「楓橋夜泊」と小説家
エッセイをいくつか書きたくなったので、「連載小説」化しようと思い立ちました。
同じタイトルの、「短編小説」とほぼ同じ内容ですが、一部分を削除いたしました。
張継の七言絶句、「楓橋夜泊」。
優れた詩が次々と生まれた中唐期にあっても、群を抜いて素晴らしいとされる詩のひとつです。
月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘声到客船
月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ
江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声 客船に到る
月は沈み、夜烏が鳴き、霜でも降りてきそうな寒気が夜空に満ちている。
川岸の紅葉した楓やいさり火が、愁いのために眠れずにいる私の目に入る。
蘇州の郊外にある寒山寺。
そこで真夜中に鳴らされる鐘の音が、旅をしている私の船にまで、聞こえてくる。
この「楓橋夜泊」に対しては、古来、多くの詩人・文人・学者が、注釈や評論を施しました。
特に有名な評論として、北宋の欧陽脩が、『六一詩話』の中に記したものがあります。
該当部分の翻訳を掲げます。
自家製の翻訳ですので、間違いもあるかもしれませんが、お許しください。
「詩人は、佳句を求めることが貪欲に過ぎて、理屈の通らない表現をすることがある。これもまた(前段から続いての批評)、悪弊である。」
……中略……
「唐の詩人に、このような詩を作った人がいた。『姑蘇台下の寒山寺 夜半の鐘声 客船に到る』と。」
「これは、佳句ではある。しかし、『三更(夜中)は、鐘を打つ時間帯ではない』ということを、どう説明するのか!」
これに対して、誰だったかは失念してしまったのですが、南宋の詩人が反論を試みていました。
「私は、実際に現地に行ってみた。蘇州の地域では、夜中にも鐘を鳴らす習慣があるのだ。張継の詩は事実に基づくものであって、欧陽脩の批判は、的外れである。」
こうした議論について、清の紀昀は、以下のようなことを述べています。
これも手元に原文がないため、うろ覚えなのですが……。
「夜中に鐘が鳴るか鳴らないかなんて、どうでも良い話だろう!佳句かどうかだけが問題なのであって、理屈ばかりをこねても仕方が無い。だから宋の詩人はダメなんだ!」
宋の詩は、「理に勝る」と言われています。そのために、「唐の詩に比べて劣る」とも。
優劣の問題はともかく。宋代には、「うそ・おおげさ・紛らわしい」に対して、好感情を抱いていない詩人が多かったようだと、私は思っています。
そうした個人的な見解からすると、紀昀の批評は、的外れとまでは言いませんが、少し乱暴なところがあるのではないかな、と感じられてならないのです。
欧陽脩にしても、彼に反論した南宋の詩人にしても、「文学的価値があるかどうか」の議論をしていることは、確かではないでしょうか。
「あまりにも大げさな誇張、まるで事実に基づかない文飾。そうした表現は、読んでいても醒めてしまう。感動を呼ばない。」
そういう共通認識の上に立っていて、「だから夜中にお寺の鐘を鳴らすかどうかの事実確認は、重要な問題なのだ」と考えていたと思うのです。
その意味では、欧陽脩たちにしても、紀昀と、大きなところでは、一致しているはずなのです。
「詩の大家 見てきたように 嘘を言い」
詩人が詠ずる詩は、「嘘」です。
100パーセント真実を求めていこうとするならば、その作品は文学ではなくて、学術論文ではないでしょうか。
文学作品ならば、「ぶっとんだ嘘でも良い。面白ければ。」という考え方も、あると思います。上述の、紀昀の評論に寄った立場と言っても良いでしょうか。
またあるいは、「嘘には違いないが、『あたかも見てきたかのような嘘』だから良いのだ、それが面白いのだ。」という考え方も、あると思います。欧陽脩に近い立場でしょうか。
「小説家 見てきたように 嘘を言い」
そういうところ、あると思うのであります。