臆病な自己顕示と尊大な秘匿主義
詩の界隈では対偶表現を重視します。
そのため詩をかじりますと、何かしら「対をなす」ような表現をついつい用いてしまいがちになります。
なおその対ですが、平板であってはならないとされます。全く同じような内容を重ねることですが、これは「平べったい」として忌避されます。
日本語を用いて例えるならば「獅子は吼え、老虎は唸る」なんて対偶表現はダメダメだというわけです……ああいえ、詩体と場面にもよりますか。宮廷キラキラ系とか「重ねることでタメを作ってぶちかます」やり口もあるし……とか、正確を期そうとして留保を重ねるってほんと悪癖なんだよなあ。
ともあれ今回のタイトルですが、これがまさしく平板な対偶の好例となっております。
字句を二つも費やしながら、その内容が重なっている。まるで変化が見られない。
そのあたり『山月記』には遠く及ばぬというわけです。
さて本題に入りまして。
言の葉とは呪である、などと申したりするそうです。
つまり言語化することで「正体不明ななにものか」を「規定する・理解する・枠に押し込む・縛り付ける」ことができるとか。強大なモンスターにカースをかけてデバフするのと同じでしょうか。
しかし人を呪わばなんとやら、などとも申します。
すると言の葉による呪を用いた者にも「規定・理解・枠・縛り」に「とらわれる」ような、いわば反作用がもたらされるのではないかと、そんな気がしたりもするわけです。
何が言いたいかと申しますとですね。
以前このエッセイで、「見るからにあたおかな小説家とは、キャラクター化によって小説家としての自己を作り出そうとしている人では?」とか書いてみたのですが。
……今にして思えば、それは「小説家としての極端な自己」を作出し切り離すことで「ふだん使いの自我」を保とうとする繊細な心の働きでもあるんじゃないかなって……そんな言い訳はどうでも良くてですね。
呪に自らとらわれる、やってしまったんだなこれが。
「臆病な自己顕示と尊大な秘匿主義」その意味ですが。
私のツイッターをご覧いただければ「ああ、そういう……」と。ええまあ、その。