表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/26

61式駆逐戦車~全て日本兵器開発の始まり~

今日8月18日は【占守島の戦い】ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に奇襲攻撃。

ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。

捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。ソ連軍を相手に民間人と北海道の地を守った池田 末男少将と士魂部隊の英霊達のご冥福を祈っております。

≪61式駆逐戦車≫


別命≪61式突撃砲(他にも“和製Ⅲ号突撃戦車”“突撃豆戦車”)≫の愛称で親しまれる日本で初めて作られた戦後初の戦車にして戦後初の国産兵器。


発足当時、日本警察特車部隊にはアメリカ軍から供与されたM4A3E8(通称「M4シャーマン・イージーエイト」)やM24チャーフィーが配備された。


だがM4シャーマンではソビエト連邦のT-54/55、T-62などの無敵赤軍機構軍団に対抗する事など不可能、自殺行為、戦時中のチハVS M4シャーマンの再現になる事は明白でしかなかった。


また時、供与されたM4シャーマンやM24チャーフィーは第二次世界大戦や朝鮮戦争で使用された中古品や余剰品が供与された為、故障をたびたび起こし、また体格の大きな欧米人に合わせて作られた為、体格の小さい日本人には合わず運用に支障をきたした。


またコレ等の戦車は第二次大戦中に日本軍と対峙し、苦汁を舐めさせられた宿敵である戦車を運用する事になった旧帝国軍戦車兵にとっては苦渋の現実でもあった。


当時、世界各国で戦後第一世代の戦車の開発配備が進んでおり、特に第二次世界大戦後期には既に能力不足が指摘されていたM4シャーマンや朝鮮戦争でT-34/85に完敗したM24チャーフィーやM41ウォーカー・ブルドッグの更新が急課題となっていた。


90mm戦車砲を搭載するM26パーシング、M47パットンやM48パットン戦車の導入を支持する声も存在したが、その当時のアメリカ陸軍は朝鮮戦争の結果をうけて戦車ならびに対戦車兵器の更新に取り組んでおり折しもヨーロッパ第一主義の方針もあって日本にソ連と互角に戦える戦車を供与する余裕を完全に失っていた。


しかも当時アメリカ軍の最新戦車であるM26パーシング、M47・M48パットン戦車は日本の輸送・道路事情などの面からあまりにヘビー級で運用が難しいと云う事情があった。


1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い在日米軍駐留経費の日本への返還がおこなわれることになり、またMSA協定に基づくアメリカによる対外援助により開発費用の目処が立ったため、国産開発が検討される事となる(因みに開発予算と技術者の一本化の為、60式自走無反動砲と60式装甲車の開発は中止され、M113装甲兵員輸送車が採用された)


また戦車と云う戦争を連想させる国民の反戦感情(軍事アレルギー)などにも配慮し、61式突撃砲(後の1962年に駆逐戦車と改名)と命名。


この様な情勢下の元、1955年にGOサインが出され開発が着手される。ココに戦後初の国産戦車の開発がスタートした。


開発際には当時の貧弱な国内道路網を勘案し、鉄道輸送が可能な車体容積であることが要求事項に盛り込まれた。


主要な幹線国道でさえ大半が土道・砂利道だった当時の国内の道路事情、山地や水田が多いという地形的事情などを考慮して低接地圧の実現と機動性確保の面からも車体の軽量化は強く求められていた。


また本車は自国内での運用を想定し起伏に富んだ地形を活用する待ち伏せ戦術に順応したものとして開発された。


厳しい要求と戦後の低い工業能力の中、61式駆逐戦車は大戦中の友邦国ドイツや仮想敵国ソビエト連邦などを筆頭とした各国の駆逐車を参考にして製作する事を決定。


主砲は当初、90㎜砲を搭載する予定だったが駆逐戦車の情報収集の為に西ドイツに派遣した技術チームから105㎜砲の情報をキャッチし、後に“西側標準仕様戦車砲”と呼ばれるイギリス、ヴィッカーズ社L7A1 51口径105㎜砲の搭載を決定した。


重量の軽減と防御性能の上げる為にフロントエンジンを採用。搭載するエンジンは旧軍からの伝統である空冷ディーゼルエンジンを採用。


速度・機動性・ダッシュ速度は当時、アメリカのM41ウォーカーブルドックを凌ぐ程、良好だった。


正し操縦性は良好ではあったが些かピーキーで特に急加速と急ブレーキがよく効き過ぎる傾向がある為に“殺人アクセル”“殺人ブレーキ”と乗員から皮肉られながらも頼りにされ、中にはドリフトなどレーサー顔負けの運転テクを披露する操縦手もいた。


狭軌と言う幅の狭いレール・狭いトンネルを走る車体の小さな日本の鉄道で輸送する為に車体長6.30m、全幅2.8m、重量30tと言う小型軽量の車体となった。


開発に際して計画目標のサイズに近いドイツのⅢ号突撃砲を参考にしつつ、ソ連のSU-100、開発中であったスウェーデンのSタンクの要素を盛り込んだ。


非常に低い車高と鋭角の強い楔形の形態を持っており、極めて浅い車体上部の避弾経始で砲弾を弾き、更に車内に侵入した砲弾は乗員区画前に配置されたエンジン区画で食い止めるという設計で防御力を確保する。


前面配置されたエンジンを防御に利用する構想はイスラエル国防軍のメルカバと共通する。


また大戦中に開発が進んでいた幻の日本最強戦車、五式中戦車からの技術転用とフランスのAMX-13を参考にした事により自動装填装置射撃を装備。


自動装置装置の採用と操縦を1名のみでこなせる構造から61式戦車は乗員1名でも移動と射撃が可能な戦車でもある。


この様な仕様を織り込まれた61式駆逐戦車は105㎜砲を搭載し、鉄道輸送が可能な攻守走バランスの取れた駆逐戦車となった。


同世代の駆逐戦車であるスウェーデンのSタンク(Strv103)や西ドイツのヤークトパンツァーカノーネなどと比較されるが最大の特徴は行進間射撃を可能にしている点。


これにより待ち伏せ後、敵戦車に殴り込みをかけ、走りながら砲弾を敵戦車に当てれるという化け物並の性能をもった駆逐戦車が誕生すると事となった。


輸出も駆逐戦車としては大成功という成功収めており、ジャングルや山岳地帯など戦車の運用が難しい国や予算が少ない中小国を中心に台湾、ブータン、パキスタン、インド、タイ、スイスなど10ヵ国程度の国々が購入した。



余談ながら61式駆逐戦車の有名なエピソードしては日米合同訓練中、アメリカ側の一個戦車中隊を日本側の1個駆逐戦車小隊が翻弄し全滅させた話。


後に参加したアメリカ将兵達は<チョコマカ動かれ気が付いたらゼロ距離射撃を喰らって全滅させられた><何処のヴィッ○マンだ!>

<普通、駆逐戦車が戦車相手に突撃しない!><駆逐戦車が行進間射撃するな!><大戦中に投入されなくて良かった・・・><日本人はCrazy!>などと語る。

なお、この時対峙した日本側の隊員や指揮官は第4・第8戦車隊の薩摩の皆さまだったとか・・・そして後に航空機による輸送も可能なり、後年は総合火力演習の時、空挺隊員達と空挺降下してくる『空挺戦車』となり人々の前に披露され、世界の軍事関係を驚かした。

その為、21世紀に入った現在でも空挺部隊内のみでは現在も≪頼れる相棒≫として使用され続けている。

なお、派生型にヘリで空輸用出来る様に徹底的に軽量化した空挺戦車型や改修型モデルや購入した一部の国では44口径120mm滑空砲を搭載した改修モデルも存在する。



【スペック】

重量25t

乗員3名

全長7m

全幅2.8m

全高2.2m

武装L7A1 51口径105mmライフル砲×1、ブロー二ングM2 12,7mm重機関銃(又は7,62mm機関銃)×1

最大装甲100mm

最大速度50km


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ