめて、記憶にとどめた。
最後の文字が消えると、ヒスイは樹にしがみつき、そのまま樹とともに月に吸い上げられていった。
「ソウ、かえろう」――――
そうだ、なんで今まで思い出せなかったんだろう。夢の中で逢っていたのはヒスイだったのだ。そしてあの樹…あれは洞窟の、湖の部屋の中にあった樹だ。
「ぇえ!?なにそれ!そんなことされたんだ、私!」
我に返った。
「そうだよ。君が寝てる時にちょっと失礼したんだ」
「失礼って…」
「この音域は最大30m程度なんだけど、その範囲にいる人全員に影響が出てしまうから、特定の人だけに使うには、かなり至近距離まで寄らなくちゃならない。だから、君が寝付いた頃に部屋に入って…ってこと」
「うわぁあ?ど、どうやって?鍵掛けてるのに?」
寝てるとこに忍び込まれた!寝顔見られた!
「ん〜〜〜、簡単。まず、寮の君の部屋がある2階のベランダに『跳ぶ』。そしてさっきの超音波の波長を変えて、振動で窓の鍵を開けた」
「跳ぶって…そんな、2階まで3メートルはあるでしょ…?」
「僕の跳躍力は垂直だと100メートルだよ」
は?
100メートル?
「それが僕の『能力』の中でも最高かな。他の『マルチ』でも僕程跳べるのはいないよ。ソウは10メートル、フォーブスもそれくらい」
「そ、想像がつかない…」
クスクスとドクターが笑う。
「大丈夫、現実に見れるから」
擬態、自己再生、潜水、超音波、跳躍…他に一体いくつの能力があるんだろう。
「ヒスイは、他に何が出来るの?」
「えっとね、あとは『集音』くらいかな。直径1キロメートルの範囲の音が拾えるよ。実はあっちでソウを探すのには、これを使ったんだ。どの辺って確かな情報なんかなかったから、かなりしんどかったけど、結果的にはちゃんと見つかった」
「で、でも、音を拾うって、名前の読み方が違ったでしょう?」
「うん。だからしんどかったよ。『擬態』で君の声も高くなってたし。でも、『マルチ』には『共鳴』作用が備わっていて、不思議と同種のものを見分けることが出来るんだ。なんとなく、だけどね、気配を感じて探すんだよ。野生種だからかな。そして大まかに絞り込んで’集音’するんだ」
「便利だな、私らには『擬態』されちゃ見分けがつかん!」
ドクターがぼやいてA4程の透明の薄いフィルム板を私に差し出した。
「…これは?」
「『擬態』にも種類がある」
ドクターがトントン、とフィルム板を指で叩くと、板の上に3D画像が浮かび上がった。こんなのマンガでしか見たことない。すごい、やっぱりここは未来なんだ。
「sexual[セクシャル]化以外にも、身体の色を変えたり、目的とする人物に成り済ましたり、一部の『マルチ』には、身体の一部を他の動物のように変えることが出来るものもいる」
3D画像…所謂ホログラムの人間が板の上で次々と変わる。肌の色を変えたり、眼の色、髪の色、そして顔の形…。これが’擬態’…。
実在の『マルチ』の映像らしく、ヒスイやフォーブスの姿も出てきた。
ドクターの指がトト、と細かく動くと、人間の形をしたそれの一部が変化した。
指先に獣の長い爪、4足歩行のための太い大腿、肉食の牙、次々と様々なタイプの人間が出てくる。
「そしてこれが究極の『擬態』…」
パッと現れたのは、なんとなく見覚えのある姿。蒼い髪に蒼い瞳、上半身裸のすらりとした青年。
「これ…ソウ…?」
「ご名答。見ててご覧」
板の上のソウは、ゆっくりとうずくまり、地面に手をついて背中を丸める。今まで見せてもらった『マルチ』の映像の中では、比較的逞しい身体つきの青年が、全身に力を込めるような仕草をする。
程よく筋肉のついた背中は、肩甲骨がくっきりと盛り上がっていた。
「………?」
その肩甲骨がどんどん盛り上がる。体内から、肉皮を破るように容赦なく。
ついに外側が裂け、骨の白い色が見え始めた。
「!?」
尚も骨は成長を続け、体外に姿を露にした。
「こ、これって…!」
身長程に身体から突き出したものは、バサリ、と音をたてて広がった。
骨は柔らかな羽毛で包まれており、裂けた皮膚から血が流れることもなかった。
大きな2枚の翼を持った青年がゆっくりと立ち上がる。
「翼!?」
「身体の一部を変化させる者はいても、新たに別の生物の器官を生やすことが出来る者はごく稀だ。しかもこんな短時間で自由意志で出したりしまえたり出来るなんて例は私は他に知らない。」
「飛べる…んですか?」
「当たり前だろう。これだけデカイ翼が飾りじゃあ身を護る能力ではない」
「すごいんだよほんとに。鳥と同じように滑空するんだ。『跳躍』出来るのは普通だけど、『飛翔』出来るのはソウが初めての例なんだよ」
「まさか…神話じゃあるまいし…」
俄に信じろと言われても。
「ま、能力が戻ったときに、いやでも自覚するから」
軽いノリで、ポンポンと背中を叩かれた。




