俳句部の未来
俳句部が動き始めます。
「この前少林寺の五百羅漢の話しをしたけど、彼処は牡丹か紫陽花の時期が良いと思うんだ。だからその前に吉見の百穴はどうだ?」
集合した部員の前で淳一が口火を切った。
部室と言っても図書室の隅っこで、テーブルと折り畳み椅子だけだった。
それらをパーティションで仕切ったのだ。
「お花見ですか? それだったら、少林寺から円良田湖に行けるはずですが?」
「でも、少林寺までの道は遠いよ。寄居からかなり歩くし」
「でも先生、円良田湖は灌漑のためのダム湖だと聞きました。桜の時期じゃないと景観が違うと思うのですが……」
「そうか? それもそうだな? よし、早速採決を取るぞ。円良田湖の花見を兼ねた五百羅漢と、吉見の百穴だったらどっちがいいか手を挙げて」
淳一が採決取った結果、五百羅漢行きが決まった。
実は、吉見の百穴は地元での遠足などの定番の場所だったのだ。
又その近くにあるる市ノ川の土手の下は家族連れでの花見のメッカだったのだ。
だから生徒達はより遠い場所に行きたかったのだ。
「先生。お花見だったら武蔵嵐山の学校橋の近くに物凄く綺麗な場所があります」
「あっ、其処は前に行ったことがある。確か菜の花畑の向こうに桜並木があって、その向こうに婦人会館がある所だろ?」
「あっ、其処です。先生は色々な場所を知っているのですね」
「いや、地元だけだよ。こう見えても、真面目で通っていたんだ」
「こう見えてもって?」
「こら、先生をからかうな」
淳一は顔を少し赤らめながら目線を外した。
窓の外では桜が今にも咲きそうだった。
淳一は皆を誘って校庭に行き桜の根元を指差した。
「生徒達が踏み固めたこんな場所にでも桜は咲くんだ」
「あっもしかしたら、例の妹さんに送った写真は此処で撮影したのですか?」
「そうだよ。どうしても詩織に元気になってもらいたかったんだ」
「先生、工藤部長のことは呼び捨てなんですね?」
「い、妹なんだからしょうがないだろ……」
生徒の指摘に淳一は焦って、しどろもどろになっていた。
「怪しい、怪しい。……何て嘘です。生徒、私達も呼び捨てにしてください」
生徒達が淳一に歩み寄る。
そんな姿を見て、詩織はますます不安にかられていた。
ジェラシーの炎に、今にも体中が焼かれそうだったのだ。
集合場所は又森林公園入口駅だった。
陸橋の下は、広くて止めるに楽チンだった。
東松山と高坂の駅も以前は無料だった。
でも今は有料駐輪場へと変わってしまったのだ。
それでも森林公園入口駅からの電車の代金をプラスしても尚低額だったのだ。
それにチケットなどの受け取りもないから急いでいる場合も楽チンだったのだ。
少しだけ移動する距離が長い。難点はそれだけだった。
でもその時間がコミュニケーションになる。
まさにうってつけの距離だったのだ。
一行は、川越へ向かった時とは別方向の電車に乗った。
森林公園入口駅の次は、つきのわ駅だった。
その次が、生徒が提案した桜と菜の花の名所がある武蔵嵐山駅だ。
その次はこの電車の終点だった。
もう向かい側のホームに電車は来ていた。
和紙で有名になった小川町駅で乗り替え、寄居駅を目指した。
東部東上線の池袋を出発した電車の大概が川越市駅と森林公園入口駅が終点だ。
それでも小川町駅に向かうのは一時間に三から四本はあるようだ。
それは寄居駅手前の玉淀駅に到着した時だった。
駅の横が桜一色に染まっていたのだ。
「わあ、凄い!!」
生徒達が歓声を上げる。
淳一は嬉しそうにそんな生徒達と車窓を見入っていた。
(此処で降りて歩いたらどうだろう?)
淳一にそんな考えが浮かんだ。
でも電車はすぐに閉まって終着駅に向かって出発していた。
淳一は残念そうに、桜が見えなくなるまで車窓を眺めていた。
(あっ、そうだった。次の作戦が待っていたんだ。危ない、危ない。彼処で降りていたら……)
淳一は照れ臭そうに笑っていた。
そしてサプライズはまだ続く。
それは寄居駅に着いてから少しした時だった。
熊谷方面からSLがやって来たのだ。
「わあ、凄い!! 私初めて見た!」
又生徒達は歓喜の声を上げた。
「今日から土日と祭日限定で走るよ。実は、だからこの時間に合わせたんだ。熊谷駅から十時ちょっと過ぎに出るからな」
そう、これが次の作戦だったのだ。
淳一は春になると走り出す秩父鉄道のSLを生徒達に見せたかったのだ。
勿論、乗れる訳がない。
淳一が目指そうとしている波久礼駅には停車しないからだ。
「終りは?」
「確か秩父夜祭りまでだったかな? あっ、夜祭りは十二月三日だよ」
「約十ヵ月か?」
生徒達は指折り数えていた。
「一駅だけ移動するよ。切符は次の駅で払えば済むから」
「やっぱり波久礼駅の方が近いから、ですよね?」
「その通りだ」
「でも先生。次の電車までの時間がかなりありますが……」
駅に提示してある時刻表を見ながら生徒が言った。
「本当だ。先生追加料金掛かる訳だし、歩いた方が早く着くと思いますが……」
その意見に皆頷いたために寄居駅から歩くことになった。
寄居の駅は変わっていた。
電子マネー用のタッチする機械だけで、切符を入れる改札口がないのだ。
生徒達は少し戸惑いながらも、どうにか駅前に出られたのだった。
一行は、荒川の上に架かる赤い橋を目指して国道を歩き出した。
道端には様々な花が咲いている。その上に目をやれば、柳の若芽がはじけようとしていた。
「風を見て、若芽の眼、開きをり」
突然淳一が俳句を詠み始めた。
「木の芽が芽吹く前に、まるで風を見ているような仕草をしていたんだ。殻を少しだけ上げてみた。なんてとこだけど……」
「本当だ。私達は足元ばかりに目が行ったけど、やはり工藤先生は顧問ですね」
「そうかい?」
淳一は照れ臭そうに笑っていた。
それがきっかけで、暫しの間俳句合戦になってしまったのだった。
赤い橋を左に見てその交差点にある信号を渡る。
線路を越えて国道に平行に位置する道に、五百羅漢の案内板があった。
その通りに暫く行って右折するく、少林寺の駐車場がある。
道すがらに五百羅漢の姿はなかった。
山門に一礼して社屋に手を合わせた後で、高台に案内して行った。
「何故此処に五百羅漢があるかと言うと……」
淳一が又講釈を始める。
生徒達は真面目に聞いていた。
「この少林寺の僧侶が檀家の奥さんとねんごにろなった。情を交わしている内に旦那に知られてしまったんだ」
「先生、ねんごにろとか情を交わすとか言わないでよ」
「浮気でしょ?」
「不倫したんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「先生、それがどうして五百羅漢と結び付くの?」
「木に吊るされそうになるところを、五百羅漢を建立するために三年待ってくれとお願いしたそうだ。その後で托鉢しながら江戸の石切場に行って頼んだそうだ」
「で、三年で出来たのですか?」
「いやそのお金じゃ無理だと断られたんだ。その足で吉原に行って豪遊したそうだ」
「やっぱり浮気者だね」
「いや、違うんだ。其処にいた遊女達に説教をして三倍のお金を貢がせたそうだ」
「世渡り上手い人だね」
「ま、そう言うことだけど。遊女達は自分が救われることを信じたんだ」
「何て言ったのか大体の見当がつくわ」
「そう言われれば私も」
「だって好き好んで遊女になった人は居ないと思うの。きっと、親のためだとか何とか言われて売られて来た人が大半だと思うから」
「そんな可哀想な人達を手玉に取って、お金を出させたね」
「その通りだよ。皆想像力凄いな。だからかな? ホラ、此処にある羅漢様達はそんな女性達の哀しみが込められているんだ」
「本当、川越の羅漢様達とはまるっきり違う」
「それに一度に大人数で掘ったから、ノミ使い方も違うんだ。それだけ味わい深いんだな。托鉢で五十円得たけど、百五十円ならって言われて」
「その五十円で遊び、遊女に寄付させたわけね」
「僧侶は身支度をして荒川の船着き場から向こう岸に渡り、川沿を托鉢して江戸の向島に着いたそうだ」
「その時集まったお金が五十円だったのね?」
「そうだ。そこで麻布の石工を教えられ訪ねたら百五十円ならって言われて吉原に行った訳だ」
「きっと、『悲しいことや辛いこともあっただろう』なんてくどいたんだね?」
生徒達の推察の良さに負けて、淳一はただ頷くことしか出来なかった。
「だから石工は頑張ってくれたわけだよ。本当のことは知らなくても、坊さんだから、功徳を詰みたかったのかも知れないな」
淳一は五百羅漢の並んでいる円良田湖までの道を歩きながら、俳句部の未来のあり方を模索していた。
「でも、元々は浮気から始まったんですよね? ましてお坊さんなら、我慢して然るべきだと私は思いますが……」
それは詩織の意見だった。
詩織は確かに淳一と結婚した。
でも未だに結ばれてはいない。
籍だけ入れるだけで詩織は我慢していたのだった。
だから余計に身を焦がすのだ。
部員達の一挙手一投足にハラハラさせるのだ。
今もし妊娠でもしたら、校長に迷惑が掛かる程度では終わらない。
淳一の未来も夢も潰しかねないのだ。
(自分さえ我慢すればいい)
詩織はその小さな胸を痛めながらも決意しざるを得なかったのだ。
遊歩道の円良田湖が見える場所で軽く食事をした後で元来た道へと向かった。
本当は近くまで行きたかったけど、遅くなるからだった。
淳一達はさっき来た道を寄居駅へと歩き出した。
生徒達のブーイングが聞こえる。
(後で楽しみが待っているんだ。その時になったら……)
淳一は本当は笑いたくて仕方なくなっていた。
「あっ、先生が笑っている」
一人の生徒が淳一の奇妙な行動に気付いたようだ。
「俺は笑ってなんかいないぞ」
「ダメだよ生徒、嘘ついちゃ。だって肩が動いたもん」
生徒の指摘に、グーの音も出なくなってしまった淳一だった。
復路は又俳句合戦だ。
「風孕む裾の憎さや春一番」
詩織が詠んだ。
「この前春一番が吹いたでしょ? あの時詠んだ句なの」
「風孕むか? 何か孕むっていやだな。だって赤ちゃんが出来た時にもそう言うでしょ? それに男性が良く使う言葉だからね」
「どう言うこと?」
「ホラ、あの女を孕ませたとか……」
「まだ五百羅漢の僧侶の件を引き摺っているか?」
「いえそうじゃなくて、ドラマでやったていの」
「そうか。よしそれなら皆で、風で膨らむスカートを想像しながら孕むを別な言葉に言い換えてみようか?」
淳一の提案は生徒達を大人しくさせていた。
「ふわふわもいいし、ふっくらもいいな。あっ、ふんわりもあった」
でも結局、それ以外は出て来なかったようだ。
「満足にお花見が出来なかったお詫びだ」
そう言いながら淳一は玉淀駅で生徒達全員を途中下車させた。
「先生ありがとう」
生徒達がそう言うだろうと判っていた。
だから敢えて早目に切り上げたのだ。
玉淀駅の脇にある桜並木は例年になくキレイだったようだ。
淳一は生徒達の憧れの存在になっていることにも気付かずに、あの日次の吟行の場所を吉見にある松山城址に決めてはいた。
『東松山ってあるだろ? 彼処は城下町なんだそうだ。松山城は他にも沢山あるのに松山って付くのはあまりない。俺は彼処が第二の松山になってくれたら嬉しい。四国にある松山って俳句の町だって知っているか? だから俺は俳句部を……あ 、まだ同好会だったな』
森林公園入口駅近くの駐輪場で解散した後で淳一は自分の夢を詩織に話した。
だけど実現出来ずにいたのだ。
思いきって自分の気持ちを話そうとした時も、結局決まった場所は寄居にある少林寺の五百羅漢だった。
でも、自分の思いの丈をぶつけるのは今しかないと考えるようになっていた。
そして……
吉見の百穴の前に駐輪させて、岩室観音と回ってきたのだった。
岩室観音は京都にある清水寺と同じ懸崖造りだ。
岩室の言葉の通りの寺で、岩肌を上手く活かした構造だった。
山門を潜るとすぐに四国八十八ヶ所の観音様を模した彫り物が左右に分かれて無造作に置かれていた。
胎内めぐりと書かれた急階段を昇ると、小さな舞台が現れた。
御神体の前には西国板東秩父の合わせて観音の砂が納めるられている踏み板があった。
淳一はそれに上り、熱心に祈った後で合掌した。
その隣には折り紙があった。
皆淳一に続いた後で鶴を折り始めた。
岩室観音から続く山道を鎖を手がかりに登ると急に辺りが開けた。
其処にあったのは松山城址だった。
此処へ向かうには別のルートも存在する。
でも淳一は一番困難な道を選んだ。
生徒達を危険に晒すためではない。
達成感を皆で味わいたかったのだ。
「何故吉見の百穴に吟行をしようとしたのかと言うと、俳句部の未来を考えたからなんだ」
「俳句部の未来って?」
「四国の松山って知っているだろう? 彼処が俳句の町だってことも勿論解っているだろう?」
淳一の言葉に生徒達は頷いた。
「俺はこの町を第二の松山にしたいと思ってる」
「第二の松山って? ああ、だから松山城址を吟行の地に選んだ訳だ」
「その通りだ。正岡子規や高浜虚子など有名な俳人を沢山輩出した松山だからな。此方の松山もあやかろうなんて、虫のいい考えだけどな」
「先生。正岡子規と言えば、確か……柿食えばですよね?」
「ああそうだよ。子規の名前は……」
淳一が又講釈を始めようとしている。
生徒達は真面目に聞いていた。
「先生、確か寒川鼠骨も松山出身でしたね?」
でも話しは反れた。
「おっ、良く知っているな? 鼠骨って言う人は正岡子規の門人で、子規の死後に家族を守った人だそうだ。俳句歳時記なども手掛けたんだ」
でもそれさえ逆手に取って知識を振り撒く淳一だった。
「だから私達でも気軽に詠めるのですね」
「その通りだ。でも俺が持っているのは、高浜虚子の方だけど……」
「へぇー、色んな人が出しているのですね。でも皆松山出身だ」
「さっき言った鼠骨忌は八月十八日だ。実は、翌日が八月十九日なので俳句の日と呼ばれているんだ」
「俳句の日。兄はバイクの日だって、お盆過ぎに遠乗りしていましたが……」
「バイクの日か、それもありだなりでも今回は俳句の日だと言うことで。実は四国の松山ではその日の前後に俳句のイベントをやるんだ。実は俺は俳句部だった。でも関東大会の決勝戦で強豪と当たってな、松山に行けなかったんだ」
「凄いイベントなんですね。でも知らなかった、先生が所属していたのも俳句部だったなんて」
「そうだから、是非この部でチャレンジしてみたいんだ。俺のリベンジだけど、皆に託したい。それと……、俺は君達を超一流の俳人に育ててみたくなった。だから此処を移動する」
「えっー!? たった今来たと思ったら……」
生徒達のブーイングを聞きながら、淳一は松山城址の真ん中に向かった。
淳一は其処から見える全ての景色に合掌した。
淳一がこれから目指そうとする未来が開けるように祈りながら……
『先生。お花見だったら武蔵嵐山の学校橋の近くに物凄く綺麗な場所があります』
五百羅漢に吟行決まったあの日にそう発言した生徒に、淳一は他の生徒達を武蔵嵐山にある菜の花畑に引率を依頼した。
「悪いが俺達は車で向かうよ。其処は婦人会館の近くだから一時間もあれば着くと思う。じゃあ、よろしく頼む」
「先生。部長の足はまだ治らないのですか?」
その質問に淳一は頷いた。
淳一は詩織のメンタルな部分を話す時がきたことを察した。
「妹は、自転車に乗れなくなってしまったんだ」
「あの事故の後遺症か何かですか?」
「それもあるし、精神的な物もあってな。実はなー、義母の友人もハンドルが絡み合う事故にあって、後方から来た車に引かれて即死したそうなんだ」
「えっ!? 怖い」
「だから皆も、絶対に並んで走らないでくれよもし君達がそんな事故にでも巻き込まれたら、辞職したくらいじゃ済まなくなるから……」
次々と自転車で走り出す生徒達に向かって淳一は精一杯声を掛けて送り出そうとしていた。
(本当はこの俺が生徒達を引率しなければならないのに……)
淳一は自分の思いだけで生徒達を振り回している事実を反省していた。
淳一は詩織と未だに高校に通っている。
詩織の足は治ったはずだった。
でも、淳一に負担を掛けまいとして却って痛めてしまったのだ。
でも、俳句部を立ち上げるために頑張ったからなんて部員の前では言えなかったのだ。
「何故其処に来たのか解るか?」
その質問に生徒達首を振った。
「実は、去年のイベントの兼題が菜の花だったんだ。だから皆と作ってみたくなったんだ」
その言葉には淳一の覚悟が秘められていた。
淳一は俳句の道を極めてなくなったのだ。
「《千里の道も一歩から》って言う諺がある。中国の故事では《隗より始めよ》と言うんだ」
「先生。何ですかそれ?」
「隗より始めよは、塞翁が馬のような中国の故事から来た諺だ」
「人間万事塞翁が馬?」
「お、良く知ってるな」
淳一のその言葉に口角が上がった。
「ほくそ笑んだな。実は今の言葉も塞翁が馬に由来するんだ。北叟の塞翁はどんなことがあっても動じずに微笑んでいたからだそうだ」
「あっもしかしたら、知識をひけらかすためにそんな話をしたのですか?」
生徒の鋭いツッコミが入った。
「そうだよ、悪いか? 中国の燕の昭王が人材を集める方法を郭隗に尋ねたら『まずこの私、隗より始めなさい』と言った。『言い出しっぺのアナタからはじめなさい』と言う意味だ。これから新学期が始まる。やっと俳句部になれたけど前途多難だ。それでも同士を集めてほしい。出来れば部活内で模擬が出来れば嬉しい」
淳一は悪びれることなく押しきった。
「先生。何名居ればその模擬って出来ますか?」
「そうだな。最低でも十二名だ。五人一組なんだよ。だからその倍。記録する人も審査する人も必要だからな」
そう言いながら淳一は部員の頭数を数えていた。
「先生。それならすぐに達成出来ると思いますが……」
それは解っていた。
でも、まだそのイベントに出場出来るレベルには達していないと思ったのだ。
決して生徒達を蔑ろにした訳ではない。
「でも夏、いや春かな? だからすぐに準備しなければいけないんだ。だから、明日からスパルタ式で行く」
だから思わず言ってしまっていた。
「えっー!? やだー!!」
生徒達の怒涛の声が響き渡った。
(これじゃ反省もへったくれもないな)
実は淳一は相当恐縮していたのだった。
「去年の関東大会の決勝の地は羽田空港だった」
それでも淳一は松山での俳句イベントに向けて出発しようとしていた。
「えっ、羽田空港!? 先生遠すぎます」
「心配するな。羽田へも成田空港へも森林公園入口駅からバス便が出ている。それに乗れば一発だ。しかも駐輪場は無料ときてる。一石二鳥と言うより一挙両得なんだ」
「ああ、だから何時も彼処から出発していたのですね」
「いいや違う。最初、川越吟行の前に聞いただろ? 行田の無料駐輪場とどっちが良いかって」
「そうだ。私達が決めたんだ」
「でも良かったな。森林公園入口駅で。此処だったら……」
「先生。又一挙両得ですか?」
「ああ、そう言うことだ。だから皆も、隗より始めてくれないか?」
「はい、頑張ります」
「おっ、頼もしい。よし、早速詠みにかかるぞ」
淳一はそう言いながら、裏が白いチラシをメモ帳型に折っただけの物を生徒達に配付した。
「全部で八句詠めるはずだ。それを手に散ってくれ。制限時間は二十分だ」
「えっ、短か過ぎます」
「だから、スパルタだと言ったろ? ほら早く行かないとどんどん時間がなくなるぞ」
淳一のけしかけに生徒達は一斉に走り出した。
〔菜の花の、向こうで友の、手が招く〕
淳一がメモを覗いた時に書かれていた詩織の句だ。
「皆、菜の花より桜が見たかったみたいですね」
「いや、桜の方から菜の花を見たかったのではないのかな?」
「詩織、これからどうする? まだ足は痛むのか?」
その言葉に詩織はドキンとした。
実はそのまま……
ずっと淳一に送られたかったのだ。
「ごめんなさい。本当はもう治っているのに、自転車に乗るのが怖いんです。もし倒れでもしたらって」
「お母さんの友達は亡くなったんだよね。それが原因かな?」
一応詩織頷いた。
淳一と離れて通学したくないなんて言えなかったのだ。
甘えだと解っていた。
でも本当は優越感に浸りたかったのだ。
詩織の本音はそこだったのだ。
その上で、教師の妹としての特権を行使することで部員達から淳一を守りたかったのだ。
部員達が淳一にちょっかいを出す機会を与えなくするためでもあったのだ。
詩織はまだ、乙女だった。
そのことが本当は悲しい。
愛されていないのではないのかとさえ考える。
誰か他に好きな人でもいるのではないかとさえも疑う。
嫉妬やヤキモチで詩織は身を焦がしていたのだ。
『二人でいる時は詩織の方がいい』
あの時思わず言ってしまった。
まさか淳一がその言葉にグサッとやられていたなんて考えも及ばなかったのだ。
淳一は淳一で思わず抱き締めたくなるほどどんどん沸き上がる詩織に対する愛に戸惑っていた。
でもあの頃は、それは封印させなくてはいけなかった。
本当の兄妹かも知れないと思っていたからだ。
だから淳一は自分でバリアを張っていたのだ。
だから尚更愛しいのだ。
だから一刻でも早く結婚したかったのだ。
美紀と結婚した正樹のように、全身全霊で詩織を愛したいと思ったからだった。
でもいざとなったら勇気が出ない。
愛する詩織を傷付けなくなかった。
自分の欲望だけで、詩織を抱きたくなかったのだ。
避妊具を使用すれば良い訳ではない。
妊娠さえさせなければ済む問題ではないのだ。
淳一は詩織が高校を卒業するまで貞操を守ろうとしたのだ。
それがどんなに辛くても詩織のためにやろうと思っていたのだ。
だから余計に俳句にのめり込もうとした。
淳一が部員達を超一流の俳人にすることに決めたのはそんな理由があったからだったのだ。
その日二人は悶々とした時間を過ごした。
それでも俳句部の顧問と部長の仕事はキチッと済ませたのだった。
それが二人の進む道だった。
美紀が正樹のために中学の体育教師になろうとしたように、詩織も淳一に寄り添うことを決意したのだった。
そのためなら、どんな苦労もいとわない。
詩織は俳句部の部長としてこれからも淳一を支えていく決意をしていた。
詩織は耐えられるだろうか?




