音楽と詩文
酒の勢いは否定しない
タイトルにふさわしく、導入から格調高くまいります。
小説はつかみだって言うしね、仕方ないね。
『メリーさんのひつじ』と『水戸黄門のテーマ』は冒頭がよく似ている。
ピアニスターhiroshiという方がそういうことを指摘されていました。
私が似てると思ったのは、『サガフロンティアⅡの戦闘曲』と『ルパンⅢ世の銭形マーチ』。
メロディの冒頭、「ら~ら~らららら~ら~らら~」のあたりです。
そう申し上げれば、どちらか片方でも知っている方には「ああアレ」と思っていただけるかと。
ようつべあたりをご参照いただきたく。ひと節だけじゃんとか言わない。
あったまったところでアゲて参ります。
オンラインゲーム『World Of Tanks』から。
「WOT サントラ」でググっていただくと「サウンドトラック:視聴コーナー」というページが出てきます。お手数ですがサントラ全体的にいい感じなんで、その。そこから『68. Widepark (Intro)』を聴いていただけるとうれしいかなと。
はい。ベートーベンピアノソナタ『月光』第一楽章のアレンジ曲です。
なんですけども。
「あれ? 似た曲どっかで聞いたことあるぞ?」と思ったんですよ。
「『月光』じゃなくて。23秒~40秒あたり、これ何だっけ何だっけ」
ゲームに集中しろという話ですが。もともと「オンラインゲームってなにかと小説のネタになってるけど全然知らないし、とりあえずひとつぐらいやってみるか」と始めたもので、つまりどうせ動機から邪なんだから良いんです。『異世界王朝物語』の土台につながる成果もありましたし。
具体的には「戦争がうまいヤツは勝手が強い、のみならず性格がひん曲が……いえその、真剣に取り組んでいる、強い執着心を持つほどに」。
そのこと肌感として知ることができたのは幸いであったと、まあそういう。
ヘタクソすぎるせいでつまらないからすぐやめた負け惜しみに七行を費やしたところで本題に戻りまして。
ともかくある日のこと、ついに気づきました。
何のことは無い、カギはサントラの冒頭でした。
ノーヒントで気づかれた方にはありったけの嫉妬の念を贈呈しておきます。
気づかなかったあなたでも4~9秒に歌詞をふってみれば一目瞭然。耳だけど。
「か~げ~さ~して~」……『荒城の月』だったんです。
ようやく本題に近づいて来るのですけれども。
気づいたところで私が感じたこととして。
①滝廉太郎はベートーベンにインスパイアされたんだろうなあ……
②直接には『荒城の月』と『月光』の類似に気づけなかったなあ……
①は明治とは特にそういう時代でしょうし、音楽史の論文漁れば何かヒットしそうな気もします。
②は当たり前の話でなにも卑下慢ではなく、むしろ3つ並べてみるとその類似と相違が分かるグラデーションの妙に感動していたところなんですが、それでも。
音楽ガチ勢なら気づけたんじゃないかと。
何が言いたいかと申しますとですね。
改めて『荒城の月』の歌詞を眺めて得た感想と併せたアレなんですけども。
あの歌詞ぱっと見、「なんか漢文っぽい」ですよね。
でもなんかその、「ぽい」だけと言うか。お醤油臭いんですよ。日本の歌詞だからそれで良いんですけども。
その点むしろ例えば童謡『雪』、明らかにあっちのほうが豆板醤臭い。語彙は日本語なんですけど、「いわゆる漢詩」を日ごろ作りつけてる人だとはっきり匂う。感覚が染み付いちゃってる。
半端者ながら私もそれを嗅ぎ取るぐらいには「いわゆる漢詩」ガチ勢寄りにありますもので(隙自語)。
なんも具体的なこと言ってない、分かっております。
でも試しに論証を文章の形で起こしてみたら無慮五十行に及び、しかもその内容の臭気たるや「宇宙世紀におけるAMBACとスラスターの運動性の違い、効果的な使い分け」とか「D51とC28のシリンダー音を聞き分けるコツ」とか「みかつるつるみか、支持者に見る傾向の違い」とか、それに劣らぬものでした。ええ、友達がいなくなる文章です。
……というのは言い訳で、反証可能性が乏しかったと、それだけです(だってこのエッセイ自体がかなり臭いもの)。
その点音楽はそういうことがない。
聴けば直観的に分かります。「か~げ~さ~して~」です。
『月光』第一楽章左手の「でれれでれれでれれでれれ」と「荒城の月」、カレーと福神漬け並みにぴったりはまりますよね。
ならば音楽を文章の説明に利用することも可能ではあろうと。
例えばある韻文における換韻(韻の踏み換え)のキレ、カッコ良さを説明したくなったとして。
言葉を費やせば上の「クソきもいAMBAC論」になってしまうところ、「無印『Get Wild』の間奏、あの転調レベル」と言えば感覚として理解してくださる方、けっこういらっしゃるんじゃないかなって。
でもこれ、あくまでも借用なんですよね。
佳句名文に出会ったならば――その技巧と言ってはイメージが痩せてしまいますか――その名文が私たちに飛び込み私たちを抉るその所以は、文章(広義。言語表現とすべきでしょうか)によって伝えられなければならないと、そう思うのです。
だって伝えたい対象が文章なんですから。文章によって伝えることができなきゃ「負け」じゃない? って話です。
一時期、小説に向かいあうのが非常に億劫になりました。
いろいろ私生活上の理由もありますが、それよりも。
強烈な句に出会いまして。いえ、強烈よりは軽妙でしょうか。ともかくそのキレにしびれていわば放心状態。
佳句なんです。ただ説明が難しい。当時の文人――後世に生きる私たちのため注釈をつけてくれるべき人――も、無駄な語注だけ加えて絶賛するほか無かった。
語注は無駄と申しました。語義が事前に頭に入っていなければ一読して感動できないから、佳句であることを「直観できないから」です。笑い話のツボを後から解説されたところで何もおもしろくないのとほぼ同じ感覚です。
注釈本の記述そのもたつきぶりから見るに、注釈者にも分かっていたはずなんです。説明の難しさが。「私にはこれ以上言語化できない、だけど分かってくれ」、そんな叫び声が聞こえてくるようでした。
少し齧った私にも――「『雪』の作詞家、あれガチ勢だろ」と感じ取れてしまうのと同様の肌感で――感じ取れてしまう。感じ取れてしまうだけに説明が難しい。
(なんて言うと大陸法学勢や仏文勢から「言語化できないってそれ、理解できてないってことだから」とか言われるんですよね。かかとの皮が靴に当たってすりむける呪いをかけておきます)
直線的に説明しづらいならば、せめてその句を題材あるいはテーマにできないかと。それこそベートーベンのごとく「旋律を徹底的に反復することで印象を押し付けていく」手法はどうだろう(できるとは言ってない)と。
しかし句の作者に難がありまして。出世する前に亡くなったためか、史料の少ない人物で。
周辺が大物揃いゆえ、そちらを通して作者の姿を浮き彫りにするかたちも考えてみたのですけれど。
その場合主人公に据えるべき人物、これが圧倒的に魅力に欠ける。
なんとも野暮な性格で、ならば美化して宮城谷小説主人公のような人格的重量感を持たせる(できるとはry)にしても、「特能:絶対さぼらぬ使い走り」「実績:これと言って困難のないお使い業務(をたゆむことなく40年)」
ディスるつもりはありません。立派な、理想的な社会人なんです、人生的にも。山も谷もありゃしねえ。
ならば主君と執事(主人公)のバディもの……主君がまた、魅力も事績もねぇンだわ。執事在世中は。
と、そんなこんなに2018年の秋から2019年の夏まで1年苦しんだうえ、苦吟(?)の癖までついてしまい。『異世界王朝物語』の執筆ペースまで落ちてしまうという、もうね。呪いに近いですわ。
これはどうやら、いつか書かなくちゃいけないんだと思います……が、読み込んだ史料の内容だいぶ忘れちゃったんだよなあ。おとなしく『異世界王朝物語』に戻ります。
でも現状、あの句に光を当てられるのはたぶん私しかいない。
史学で扱う意味が無い、文学で扱うほど作品が残っていない。
ならば小説のかたちで。
だからいつか必ずと、そう思っている次第であります。
なんの社会的意義がなくとも、たとえ読者が10人であっても。(光当たってないじゃんとか言わない)