物語の始まり
これは、まだ、世界が戦争や革命で混乱している時代の話。
北の寒い寒い国―――ミラ―――では、遠いまだ見ぬ世界、ラーダへの使者を送る儀式が行われていた。
「我、ミラの王、カリノ・ミラが命ずる。
氷の妖術師コルの娘モルよ。
我らが国の為、そなたを使者としてまだ見ぬ世界、ラーダへ送ります。」
ミラの王宮の王座に座っているカリノ・ミラは、美しい長い金色の髪をそのまま垂らして、髪と同じ金色の目を王座の前でひざまずいているコルとモルを見つめていた。
そのカリノ・ミラは、誰にも聞こえないように小さく鼻で笑った。
王宮に集まったミラの民たちが歓声を上げ続ける。
カリノ・ミラはもう一度小さく鼻で笑ってから、
「頑張ってきてくださいね。」
と、笑顔で少し皮肉を込めた口調で言った。
まだまだ若い二十七歳ぐらいのコルは、カリノ・ミラの皮肉に怒りを覚え、頭を垂らしたまま唇を噛んだ。
そして、そっと涙を流した。
今年六歳になったばかりのモルは、母の異変に気付いて、ひどく悲しそうな表情で母を見つめた。
その親子の様子を見たカリノ・ミラは、二人にしか聞こえないくらい小さな声で囁いた。
「多くの民から嫌われ、憎まれ、恨まれる妖術師である貴方の娘が出世でき てさぞ嬉しいであるうな、コル。
ふふっ。
とうとう、妖術師も私の道具になるのですねえ。
ふふふふふっ。」
「…それは、一体どういう意味でございますか?」
コルはカリノ・ミラの不審な囁きに即座に問うた。
「そのままの意味に決まっているでしょう?
ふふ、まったく、不思議なことをおっしゃるのね。」
カリノ・ミラはコルの問いに、嫌味を込めて、おまけににやあっと笑って答えた。
そして、足を組み、少しうつむいて長い髪で顔を隠しつつ、もう一度にやあっと笑った。
カァーン、カァーン、カァーン、カァーン。
正午を知らせる鐘が鳴る。
そろそろ、モルの出発の時間である。
王宮にいるミラの民たちが皆、モルに注目する。
「わ、わたくし、モル…は、我が国、ミラの為に…。
為…に、ラ―ザへ、行ってまい、まい…まいります。」
緊張してか、モルは出発の言葉がカタコトになってしまった。
しかし、民衆は、そんなモルを我が子を見るような眼で優しく見守っていた。
―――――そんな中、コルだけが泣いていた。
モルと別れる寂しさ、悲しさもある。
…が、彼女は、寂しさや悲しさよりカリノ・ミラに対する、恨み、憎しみ、悔しさの方が勝っていた。
相変わらず、カリノ・ミラがにやついていることにコルとモルしか気付いていない中、鐘が合図だったのか、カリノ・ミラの侍女が腕に黒い猫の入った銀の鳥かごを持って現れた。
侍女は、カリノ・ミラの隣まで行き、小声で何か尋ねてからモルの前まで来た。
そして、「顔を上げてください。」とモルに言った。
モルが震えながら顔を上げると、侍女は腰をかがめてモルの目の前に鳥かごを差し出していた。
―――――侍女の眼には、光が無かった。
困惑して首をかしげるモルに、カリノ・ミラが見下したような眼でにこっと笑った。
「モル、そなたにその黒猫を与えよう。
そなたの良き相方となるであろう。」
カリノ・ミラが言い終えると、侍女はモルに鳥かごを渡し、そそくさと持ち場に戻って行った。
カタンカタ、カタカタン、カタンカタ。
突然、王宮の入り口の方から、王宮馬車の来る音がした。
すると、カリノ・ミラは王宮の入り口をしり目に、重たそうな口を開いた。
「では、モルよ、出発の時が来たようだ。
さあ、ミラの民たちよ!!
モルを、この小さな娘を、我らの希望を、盛大な拍手で送り出してやって くれ!!」
あの重たそうなカリノ・ミラの口から出てきたとは思えないほどの、はきはきとした声が響いた。
「さあ、頭を上げなさい。
そして、向かうのです。
新たな世界へ、希望へ!!」
モルとコルは頭を上げ、立ち上がり、王宮の入り口にゆっくり歩いて向かった。
大きな拍手だ。
大きくて、盛大で、期待のたくさん詰まった、拍手が、モルとコルに。
コルはうつむいていた。
モルは、恐怖と闘っていた。
民衆の拍手は、こんなにも大きく、優しく、温かいものなのに。
何故か…、黒い大きな塊のように感じた。
黒い、黒い、真黒な…大きな塊。
そして、その塊の中に、うつむいている母、コルが溶け込んでいくのをモルは感じた。
恐ろしい。
とても、とても恐ろしい。
モルは、母が怖くなって、隣を歩いている母から少し離れた。
そして二人は、王宮の入り口を抜けて、馬車の前まで来た。
すると、王宮馬車の脇に控えていた侍女二人が、モルに話しかけてきた。
「カリノ・ミラ様は怖い人。」
「カリノ・ミラ様は恐ろしい方なの。」
「カリノ・ミラ様は賢い人。」
「だから、気をつけてほしいの。」
「私たちのように、ならないで。」
「あなたの母上はね。」
「もう、手遅れ。」
「だけど、まだね。」
「あなたという希望が、ある。」
「大丈夫よ。」
「心を。」
「精神をね。」
「「大、切…に。」」
侍女たちは、そう言うと突然、力が抜けたかのように、動きの一つ一つが機械的になり、王宮にいたあの侍女のように、眼から光が消えていた。
モルは、母を見上げた。
うつむいている母、コルは、眼から光が消え、人間とは思えないほどの冷たい眼をしていた。
怖い。
王宮は、怖い。
カリノ・ミラは、怖い。
侍女たちは、怖い。
ミラの民たちは、怖い。
母は、怖い。
何もかもが、怖い。
モルは、唇を噛んで、涙をこらえた。
あの優しかった母も、この恐ろしい王宮に着たせいで、変わってしまった。
恐ろしくなってしまった。
―――――嗚呼、この世はなんて恐ろしい。
母をこんなに簡単に変えてしまうなんて…!―――――
モルは、心の中で叫んだ。
そうこう考えているうちに、あの侍女二人が支度を済ませ、馬車の扉を開けていた。
「「お入りください。」」
機械的に話しかけられて、モルは少し動揺しつつ、一度民衆に向けてお辞儀をしてから王宮馬車に入った。
母のコルを振り返る。
―――――無表情だった。
モルは唇を噛んだ。
涙目になりつつ、小さな声で「母様、行ってまいります。」と言った。
侍女が扉を閉めた。
すぐに、王宮馬車は走り出した。
モルは、外にいる民衆と、わざわざ王宮を出てきたカリノ・ミラに手を振った。
――――――――――それから先の記憶は、モルにはもう無い。
消されてしまったのだ。
こんなにも恐ろしい形で、モルの旅、侵略は始まってしまったのだ。