夏休みは絶海の孤島で
◆―― 一日目 ――◆
『南の島で三日間、羽を伸ばさない?』
こんな手紙が佐倉真奈から届いたのは、一週間ばかり前のこと。
「なつきお姉ちゃん、船酔いしてない?」
「ぜんぜん! もう最高の気分だよ」
海風に吹かれる髪とワンピースを押さえながら答えた。
我が新野家と仲の良かった佐倉家に招待されて、あたしは十代最後の夏休みを南の島で過ごす事になった。
手紙をくれた真奈とは八つも年が離れているから、生まれた時からの仲になる。
「島には明治時代の資産家の別荘が残っていましてね。海の幸をたっぷり使った昼食を召し上がって頂けますよ」
「本当ですか! もうお腹ぺこぺこで」
真奈の祖父である佐倉幸造氏は大企業の会長職にあり、買い取った島をリゾート地として売り出そうと考えているらしい。あたしが呼ばれたのは、いわゆるモニター調査というやつだ。
クルーザーの行く手に島が見えてきて、金持ちはやる事が派手だなぁ、と呟いた。
「ふぅ、やっと動かない地面に着いた」
南の島と手紙には書いてあったが、外国ではなく日本近海にある孤島だそうだ。
「あ、中田さんだ! おーい!」
降りた船着場からは三日間お世話になる屋敷が見え、エプロンをつけた夫婦が手を振っている。真奈がはしゃいでいるから、顔見知りの人が働いているんだろう。
「んー、いい天気」
快晴の空を舞う海鳥の声。風は涼しいし、紫外線対策にも抜かりはない。
屋敷では好物が待っていて、お腹はすいている。こういうのを幸福と言うんだろう。
「……あれ、さっきの人は?」
緑豊かな坂道を上って屋敷に到着したが、手を振っていた夫婦の姿はない。
「中田さーん、着いたよー!」
真奈の声に返事はない。
あたしは玄関を入ってすぐの広間をぐるりと見渡したけど、奥に続く通路も、二階への階段にも誰もいない。
「おーい! お客様だぞ!」
呼びかける佐倉さんの声にも、何の反応もない。客が来るっていう時に、どこに出かけたんだろう。
でも、室内にはちり一つなく、窓ガラスと調度品も磨かれてぴかぴかだから、客を迎える準備は完璧みたいだけど。
「うわー、おいしそう!」
広間に隣接する食堂に入ると、テーブルの上にきらびやかな昼食が用意されていた。
鯛の炊き込みご飯から始まって、海草サラダ、刺身の盛り合わせ、アサリのたっぷり入ったお味噌汁。
ご飯とお味噌汁はほかほかと美味しそうな湯気を立ち上らせていて、夏の暑さに乾いた喉を労わるような麦茶のコップも三つ。正に至れり尽くせりというやつだ。
「新野様、お迎えもせず大変申し訳ありません。従業員の方はわたくしが叱っておきますので、どうぞ食事のほうをお楽しみ下さいませ」
「いいんですか? じゃ、お言葉に甘えていただきまーす!」
頭を下げてから食堂を出て行く佐倉さんを見送って、あたしは即座に麦茶を飲み干した。ガラスのコップには水滴もついておらず、食事を準備した人はついさっきまでここにいたようだ。
「真奈、おかわり!」
「はいどうぞ、お客様」
それが少し気になったけど、美味しい昼食の前にはどうでもよくなってしまった。
「自転車で一周できちゃうくらいの島だけど、見所はちゃんとあるのよ」
部屋に荷物を置いた後は、真奈と一緒に島を巡ることにした。いなくなった従業員さんが心配だったが、佐倉さんに『我々はお客様をもてなす為に来たのだ』と言われた真奈が張り切ったからだ。
「えーと、まずは『波砕ける断崖』でしょ、『宝物の洞窟』に、ビーチもあるんだから」
自転車を置いてあるという屋敷の裏へ歩きながら、真奈は手書きの地図を広げた。
彼女のそんな張り切りぶりは、少しわざとらしくも見えた。知り合いの姿が見えない事を気にしているんだろうか。
「宝物? どんな?」
「本当にあるわけじゃなくて、いかにも宝物が隠してありそうだから、そういう名前をつけてみたの」
「次はビーチか。南の島だし、白い砂浜なの? 波砕ける断崖ってどんな感じ?」
「白くはないけど、潮溜まりもあって楽しいと思うよ。断崖はビーチからでも行けるけど、上から見たほうがいいかな」
彼女はそう言い、仰々しくお辞儀をした。
「ではお客様、断崖、洞窟、ビーチの順でご案内致します」
「どうもありがと」
前かごに荷物を入れてサドルにまたがる。自転車の整備はばっちりで、ペダルも気分も軽くなる。
「あ、そうそう。あの明治時代の別荘なんだけどね、建てた人は結構な変わり者って言われてたらしいよ」
「そりゃあこんな辺鄙な島に別荘建ててるんじゃあねぇ」
「そういう意味じゃない! 隠し部屋とか隠し通路が好きで、お客を驚かすのが趣味だったって。でもある日、屋敷で最愛の娘が行方不明になって、失意のうちに自殺しちゃったって話だよ。それでね、持ち主は死んでからも、娘を探してさまよって――」
「そんな話はやめて!」
不穏な流れを感じて話を遮ると、真奈はきゃはは、と笑った。
「怖い話が嫌いなのも変わってないね!」
「じゃあ何? 屋敷にいる筈の人がいないのも、その話に関係があるっていうの?」
「だって、中田さん達はずっと昔から佐倉の家で働いてる、まじめ一筋の使用人夫婦なのに。仕事を放っていなくなるなんておかしいもん」
切り立つ断崖に押し寄せては、白い泡となって飛び散る波。真奈が案内してくれた崖上からの景色はなかなかだ。
「うわー、迫力あるねぇ! ほんとに砕け散ってるよ」
「でしょ、でしょ?」
ここから日の出や日の入りを見たら、さぞ素敵だろう。
次なる『宝物の洞窟』はというと。
「ね? ゲームに出てきそうじゃない?」
「確かに、雰囲気ばっちりだわ」
「入り口から直接光が入ると、キラキラしてもっときれいよ」
干潮時のみ入れるという洞窟の空気はひんやり――を通り越して少し寒い。リュックからパーカーを出して羽織り、懐中電灯をつけた。
「結構広いねぇ……長さはどれくらい?」
「本格的な調査はまだよ。おじいちゃんが大学教授の友達に相談してみる、って。だから今は立ち入り禁止にしてあるの」
歩きながら辺りを照らすと、かなり天井が高い。洞窟という場所柄か、潮の匂いは岸壁のそれとは違った感がある。懐中電灯の光に、縄と柵で封鎖された道が見えた。
「探検ツアーとかするにしても、干潮の時しか入れないんじゃ、安全上問題があるんじゃないの? お客さんが怪我したり、行方不明になったら一大事だよ」
「うーん、やっぱり洞窟は使えないかなぁ」
洞窟を出た後で、真奈はあたしの意見をメモ帳に書いていた。島巡りはあと一つ、ビーチを残すのみだ。
「なつきお姉ちゃん、今度来る時は彼氏作れば? 私だってもう少ししたらばーんきゅぼーんになるし、先に彼氏できちゃうかもよ」
水着に着替えて遊んでいると、あたしの胸の辺りを見た真奈がこんな事を言い出した。おのれ、セクハラ小娘が。
「おーおー、昔おしめ替えてやった赤ちゃんが生意気な口を叩くようになって。お尻の黒いあざはとれたの?」
「うるさい! あざなんて無いもん!」
かんかんになった真奈に水をぶっかけてやると、すぐにお返しがきた。自業自得のくせに。
――梓島の景色はとてもきれいだ。でも、行楽地として売り出すにはそれだけじゃダメだと思う。何せ、東京から何時間もかかるような孤島なのだ。目玉商品の一つもなければ始まらないだろう。
「どこにもいなかったんですか? 従業員の人達」
佐倉さんからその知らせを受けたのは、屋敷に帰って夕食を食べ終えた時だった。あたしと真奈が島を巡っているあいだ、捜せる場所は全て捜したが見つからず、さすがに警察に連絡しようとしたら無線機の故障まで判明したという。
つまるところ、迎えのクルーザーが来る四日目の朝までこの島に缶詰になってしまったのだ。
「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません、新野様。生活物資の蓄えは十分にありますので、ご入用のものがありましたらお申し付け下さいませ」
そう言って、佐倉さんは可哀そうなくらいにぺこぺことお辞儀をした。人探しを手伝いましょうか、と申し出ても『お客様のお手を煩わせるわけには参りません』と却下されてしまう。
行方不明なんて穏やかじゃないけど、迎えが来るまでこの島にいる事は変わらないんだし、気にしても仕方ないか。
だけど、知り合いの行方不明がはっきりした真奈はショックを隠せないみたいだ。まぁ、考えてみれば当然のことだろう。しょんぼりしているのを元気付けようとしたら、先に彼女の方が口を開いた。
「あ、あのさ! 今日は海で遊んだし、体べたべたでしょ? 広いお風呂で背中を流してあげる!」
「そう? じゃあ、お願いするね」
準備をしてくると食堂を出る後姿に、真奈も大きくなったなぁ、と呟くと。低く抑えた笑い声が聞こえた。
「……いえ、失礼。わたしはあの子の幼い頃を知らないのでね。あなたが少し羨ましくなりまして」
「幼いって、今でも十分子供ですよ?」
佐倉さんに問い返すとまた笑われた。この人くらいの年になれば、あたしだって『幼い』ってことになっちゃうんだろうけど。
「商売柄、疑り深くなっていた時期がありましてね。そんな折に一人息子が使用人と結婚したいなどと言うものですから、どうせ相手は金目当てだろうと反対してしまったんです。私もそうですが、息子も強情でしてね、絶対に譲りませんでしたよ」
「もしかして、それで勘当とかいう事に?」
佐倉さんはふふっ、と笑った。
「何年かが経ちまして、勘当を悔いて息子夫婦を捜し出したものの、和解の糸口がつかめずにいた私を助けてくれたのはあの子なんですよ」
「そうなんですか?」
真奈がそんなに気遣いの出来る子だったなんて、初耳だ。
「ええ。今でも息子とはぎくしゃくする事があるのですが、真奈がいつも間に入ってくれまして」
佐倉さんはふぅ、と息を吐いた。
「孫に気を使わせてばかりの駄目な祖父ですから、あの子の望みは叶えてやりたいのです。あの子があなたを呼びたいと言ったときも……」
「お風呂の準備、出来たよー!」
どうしよう、昔話じゃなくて孫自慢だった、と悟ったあたりで助け舟が来てくれた。
「じゃ、お風呂頂きますね」
「おっと、長く話してしまいましたか」
佐倉さんは恥ずかしそうに頭を掻いて、こう続けた。
「念のため、私は戸締りをしてきます。部屋はお渡ししたルームキーで施錠が出来ますから、よろしければお使い下さい」
「ありがとうございます」
あたしはお礼を言って佐倉さんの背中を見送った。
その後真奈と一緒に入ったお風呂の広いことと言ったら! 背中を流してもらい、思う存分くつろいでしまった。
階段を上がって部屋に入り、ベッドに倒れこむ。昼間の疲れからか、すぐに目蓋が重くなった、けど。
「まぁ、一応かけとこ」
思い出してドアに鍵をかけると、今度こそベッドにもぐりこんだ。
◆―― 二日目 ――◆
翌日の朝、コンコンというノックの音があたしの目を覚ました。
「おはようございます、新野様。朝食の時間は七時半となっておりますので、お支度が出来ましたらどうぞ」
「ふぁあい」
佐倉さんの声にベッドから這い出し、着替えて食堂に向かう。
時間は七時十五分。あたしは客だけど、ちょっと手伝うくらいならいいだろう。
「あれ? 佐倉さんいないの?」
食堂では真奈が鍋をかき混ぜて、スープの味見をしているところだ。食器の並べられた食卓で、トースターがチン、と音を立てた。パンの焼ける香ばしい匂いがする。
「え? おじいちゃんならさっきまでそこに居たよ。なつきお姉ちゃんを起こしに行ったけど、一緒じゃないの?」
「そうだけど……ここに来る途中では会わなかったし、てっきり食堂かと思って」
「変だなぁ……部屋にいるのかな、おじいちゃん」
首を傾げる真奈を連れて、部屋に行ってみると、ドアには鍵がかかっていた。
「佐倉さん、佐倉さん?」
ノックして呼びかけても、返事はない。
真奈にスペアキーを持ってきてもらって扉を開けると一瞬、風が強く吹き抜けた。
「おじいちゃん?」
真奈がきょろきょろしながら中に入る。
「窓、開いてる……?」
バルコニーに向かって大きく開いた窓。手すりの下に揃えて脱いであるスリッパに、あたしは目を疑った。真奈は洗面所を探していてまだ気づいていない。
ごくりと唾を飲み込み、いやいや、と頭を振る。昨日嬉しそうに孫自慢をしていた人が、そんな事をする理由がない。
重い足を動かして、そろりそろりと窓に歩みよる。
まるで地平線のかなたにあるかのような手すりにたどり着き、恐々下を覗きこんだ。
「はぁー……」
二階から見下ろした地面には、何もなかった。
――なくて良かった。転落死体でも見つけてしまった日には、真奈に説明する自信なんてない。
「どうしたの? なつきお姉ちゃん」
気が抜けてへたり込んだところに、小走りに真奈がやってくる。
「ううん、なんでもないよ」
笑ってごまかし、スリッパを見えないように隠すと、彼女はぽつりと口にした。
「おじいちゃん、部屋のどこにもいないの」
その日一日は、捜索に費やした。
最初に、屋敷の中をくまなく。無線機はうんともすんとも言わなかった。
昼食をとった後で、自転車で主だったところを回る。真奈は昨日と同じように先導役を務めてくれたけど、家族がいなくなった今となっては痛々しく見えた。
「朝もお昼も作ってもらっちゃったから、夕ご飯は私が作るね!」
「ありがとう。じゃ、こっちはお風呂ね」
捜索が徒労に終り、くたくたになって屋敷に辿りついた夕方。疲れているだろうに、真奈は台所へ走っていった。あたしの方は、お風呂の準備をして、屋敷の鍵がかかっているか確認する。
昨日の夜もこうやって、佐倉さんは戸締りをしてまわったはずだ。部屋のドアは施錠されていたし、朝確認した屋敷中もそうだった。無論、外からこじ開けた形跡もない。唯一の例外が、あのバルコニーの窓だ。
「うーん……」
普通に考えれば、部屋の主が開けて出ていったんだろうけど。一体どうしてそんな事をする必要があったのか? あたしはともかく、孫娘を置いていなくなるなんて。
「足跡も無かったしなぁ」
仮に、ロープなり梯子なりでバルコニーから降りたとしよう。だけど、地面に一切痕跡を残さないなんて事が出来るだろうか。
「お姉ちゃん! ご飯できたよ!」
「ん? ああ」
真奈の声に思考を打ち切られ、座っていた階段から立ち上がる。
「何回も呼んだのに、ちゃんと返事してよ」
「ごめんね、ちょっと考え事してたから」
ふくれっ面の真奈を宥めて、食堂で夕食をいただく。メインは鯖の味噌煮という渋い一品だ。しかも小学生の料理とは思えないほど美味い。
「いいお嫁さんになれそう……けどお嬢様だし、お嫁に行ってもコックさんとか雇うのかな?」
「素直に感謝しなさい! それと、お嬢様って言うな!」
食器を片付けて入浴を済ませ、さて寝るかという段になって、パジャマ姿の真奈があたしの部屋を訪れた。
「一緒の部屋で寝たい?」
「……別に、嫌ならいいんだけど」
「ううん、そんなことないよ。昨日の今日だし、真奈ちゃんが言わなければこっちから提案しようと思ってたの」
枕をぎゅっと抱えた彼女を部屋に入れ、しっかりと鍵をかけた。思えば、昨日三人別々の部屋で過ごしたのが間違いだったのかもしれない。バルコニーがついた窓も確認――閉まっている。
「ねぇねぇ、ほんとに彼氏いないの?」
「いないってば」
「じゃあ好きな人はー?」
「しつこいなぁ、いないの! 隠して得な事なんてないでしょ!」
ベッドに座った真奈の髪をとかしてやると、キラキラした目で聞いてくる。恋愛に興味津々なお年頃なんだろうけど、今はそんな話をしている場合じゃない。
「それよりも、本当にあの無線機しかないの? 連絡手段は」
「うん。私の知ってるのはあれだけだよ」
「ちょっと早く迎えが来たり、なんて事は……ないよねぇ」
彼女はこくりと頷く。
「三人が行方不明になる前、何か変わった事はなかった?」
「そんな事急に言われても……」
真奈は俯せに寝そべって、足をぱたぱたしながら考え込んでいる。
「一足先に出発した中田さん達は見送ったけど、特に変わった事はなかったし。おじいちゃんもずっと楽しみにしてたよ?」
「ご、ごめんね、思い出させちゃって」
しゅん、としおれる真奈に慌てて謝った。
全く、何をやっているんだろう。今はあたしがしっかりしなくちゃいけないのに。
「他に聞きたい事は? ……あふぁ」
真奈美の大あくびに時計を見ると、九時をまわっている。小学生はもう寝る時間だ。
「ん、あっちのソファで寝るからいい」
「はぁ?」
タオルケットをかけようとした手は遮られ、彼女は枕を持ってソファに移動した。
「仮にも招待主が、お客様と同じベッドって訳にはいかないの。朝も私が起こしてあげるからね」
「今は非常時じゃない。それに昔は一緒にお昼寝したこともあったでしょ」
「そうそう。それなのよ」
たんすからもう一枚のタオルケットをひっぱり出した真奈は、こっちを向いてにやりと笑った。
「なつきお姉ちゃん寝相悪いんだもの。同じベッドじゃ蹴り落とされちゃうわ」
「それ、何年前の話?」
どうやら、お嬢様は元気におなり遊ばしたようだ。
あたしは寝る前にもう一度鍵がかかっているか確認してから、タオルケットをかぶった。
「おやすみなさい、お嬢様」
「うん。おやすみ、お客様」
◆―― 三日目 ――◆
バルコニーへ向けて開いた窓と、揃えて脱がれたスリッパ。
起きたばかりのしょぼついた目にそれが飛び込んできて、すぐさまバルコニーから身を乗り出した。
「……くぅ、う」
下には誰もいない。真奈が寝ていたはずのソファにも。
『屋敷で最愛の娘が行方不明になって、失意のうちに自殺しちゃったって話だよ。でもね、持ち主は死んでからも、娘を探してさまよって――』
唐突に。怖い話を楽しそうに話す、真奈の顔を思い出した。
窓から入る風になでられ、ぶるっと体が震えた。部屋に戻って窓を閉め、ソファに残されたタオルケットをきつく握る。
歯を食いしばるのをやめて、見やった時計はぴったり八時。
迎えが来る明日の朝まではまだ遠い。そもそも、『朝』と言っても何時なのか分からない。まさか日の出と同じって訳でもないだろうし。
「起こしてくれるって言ったのに」
目覚ましをセットしなかったから、少し寝坊してしまった。でも、時間も出来る事もまだあるはずだ。
着替えて髪をまとめる。ベッドを整えて、真奈の使った枕とタオルケットも片付けた。
戸締りはと見ると、バルコニーに出る窓以外はきちんと閉まっている。昨日あたしが確かめた時のまま。
「さて、と」
部屋を出て、台所で朝ご飯を作る。佐倉さんが言っていたように、食材はたっぷりあった。適当に見繕ってサンドイッチを作り、飲み物と一緒に食堂へ持っていく。
朝食をとりながら、今までの出来事を整理して書き出してみた。
「初日に従業員二人がいなくなり、二日目の朝に佐倉幸造が消え、三日目の朝は佐倉真奈……」
この全てに共通するのが、ついさっきまで居た形跡があること、自分で出ていったとしか考えられないことだ。
外界から隔てられたこの島に、あたし達五人以外の『誰か』がいるのだとしても、外から鍵を開けたりは出来まい。
「ひゃ!」
急に風が強く吹いて、大きな音がした。けど、それよりも自分の声に驚いてしまう。夏なのにちっとも暑くない。
「曰くつきの屋敷、洞窟、断崖、一人ずついなくなる住人、と」
深呼吸して鼓動を落ち着かせると、真奈の手書きの地図を思い出してメモに付け加える。ふと、僅かにひっかかりを覚えた。
「なんか、どっかで見たことあるような」
その場をうろうろして、何とかこの既視感の理由を突き止めようと記憶を探ったけど、どうしても分からない。
「そういえば、屋敷を建てた人は隠し通路好きだっけね」
あの時は真奈が怪談みたいに話すから、まともに受け取らなかったけど。もしかしたら本当にあるのかもしれない。
前調べた時は考えもしなかったけど、あるとすれば二人の人間がいなくなった寝室だろう。開いていた窓とスリッパの事は、とりあえず考えないでおく。
「……探してみるか」
屋敷の二階は、寝室が三つ並んでいる。左から佐倉さん、真奈、あたしという部屋割りだ。隠し通路を作るなら、部屋同士をつなぐか、鍵を閉めたまま外に出られるようにするか、だと思うんだけど。
「うわっ、こんな簡単に見つかっちゃうの? 今まで何を調べてたんだっけ」
佐倉さんの部屋。隣が真奈の部屋になっている壁を丹念に調べると、それは実にあっさりと見つかってしまった。
「これが本当に、明治時代に作られた屋敷?」
隠し通路の内部はコンクリートが露出していて、打ち立てのようにまっ平らだ。いくらなんでも新しすぎる。
――その違和感は、メモを作った時のひっかかりと同じ匂いがした。
「こんな気味の悪い島にはいられないわ! 泳いででも出てってやる!」
自分の部屋に戻って、貴重品だけをまとめて水着に着替える。船着場への道を急ぎ、準備運動を始めた。念入りに体を伸ばし、首を回して手足をぶらぶら振る。
たっぷり運動してから、屋敷の方を振り返って叫ぶ。
「みんな待ってて! 必ず助けるから!」
海に飛び込もうとした、正にその時。
「早まっちゃだめーっ!」
あたしの腰に、脇の茂みから飛び出した何かが組み付いてきた。
「私達、誰もいなくなってないから!」
「あーら、やっぱりそうだったの」
組み付いてきたものをつかんで立たせる。
「じゃあ、事情を説明して頂きましょうか」
にっこり笑って見下ろすと、佐倉真奈はびくっと体を強張らせた。
屋敷に戻って服を着替えたあたしのまわりを、三人の人間がせわしげに働いている。佐倉さんに、中田とかいう従業員夫婦。
「初めてこの島に来た時、絶海の孤島に断崖絶壁や洞窟があるなんて、ママの好きなサスペンスドラマみたいだなと思って」
「それがどうなって今回のお芝居に繋がるのかな?」
用意された紅茶を一口飲んで、あたしは真奈に続きを促した。
「外国を体験できるテーマパークってあるでしょ? せっかく雰囲気あるんだし、ここを『サスペンスアイランド』にしたら面白いんじゃないかと思ったの。おじいちゃんに提案したら、お屋敷作ってくれて」
「作ってくれてじゃないっ!」
飛びあがって震える真奈や、おろおろする大人三人なんて知ったこっちゃない。
全く、金持ちはやる事が派手すぎる。
「人がどんどん消えてって、怯えるあたしを見て喜んでたわけ? 自分で出て行ったんだから、鍵もなにもないよねぇ!」
彼らは居なくなったわけじゃなかった。
正確に言えば、あたしの目の前でいなくなってはいなかった。誰一人として。
「ごめんなさい! おじいちゃんと中田さんは関係ないから」
「危機管理もなってないし、シナリオも何もかも甘すぎるの! 大体、なんで客に何の断りも無いわけ?」
「それは……その、最初から知ってたら面白くないだろうと思って」
「ふざけるのも大概にしなさい! 佐倉さん、あなたは孫に甘すぎです!」
「た、大変申し訳ありません! お詫びは必ずさせて頂きますから!」
あたしは真奈を怒鳴り、じじいの声を振り切って部屋に戻った。
やはりというか当然というか、その後『ミステリーアイランド』などという物が世に出たという話は、さっぱり聞かない。