※D
米DはD番目の米である。
それがA,B,C,D……と数えた場合の、つまり4番目という意味なのか、それとも16進数におけるD――つまり13番目という意味なのかは誰も知らない。
誰も知らなくても今日までこうしてやっていけているところを見ると、知らなくても特に問題の無いことなのだろう。
何番目なのかはともかく、それは現在人々の主食である。
何かを食べるとき、それが何番目であるかなど、どうでもいいことなのは確かだ。
何番目なのかは知らずとも、人々はそれを食す。それは血となり肉となり、お隣さんへのおすそ分けとなり、各人その人なりの人となりを左右したりしなかったりスルー
もはや現人類こそ米Dの塊であると言っても過言であるのは重々承知だが、どうだろう、ここはひとつ、思い切って言っておくのも。
しかし「人々は既に米Dに飽きてきているのではないか」という疑問は至極もっともで、今最も人々の関心を集めるセンセーショナルな議題であることは間違いが無い。
果たして人が主食である米に飽きることなど出来るのだろうか? しかし実際に、そういう兆候は各地で見られるのである。
まず九州は福岡県明太子町では去年より『米D飽いたぞえ祭り』なる祭りが毎夜催されているとの噂である。筆者の個人的な知人であるさる事情通によると、それは嘘だそうだ。君の空想だと、彼は言うのである。失礼な奴だ。
しかしもし仮に、人々が米Dに飽いたとして、では次なる主食は何にするつもりなのか。
その点については意見が分かれることとなる。それも十人十色といったありさまで、定説という定説さえ無いというのが定説である。
米Eなるものが現れるまで待つか、それとももう思い切ってビタミンDに鞍替えするか、パンだパン、パンはねぇよ、パンが無いなら景気を良くすればいいじゃない、今の時代はシリアスだろう、フレーゲだ、グラノーラという選択肢も、と、もうしちゃかめっちゃかなありさまで、なんだそれは、うまいのか、しっちゃかめっちゃかは食い物ではありません。(と思ったらありました。九州は博多県うまかばいの(※追記 嘘情報でした、すみません))
もしこのまま人々の定まった主食というものが消え去り、各人が各人毎に、好きな物を好きなように食すようになればそれはそれで好ましい。好ましいけれども、果たしてそれで良いのだろうか?
文化とはまず第一にまとまりのことであり、たった一人のマイブームを文化と呼んだりはしない。それが必然性のない馬鹿馬鹿しいことのように思えたとしても、皆がある一つの方向を向くからこそ、それは文化となるのだ。
だとすればこの事態は、大方の想像以上に深刻な事熊なのではあるまいか。
いま、一つの文化が消え去ろうとしている。それも、それに代わる新たな文化もなしに、未来永劫、文化という枠さえその範囲から消え去ってしまうのではないかという危機に今、我々は見舞われている。どうもありがとう。いえいえお気になさらず。
このまま放っておいて良いのだろうか? 今こそ我々はいっせいに米Dを食すべきなのでは?
この手記がもし政府の目に留まればいっぱい褒められることは請け合いだろうが、なにぶんスパイの身である。敵国の文化再建に助力したとなれば祖国に示しが付かない。
でも私は、ああ、米Dが好きなのだ。ニポンの米Dがダイスキナノデス! マザファ力!
この手の手紙を読んでいる時、ワタシはもうこの世にはいるとは思いますが、なにぶん根無し草なもんで、へぇ、明日は明日の風が吹くでござんすよ。
というわけでこの不幸な手紙を5人の勇者に送らなければ、いいのに。
※D案については棄却されました。足から頭。
あとがき
正直ごめんなさい。