帰還
no.2
* 帰還 *
グラリと足元の水が揺れ、一気に零れ落ちる。
ドサッ
「っつ…イテ…」
腕に抱えた者を庇うように身を反転させながら墜ちて来た少年は、背中に受けた衝撃に顔をわずかに歪めた。
しかし、己の腕の中で眠る少女を確認すると、すぐに痛みを忘れ、にっこりと笑った。
「ソウ…!」
ギュッと抱きしめ、蒼く光る黒髪に唇を落とした。
ピチャン…
水の音に再び意識が引き上げられる。
「ん……」
視界がぼんやりと光を受け入れ、徐々に物の形を捉えていく。
見たことあるような、遠い記憶のような、ガラスブロックの天井…。
透明なガラスを通して、青空が見える。
ピチャン…
水滴の音に誘われて、右へと首を傾ける。
横たわるベッドの脇には水面が揺れている。
その水面から突き出るように大きな樹木が1本生えていて、茂った葉から雫が落ちていた。
ここは…?
ええと、私、どうしたんだっけ…?
たしか…部活で、暁月君といつも通りに…じゃない、暁月君を泣かせて…なんで泣いてたんだっけ?
しばらくぼんやりと記憶を辿っていた私は、断片を繋ぎ合わせて、一定の情報を固めたところで一気に覚醒した。
「………!ここは!」
思わず半身を起こして辺りを見回して、驚愕した…。
ガラスブロックに、大きな樹木…自分の寝ているベッド…それを取り囲む
水面……
「なに…?こんな…え、水…?」
私の寝ているベッドとそばにある樹木の他には、見渡す限りの水面だった。
といっても、際限なく広がっているわけではなく、10mほど先には天井と同じガラスブロックの壁があるので、かろうじて部屋なのだと理解する。
ベッドから身を乗り出し、その下へと視線を向けると、限りなく澄んだ水中に樹木の根と、泳ぐ魚、砂地の底が見える。
ガラスブロックの壁は砂の底で終わり、四方囲まれた一角に、出入り口と思われる穴が空いている。
一体、ここは何なのだろう…?
「ありえるの?こんなこと…」
目の前に開かれた視界にショックを受け、ベッドに身を伏せてシーツに潜り込んだ。
かすかにゆらりと目の前が揺れた。
このベッドに脚がなかったことを考えると、ぷかぷかと漂っているようだ。
ザパッ
ふいに水面から何かが飛び出す音がした。
水面に浮かぶベッドに負荷が掛かり、少し傾く。
「ソウ?」
聞き慣れた声。
ガバッとシーツごと起き上がり、声の主を見た。
「うわッ」
月色の瞳の少年が驚いて水を散らしながら水面でバランスを取った。
どうやら、水底の壁の出入り口を使って泳いで来たらしい。さながら人魚のようだ。
「ヒ…スイ?暁月君?」
「ヒスイだよ」
混乱する私に少年はにっこりと微笑んで、ヒスイ、と名乗った。
ベッドの端に腕を掛けて身体を固定し、片手を伸ばしてゆっくりと私の頭を撫でてくれる。
その仕草にほっとして少し表情を緩ませると、彼は水中から液体の入ったボトルを出して、私に勧めた。
ボトルの液体におそるおそる口を近づけると、液体からはほのかなミントの香りがした。ひとくち口に含むと、爽快な風味が広がり、思考がクリアになっていく。
「良かったよ、無事に戻れて」
「じゃあ、ここが…?」
「そうだよ。君が元々居た世界。この湖面の部屋は、ソウの…君の部屋だよ。やっぱり記憶が戻らないみたいだね、約束通り、説明するよ」
そう言うと、ベッドに腕を掛けて浮かんでいた彼は、おもむろに腕に力を入れて水中に残った身体を引き上げてベッドに腰掛けた。
下は服を着ていたが、上半身は裸で、綺麗な人形のような白い肌を直視できずに、私は視線を月色の瞳に集中させた。
気分は悪くない?と尋ねられたので、大丈夫、と頷くと、少年は片足を水につけて揺らしながら静かに話しだした。
「まずここは地球。それは間違いないよ。ただ、あの世界からはだいぶ時間が経っている。おそらく25世紀ってところ」
やはり時間を超えていた…信じられない…
でもこのあり得ない構造の部屋のおかげで、信じ難いものを受け入れる覚悟は自然と出来ていた。
「おそらく?」
「うん。21世紀の終盤に、太陽系は大きな磁気嵐に見舞われたんだ。ほとんどの惑星で磁場が崩れ、それまで均衡を保っていた天体のルールが乱れてしまった。地球は磁場が極度に不安定になり、天候は乱れた。気温の異常上昇、その逆、超巨大ハリケーン、大地震、1kmに達する高さの津波、局地的な大雨、豪雪…何十年にも渡り荒れ狂った天候は臨界に達し、地上の全てを凍らせた…」
「まさか、氷河期が?」
「そう。氷河期の再来。それから200年ほど、凍った世界が続いたんだ…」
……何年か前に映画で観たことがある。その世界が実際に?
そりゃ、起こり得ることだと専門家が口を揃えていたけれどもフィクションとしてしか捉えきれていなかった。21世紀の終わり…そんな近くに私は生きていたのか…。
「そんな…200年も…?じゃあ、生物はどうなったの?今は凍っていないんでしょう?」
200年の氷を溶かしたのは一体なんだろう?
以前の氷河期には色んな生物が氷の中に閉じ込められていて、そのDNAを調査している研究者が大勢居た。21世紀の時代でも科学は格段の進歩を遂げていたはずだし、未来となった今もこうして人間が生活をしている。
シェルターとか、宇宙船とか、この天変地異を耐え抜くだけの知恵はあったはずだ。
「氷河期を迎えるまでに、生物は9割が死滅したよ。もちろんヒトも含めた数だから、人類は激減した」
「1割が残った…」
「そう。磁場が少し狂っただけで生きていられないものも多かったし、磁場変化を乗り越えても、激変する環境に耐え得る抵抗力や適応力があるものは一握りだったんだ。人間も科学と智慧を使って様々な対策をとったんだけど、21世紀の終わりに70億近く居た地球人は、氷河期を迎えるまでに約5千万人にまで減った…」
「そんなに…21世紀の日本の人口にも満たない…」
「絶望的だよ。それからの200年を生き継いだ人間はもっと少ない…再び生き物が活動できるようになるまでには、人間は1千万人しか残っていなかったんだ」
1千万…よくそれだけ残れたものだ。
「氷はどうやって溶かしたの?」
「氷は…太陽が溶かしたんだ。太陽も磁気嵐に襲われてからは熱量が不安定になっている。ある時期を超えて、太陽は急激に膨張を始めたんだ。惑星との距離が少しずつ縮まるから、熱も届き易い。その頃の地上は防護スーツとボンベなしでは外に出られない程の大気状態だったんだ。直接晒される宇宙線には、細胞がやられてしまうからね。今もまだその影響は濃いけれども。とにかく、色んな条件が重なって奇跡的に気温が上昇して氷が溶け、それからはまたしばらく気候は荒れた」
「今も…外には…?」
「通常なら防護スーツは必要だね。例外もあるけど」
「例外?」
まだ水に濡れたままの髪を掻き上げて、ヒスイはニヤリと笑った。
やっと核心に辿り着いた、というように。
「地獄としか言いようのない環境を生き抜くことの出来た、いわば’選ばれた’人間の条件って幾つあると思う?」
条件?選ばれた人間?
「さあ…そもそもどうやって生きて来れたんだろう…?やっぱり、シェルターとか、宇宙ステーションとか?あ、21世紀の終わり頃なら、月に移住?」
「そうだね、シェルターは正解。宇宙ステーションもまあ、おそらく生き残れただろうという点では正解かな。月は、同じように磁場の変化で移住準備中に軌道がずれたんだ。地球から離れて、彗星に引き寄せられて衝突したらしい」
「宇宙ステーションは…?あ、宇宙ステーションにも移住したけれども、地球の軌道からずれてしまったとか?」
「ビンゴ。本来なら軌道修正できる自発動力はあったんだけど、強烈な磁場に縛られて、今も軌道から少し離れた場所で身動きが取れなくなっているようだよ。もっとも、中の人間が生きている可能性はゼロに近いけどね」
残酷な話だ…
少し吐き気を催して、手元のミント水を口に含んだ。
爽やかな風味が再び思考をクリアにする。
では、シェルターに入れた人間とは…?
「じゃあ、シェルターには限りがあるよね?入れたのは各国の要人やそれなりの地位や資産を持つ人、各分野の専門家、研究者…そういう人たちが優先されるはず」
「まさに。ノアの箱船状態。残すならば、少しでも条件の良いDNAを未来に持っていくのが、種の絶滅を防ぐ一番の方法だからね。優秀なDNAが混ざり合い、そこから進化すれば、手っ取り早く元のような繁栄を再生できる」
’進化’…そうだ、進化なくして生物の繁栄はない。
そうか、今ここに生きる人たちは、世界中の智慧を集めたその子孫なのか。
私もそれに含まれている?
パチャン
ヒスイの足が水を蹴る音に、眼を上げると、彼は私を覗き込みながら笑った。
「だけど、混ざる必要のない者も居たんだよ」
「?」
「シェルターに入れる身分ではなかったけれど、生き残れた人類も居たんだ」
彼の手が、私の頬に触れ、髪を梳く。
至近距離や触られることが苦手だったはずなのに、なんの違和感も感じなかった。
むしろ心地よいヒスイの手の感触に、癒されるような安心感を覚える。
そうして肩まで伸びた私の髪を玩びながら、ヒスイは言葉を続けた。
「人類は常に進化を遂げて来た。進化とは、生物学的にいうと、遺伝子情報の変化ということになる。この変化を始めていた’人種’がすでに21世紀には現れていたんだよ」
「………!聞いたことがある!多重螺旋!」
「お、さすが。あちらでも情報収集に熱心だったんだね。そのとおり。通常2重螺旋だと言われて来た人類だけど、ごく稀に突然変異として、螺旋が多い…つまり書き込まれた遺伝子情報が単純に1.5倍以上の量を持つ子供が生まれていたんだ。3重や4重。螺旋の数はまちまちだったけど、そういった子供たちはそれぞれに特異な能力を秘めていた。視覚・聴覚などの五感が異常に発達していたり、第六感を当たり前に持っていたり、驚異的な身体能力を持っていたりね」
「でもそういうのは一種のフリークで、長生きできないって…」
だから、激変する環境に適応できるとは到底考えられない。
「いや、逆説的に考えてみよ。そのフリークが長生きできないのは、そういう環境に合っていなかっただけなんだ、って。むしろ、それから後の環境を生き抜くために準備された能力だったんだから。そうしないと進化にならないだろ?」
「あ………!」
思わず髪を梳くヒスイの手を取った。
「なるほど…そういうことか…」
すごい…こんな風に生き物は進化するのか…。
闇雲に走っていた迷路から、不意にゴールに辿り着いた気がして、目の前に開けた答えに何ともいえない充足感が走った。
「そういうフリークたちが、各々の能力を発揮しながら激変の環境を乗り越え、またその過程で何代にも渡る交配を繰り返し、新しい地球に新しい人種として生まれたんだよ」
「新しい地球…人種…」
「だから今この地球には、人類が2種、存在している。ここで言う‘人種’という言葉は、21世紀までに使われていた、肌の色で区別する意味はもはや持っていない。シェルター内の人間から産まれた従来種『ダブル』とフリークの発展型である新種『マルチ』、螺旋の構造が2重かそうでないかで区別するんだ」
ゴクリ…
思わず息を呑んだ。
全く新しい概念が築かれている。
新種…人間の新種…。まるで宇宙人のような響きだ。
生きるものの神秘に触れたことによって、胸の内にじわじわと込み上げるものがあた。
たまらず、涙が溢れた…。
「ああ…まいったな。あまりの感動に泣いちゃったの?僕の話術のせいかな?」
困ったように笑うと、ヒスイの指が私の涙を拭う。
「すごい…そんな新しい人たちが、ここにはいるんだ…。私は『ダブル』で…」
ヒスイは?と訊こうとした時、頬を拭う指が止まり、両手で軽くパチンと顔を挟まれた。
少し怒ったようなヒスイの眼が見据える。
「そこまで記憶がないとは…!ソウも僕も『マルチ』だよ!」




