早春譜・十六歳の花嫁
正樹と美紀の挙式を見ていた詩織に淳一が告白をします。
詩織は涙ぐみながら、物陰から美紀と正樹の結婚式を見つめていた。
血の繋がりのない父娘が愛し合っている。
それは詩織には驚きだった。
それでも感動していた。
入学式の翌日に美紀と話したせいではない。
亡き養母の夢を追い掛けている美紀を応援していたからだ。
美紀の叔母にあたる沙耶の口から、美紀の育ての母が憑依していることを聞いた。
そのせいで育ての父親を愛したのかとも思った。
でも違っているように感じた。
美紀は元々父親を愛していたのだろう。
そうでなければ、いくら母親に憑依されたからと言ってもあそこまで愛せないだろうと思ったのだ。
詩織は美紀の愛を本物だと感じ取ったのだ。
そして華燭の典を挙げている二人を見ているうちに、淳一と結ばれたいと強く思った。
自分も美紀のように幸せになりたいと願ったのだ。
「美紀さんの産みのお母様は大阪の資産家の娘だったらしいの。だから身代金目当てで誘拐されたみたい。その事実をお父様が導き出したそうよ」
「そう言えば、職員室でも話題になっていたな」
「でもね、その方は双子で……だから間違ったって思ったみたいで、東京駅のコインロッカーに遺棄されたらしいの」
「遺棄!?」
「先生も私と同じ驚き方をするね。あのね、コインロッカーって気密性が高くて中に閉じ込められたら間違いなく死ぬらしいの。だから美紀さんは『私が此処に居るのは奇跡なのかも知れないわね』と言っていたわ」
あの日。衝撃的な過去を明るく話す美紀に詩織は感銘を受けていた。
だから正樹と美紀の恋を応援したくてこのチャペルにいるのだと思った。
「私もあんな風に愛されたいな」
つい本音を言う詩織の手を取り淳一は跪いた。
「今すぐこの教会で結婚しよう。実は予約しておいたんだ」
あまりにも唐突で驚きを隠せない詩織。
「校長先生に許可はもらった。絶対にバレないようにすることが条件だ。どうか、この俺と結婚してください」
その瞬間、詩織の瞼から大粒の涙が零れ落ちた。
でも驚いたのはそれだけじゃない。教会の扉の向こうには淳一の父と詩織の母が待っていたのだった。
淳一もう一度は跪いた。
「俺は親父に問いただした。結論は兄妹ではないそうだ。その時俺達の結婚を承諾させた。それが今此処にいられる訳だ」
淳一は一瞬遠い目をしたが、説得するかのように詩織を見つめた。
「長尾父娘の結婚式を端から見ていて感動した。自分もあんな風に詩織を愛していきたい。そう思った。だからじゃない。俺は元々この日を選らんでいたのだから」
淳一はおもむろに立ち上がり、説得するかのように詩織をバグした。
「詩織の父親はやはり入学式に出席していた人だったよ。つまり二人は俺達は兄妹ではなかったんだ。それを知った時、頬に温かい物が流れた。それは詩織に対する愛その物の証しだと思ったんだ」
淳一はそう言うと今度は詩織を強く抱き締めた。
(俺はやはり詩織を愛してる。この気持ちは妹に対する物じゃない。俺の純真無垢の心だ)
恋した人が妹とだと解り苦悩した昨日までの自分。
揺れ動いた葛藤。
何度も諦めようと思い、封印しようとした。
でも駄目だった。
恋の炎は益々燃え広がったのだ。
そんな苦悶した日々が脳裏に浮かぶ。
その瞬間、淳一は又焼かれた。
そして……
一生涯詩織を愛していこうと思ったのだ。
淳一は詩織から離れ、もう一度跪いた。
「詩織はまだ十六歳だ。未成年でも女性は結婚出来る歳だ。でもそれは後数日で変わる。来年度は十八歳にならないと結婚出来なくなる。本当に運命だったんだ。だから事前にお義母さんには承諾をいただいた。だから……俺と結婚してください」
詩織の手を取り、手の甲に口付けをする淳一。
それは何時か、映画で見たようなワンシーン。
何故だかウキウキしていた自分を思い出した。
それはきっと……
此処へと繋がっている。
そう思った。
淳一はチャペルの前で新妻となる詩織を待っていた。
やはりケジメは着けなくてはいけないと思っていたのだ。
だから二親に詩織を託したのだった。
でも、それは企てた時から考えていたことだった。
詩織に贈る初めてのサプライズだったのだ。
詩織は淳一の用意したウェディングドレスを抱き締めながら控え室に向かったのだ。
詩織の母には着替えを、淳一の父にはエスコートしてもらうつもりだったのだ。
でもそのまま、戻って来なかったのだ。
いくら待っても戻って来なかったのだ。
今か今かと気をもんで待っていた淳一は痺れをきたしていた。
でも一向にドアは開かなかった。
(何遣ってるんだ)
淳一はもう、居ても立ってもいられなくなった。
扉の向こうの様子が気になり、そっと近付いてみた。
ドアの向こうでは何かの音がしていたのだ。
(詩織に何かがあったのかも知れない)
淳一は急いでドアまで走り寄った。
外では淳一の父親が詩織の手を取り予行練習をしていた。
「親父何をしてる!?」
堪らずに淳一は声を掛けた。
淳一はさっきからずっとイライラしながら詩織の到着するのを待っていた。
だから業を煮やしていたのだった。
淳一は詩織の側に近付き、唇を奪っていた。
もうこれ以上待てなかったのだ。
「こら、はしたない。式も済まないうちから」
淳一の父親は苦笑していた。
「親父が詩織を離さないから悪いんだ」
「詩織さん、ふしだらな息子でごめんな」
「親父が其処はふつつかだろう?」
「お前のような奴はふしだらでも勿体ない」
父親の言葉に詩織は思わず吹き出した。
でもすぐ涙に変わった。
「全くお前って奴は、こんな出来損ないですいません」
「いいえ、それだけ娘を愛してくれている証拠だと思いますから……」
その声に驚いて淳一はそっと顔を上げた。
目の前にいた人物に見覚えがあった。
それは入学式の時に詩織の傍にいた、本当の父親だったのだ。
淳一は慌てふためいた。
「まさか……。親父ったら人が悪いよ。一世一代の結婚式の時にこん失態をさせるなんて」
「お前は肝心なことが抜けている。詩織さんには御両親が居るんだ。それだけではない。詩織さんは十六歳なんだぞ。親の許可も無くて結婚出来ると思っていたのか? このバカタレが」
父親は呆れ果てたように言い放った。
「もしかしたらなかなか中に入って来なかった理由は?」
「多分私のせいです。卒業式から帰る車で道が渋滞していまして……」
詩織の父親は申し訳なさそうに言った。
「とんだ無様な姿をお見せ致しまして申し訳ございません」
淳一は頭を掻いていた。
詩織には美紀と正樹の結婚式を見に行こうと誘った。
でも本当はその後に結婚式を予約していたのだ。
詩織に自分への思いを聞いた訳ではない。
だけど肌で感じていた。
『二人でいる時は詩織の方がいい』
あの言葉にグサッとやられた。
思わず抱き締めたくなった。
どんどん沸き上がる詩織に対する愛。
でもそれは封印させなくてはいけなかった。
本当の兄妹かも知れないと思っていたからだ。
だから淳一は自分でバリアを張ったのだ。
だから尚更愛しいのだ。
だから一刻でも早く結婚したかったのだ。
美紀と結婚した正樹のように、全身全霊で詩織を愛したいがために……
改めて、詩織と並んだ父親は涙を流していた。
結婚式と言う、思いもよらないない場での娘との再会に動揺していたのだ。
突然の報告を元妻の旦那から告げられた。
それはまさに寝耳に水だった。
まだまだ子供だと思っていた詩織の縁談に思わずカーッとなった。
それも、今でも愛している元妻をねとった男の息子だと聞いて更にムカついた。
本当はこんな場所には来たくもなかったのだ。
それでもどんな奴がかっ拐っていくのか急に見てみたくなって式に出席することにした。
だから渋滞に嵌まってしまったのだ。
其処で目の当たりにした淳一の人となり。
待ちきれずに唇を奪った淳一に、自分の昔が重なった。
アナウンサーの妻を陰で支えたのは、偽りのない愛だった。
それが何故破局したのか自分自身でさえ解らない。
だからあれこれ考えたのだった。
気持ちを違えた原因の全てを妻のせいにしていた。
何故解ってもらえないのかと恨んだりしていた。
それらの何もかもが自分の我が儘だったのではないのだろうかと思い始められたのだ。
愛する妻を傍に置いておきたくて嫌がらせもした。
ワザと熱を出して仕事も休ませようとした。
テレビ画面に仲良く写る他のアナウンサーに嫉妬もした。
それが妻の気持ちが離れた原因だと知っている。
それでも離婚を受け入れられなかったのだ。
全てを愛だと思い込んでいたからだ。
自分の取った行動を正当化させていたからだった。
愛してさえいれば許されるものではない。
今ならそう言える。
父親はやっと妻を諦めることが出来たのだった。
詩織は何も聞かされていなかった。
結婚式も父親との再会も……
だから本当に嬉しくて仕方ないのだ。
「実は、詩織に報告しなければいけないことがあるの」
「君のママから聞いた。あの人は今の相沢隼の出演を止めさせたいと。あれは取り止めになった。勿論、カルフォルニアの代理母の取材は番組として流すけどね」
それは嬉しい報告だった。
これで引っ越すことは無くなっただろう。
詩織の瞼には直美の喜ぶ顔が浮かんでいた。
祭壇の前で愛を誓う。
いよいよ待ちに待った時だ。
淳一は自分の思いの丈を唇に乗せて、詩織の唇と重ねた。
その時、淳一は詩織の頬に涙が流れるのを見た。
(もう悲しみの涙はこんりんざい流させない)
淳一は改めて詩織を幸せにすることを誓った。
淳一は詩織との愛を確かめたかったのだ。
これから始まる秘密の関係。
生徒と教師の夫婦生活。
同好会からクラブに昇格する俳句部のキャプテンと顧問の極秘事項。
そう……
淳一は俳句部としてもらえるように高校に交渉して認められていたのだった。
果たして淳一は校長との約束を守っていけるのだろうか?
又、部員達の自分への猛烈アタックを交わせることが出来るのだろうか?
でも淳一はまだ気付いていなかった。
俳句同好会のメンバーの大半が淳一に恋をしていることを……
詩織との挙式している最中にも、草いきれと詠んだ生徒をはじめとする三年生達の猛攻撃も開始されようとしていたのだ。
卒業式の後、皆淳一を探していたのだ。
会場となったのは詩織が直美や淳一と出逢った松宮高校の体育館だった。
生徒達は自分の想いを綴った手紙を淳一に託そうとしていたのだ。
あわよくば自分からプロポーズするつもりでいたのだった。
卒業生達の中には教師に詰め寄る輩もいた。
でも皆、淳一の居所を知らなかったのだ。
だから、校長もタジタジになっていたのだった。
それでも校長は淳一のいる場所は決して明かさなかったのだ。
校長は正樹と美紀の婚姻をライバル達にうっかり漏らしてしまったからナーバスになっていたのだった。
だからその後に挙式を控えた二人を死守したのだ。
父娘の結婚は卒業後だから問題はない。
でも淳一と詩織の場合は違う。
教師と生徒。
それもこれから部に昇格する同好会の顧問と会長だったからだ。
正樹と美紀の内緒事を淳一に聞かれて浮き足立っていた。
だから思わず内緒にすることを条件に淳一と詩織の婚姻を許してしまったのだった。
校長は自分の立場も守ろうとしていたのだ。
淳一は詩織と高校へ行き、無事に挙式したことを校長先生に報告した。
「いいか。絶対に内緒だからな」
校長先生の叱咤激励が飛ぶ。
二人は頭を深く下げた。
「あっ、言っておく。明日から同好会は部にすることにした。だから余計慎重にな」
それはいきなりの宣言だった。
「えっ!?」
詩織は思わず声を上げた。
「旦那には言っておいたぞ」
「旦那って、校長こそ失言ですよ。皆の前でそれをやられたら、立つ瀬がありません」
淳一は照れ臭そうに笑った。
「知っていたの? あん、ズルいよ」
「イチャイチャは他所でやってくれ」
校長先生の鋭い突っ込みが入った。
バレンタインデーの御返しは手作りクッキーにした。
以前ネット検索していた時、子供向けの調理方をメモしておいたのだ。
(何かの役に立つと思い書いておいて良かった)
淳一はホッと胸を撫で下ろした。
そのメモを頼りに材料を揃えていく。
土台には、小麦粉一袋、砂糖一袋、玉子ワンパック、無塩バター三箱とココア。
アイシング用の粉砂糖には玉子の白身が必要だが、土台用の残りを使うことにした。
最初にやるのはオーブンを百七十度に温めることと、無塩バターと玉子を冷蔵庫から出しておくことだ。
次に、小麦粉二百グラムを一袋として五つのビニール袋に分ける。
それに空気を含ませるように膨らませた中で良く混ぜる。
これでフルイを使わなくても済むのだ。
砂糖八十グラム。
たまご一個。
無塩バター百グラムだった。
無塩バターは大概二百グラムが一箱で百グラムずつ銀紙に包まれている。だからわざわざ計らなくてもいいのだ。
まずビニール袋に常温で溶かした無塩バターを入れる。
その中に砂糖を入れて掌で挟む良く混ぜることだ。
次にその中に玉子を割り入れて再び掌で挟みダマが出来ないように良く混ぜる。
掌で温めながら作業するこれで、ダマは出来難くなるのだ。
最後に小麦粉を入れて、ビニール袋の中で混ぜ合わせる。
袋に付いていた白っぽい粉が消え、中で纏まれば土台のクッキーのタネは完成だ。
これをそのまま麺棒で伸ばす。
その時割り箸やお菜箸を袋の横に置けば平均的な薄さになるのだ。
ココアも同じ作り方だ。
小麦粉を少し取り出し、同じ分量のココアを加えるだけだ。
これは頭の部分にするつもりだった。
型抜きも至って簡単だった。
伸ばした終えたビニール袋の端から切り丸い物で抜けばいいのだ。
オーブンシートの上に抜いた物を並べ、その上に半分に切ったココアタネをハの字に乗せる。
これが髪になるのだ。
大きなクッキーを作りたかったので、一枚の鉄板に四個置くことにした。
それに合わせて丸い物を用意すればいいのだ。
焼き上がったクッキーをオーブンシートから外し、クーラーと呼ばれる網の上に並べて冷ます。
冷めたらアイシングに色を着けて、目や口を描けば終了だ。
アイシングとは粉砂糖に玉子の白身を混ぜて良く練った物だ。
淳一は贈ってくれた一人一人の顔を思い出しながら似顔絵を製作しようとしていたのだった。
精一杯の心を込めて……
ネットで検索した本当の目的は俳句の調べるためだった。
句会と打ち込もうとしたら、くでクッキーがヒットしたのだ。
子供向けのシピとあったので淳一でも楽チンだと思ってノートに写したのだ。
作り方が簡単なだけではない。
計りと鉄板以外は殆ど汚れないから淳一にとっては夢のようなクッキーだったのだ
本当は詩織を驚かすためだった。
バレンタインデーが手作りのトリュフチョコだったから、自分も何か作りたかったのだ。
そのついでににチョコを贈ってくれた生徒達にもと思い付いたのだ。
バレンタインデーの夜にに製作した名簿と横に貼り付けてあったメッセージを頼りに返事も共に入れた。
そうしてやっと人数分の御返しクッキーは完成したのだった。
その中に草いきれの人もいた。
やはり彼女は淳一を狙っていたのだった。
最初はそんなつもりはなかったのだ。
運動が苦手で二年半の間を帰宅部として過ごしてきた彼女の場合は複雑だった。
就職も受験も、部活に入っていた方が有利ではないのかと思い始めたのだ。
其処へ降って涌いたように俳句同好会が出来た上がったのだ。
授業で習った以来の俳句だったから何とか格好付けたくて歳時記を購入したのだ。
草いきれに辿り着き、淳一の高評を得た。
だから舞い上がってしまい、淳一に好意を寄せてしまったのだった。
彼女は淳一への想いは書かずに就活に勝利した御礼を綴っていた。
(そうだ、彼女も吟行に誘おう。川越駅前に彼女が居たら皆驚くぞ)
何も知らずにサプライズの計画を立ててしまった淳一だった。
そして数日後。
俳句部になって第一回の吟行が催された。
行き先は又川越だった。
淳一が喜多院は枝下桜の名称だと言ったからだ。
「春は名のみの風の寒さやー」
森林公園駅に向かう道で誰かが口ずさんでいた。
「お、早春賦か?」
「ねえ、先生。早春賦と早春譜って二つの唄の意味知りたいのだけど」
「まあ国語の教師だから教えてあげてもいいけど、辞書で調べれば済むことだよね」
淳一はそう言いながらも地面に二つの字を書いた。
「譜は系統を立てて物を記録することだ。だから音符の節を繋いだ物を楽譜って言うんだよ。賦は貝と武だから武力によって集めるって意味だ。その賦の意味の中には、その物をありのままに記す詞の意味もあるんだ」
「その物をありのままにか? うーん、早春賦って何か俳句みたいですね」
「本当だな。俳句は難しくはない。自分の感じたままで良いのだからな」
「北風に、コートの衿を、そっと立て」
「それは季重なりだな」
「先生、今難しかしくないって言ったばかりだよ。こんな風の冷たい時にはコートの衿を立てたくなるものよ」
「そんな風をならいって言うのかな?」
「先生。そのならいって何ですか?」
「ならいとは関東地方の季節風だ。昔誰かが春北風って書いて、春ならいってルビをふっていた。良く解らないけど、そんな風だと思うよ」
そんな話をしている内に森林公園駅に着いていた。
「俺からのホワイトデーの御返しだ。電車代はいらないよ」
「わあ、クッキーだけじゃなかったんだ」
そう……
ホワイトデーは平日だったので、皆はそれだけだと思っていたのだった。
「今日は特別に卒業生も呼んでいる。皆、川越駅で待っているはずだ」
「本当ですか? わあ、楽しみだ」
皆がはしゃぐ中で悄気る訳にもいかず、詩織は笑顔を振り撒くことにした。
川越駅前で合流後、観光案内所で七福神めぐりのパンフレットを貰った。
まず一番の妙善寺にまで歩く。
どうせなら、楽しみながら川越の街を散策しようってことになったのだ。
毘沙門天に合掌して後は次なる天然寺だ。
其処には寿老人がいた。
その次がいよいよ喜多院だ。
暫く歩くと中院、その先に東照宮があった。
「東照宮で思い出す物は?」
「あっ、日光東照宮」
「彼処には徳川家の墓がある。だから此処にもあるんだよ。ほら、あの門にあるのが三葉葵の紋だ」
淳一は階段の先を指差した。
「わあ、行ってみたい」
「今日は止めておこう。折角の眠りを妨げたくないだろう?」
「それもそうですね。時間もありませんし……」
「じゃあ喜多院へ向かってゴーだ」
淳一は真っ直ぐに歩き出した。
「先生、そっちは道が」
「大丈夫だ、俺に任せておけ」
「頼もしいー」
詩織は卒業生の言葉にドキッとした。
そして気付いたのだ。
目を輝かせながら淳一を見ていることを……
詩織はその時、卒業生の魂胆を見抜いてしまったのだ。
次の瞬間。
詩織は嫉妬に狂った。
それはこれから悪夢の始まるゴングのようだった。
でもそれだけけではない。
部員達全員の目がハートマークになっていたのだ。
道なりに行くと小さな池があり、赤い橋がかかっていた。
「ほらあれが泥棒橋だ」
「泥棒橋?」
「昔彼処は丸太を渡しただけの橋だったそうだ」
「解った。その橋を泥棒が盗んだんだ」
「違うよ。江戸時代、喜多院と東照宮の管轄が違ったんだ。町奉行と寺社奉行って知っているだろう?」
「確か寺社奉行の管轄に逃げ込んだ泥棒を町奉行が逮捕さたのですよね?」
「おっ、良く知っているな」
淳一が卒業生を立てながら講義している。
詩織はそんな時もただただ震えていた。
本川越駅前のスクランブル交差点を右にに折れて暫く歩くと川越市の駅が見えた。
その時、詩織はハッとした。
喜多院から先の記憶がないことに気付いたからだった。
(これから先もきっと私は……)
それは紛れもなく、ジェラシーだった。
(もう、こうなったら野球なんかに構っていられない。絶対に工藤先生を守る)
詩織はその時決意した。
じきに選抜の高校野球が始まる。
関東大会で成績の残せなかった県立松宮高校野球部は出場出来ない。
(丁度良かった。野球部のマネージャーは直美に任せて)
詩織は新たな闘志に燃えていた。
「それでは先日の吟行で創作した句を発表してください」
何時もようにポーカーフェイスを決める。
それがやっとだった。
でも淳一は気付いてくれなかった。
淳一は何時もように句の選考を始めたのだった。
詩織はそんな淳一を見ながら、校長先生の言い付けを守らなければいけない苦しさを思い知った。
愛した人が兄だと解り、無理やり気持ちを封じ込めた日々が重なる。
(でも私は先生の奥さんなのだ。それだけで満足しなければきっとバチが当たる)
詩織は吟行句をしたためながら、部長としてやっていくことを誓っていた。
「先生中院の枝下桜も凄かったけど、やはり喜多院だね」
「先生。確かあの時、寄居にも五百羅漢があるって言ってたでしょう? 今度連れて行ってね」
(ん? 寄居の五百羅漢だと? ありゃ、記憶にございません。あー、先が思いやられる)
皆の弾む声を聞きながら詩織は一人で悄気ていた。
卒業生だけではなく、俳句部のメンバーにも淳一が取られそうで気が気でなかったのだ。
淳一と結婚した詩織を待っていたのは、更なるジェラシーの道だった。




