プロローグA
視界が無かった。
上下左右、どこに視線を彷徨わせようとも、何も見えなかった。そこが空間なのかということにさえ、疑問をもつほどに。
そして低く鋭い唸り声が、風に乗って耳元に届いた。
「お兄さん」
先程とは別の、呼びかける声が聞こえた。少年のような声だった。
「見える?」
その声は何も無い空間に響いた。
「だめ………だな」
二番目の声が答える。
「俺の手が君の頭にのっているという事実が、君から伝わってなければ信じられない所だ」
問いかけに答えた声が言って、手のひらからうなずく仕草を感じとった。
「さて、どうしようか? 俺としてはここで野宿してもいいのだが、君はどうする?」
「お兄さん、そんなこと聞かれても、僕に選択権がないことぐらい知ってるよ。少しでもお兄さんから離れたら、さっき僕を囲んでた奴らに食べられちゃうからね」
少し残念そうな、不安そうな、曖昧な声で答えた。
「大丈夫、明日にはきっと視界が開けるさ」
風の音が一瞬大きくなり、近くにある渓谷をつかって旋律を奏でる。
少年の声がトーンを下げて答える。
「明日もこの調子だったら、二人とも飢え死にだよ」
くくく、っともう一人が笑う。そして、
「そのときは俺か君か、どっちかが生き残るさ。数日くらいはな」
「それは100%、お兄さんが生き残るよ。僕にとっては残念だけどね………」
深いため息をつくが、それは空間に飲み込まれる。
「そう心配するな、冗談だよ」
二番目の声がそう答えると、その時ほんの少しだけ、歪みができた。風の吹いてくる方向に不規則性が生まれ、まわりの空間が、ほんの少しだけ見えてくる。
「どうやら野宿しないですみそうだな」
「………ねぇ。見えるようになって、目の前にはただただ、何もない広い空間だけが広がっていたらどうしよう?」
少年の声が聞く。
「そうだな……、そうであれば俺の好奇心は満たされるかもしれないが、そんなことはありえないということを、俺は知っているからな」
「つまんないこと聞いたね」
「気にするな」
「ねぇ、つまらないことを聞いたついでに、もう一つ聞いてもいいかな?」
「なんだ?」
少年の声には興味が含まれていた。
「お兄さんっていったい何者なの?」
低く鋭い唸り声と、急に強まった風にまとわりつくようにして、今まで視界を遮っていたものが消えていく。二番目の声の主は一呼吸おいたあと、視界に入った少年の耳元まで顔を下げ、つぶやいた。
「それはトップシークレットさ」