プロローグ
右肩でダンが鳴いた。春永は慰めるかの様なそれに、また一粒涙を零す。
先が長くない事は知っていたものの、春永は祖母の死を前にしてそれを受け容れられずにいた。白くて四角い部屋で横たわる祖母の姿がそのまま絶望を絵にしたかの様だった事は、今でも強く記憶に染み付いている。
猫田利子、享年六十七歳。
春永の中学入学を目前にした、ある春の日の事だった。
根っからのお祖母ちゃん子だった春永は当時、これ以上無いというくらい泣き喚いた。父も母も困っていたし、自身も困っていた。春永にはもう、一生悲しいままな気がしたのだ。
大抵の人はそういう時、嬉しい事など全てこの世から消えてしまった気分になり、全ての事象はすべからく悲しまなければいけない事の様な気になる。春永もそうだった。
朝に鳥が鳴けば、ああ、こんなに朝早くから鳴かなくてはいけなくて可哀相に、と哀れみ。道端で小石を踏めば、そこにいるだけで踏まれ、蹴られるだなんてなんて不憫なんだろう、と同情した。
腹が減る。車が通る。水が跳ねる。そんな些細で当然の事が、春永には悲しくて悲しくて堪らなかった。
けれど人は忘れる生き物だ。毎日学校に通って、時々友達と遊び、御飯をたべ、寝て起きる。そうしていると、春永はそのうち祖母の死に対する悲しみを忘れた。時々、ふと思い出した様に淋しさが春永を襲うが、前の様に泣いてしまう事は無くなった。
春永は楽しい事があれば普通に笑い、悲しい事があれば普通に悲しむが滅多には泣かない、少し面倒事が嫌いなだけの普通の高校生になったのだ、というのに。
だというのに。
春永は混乱していた。それというのも、昼休みに飲み物を買うため校内の自動販売機へ向かったのが全ての元凶だ。喉の渇きなど気にしなければよかったと今更思うが、時既に遅し。
彼らはファーストコンタクトを済ませてしまった。
「お前は…」
巨大な鬼を背景に、対峙した少年が春永を見る。
人通りの少ない購買裏の自動販売機前に春永が来た時、彼は既にいた。何の用事か知らないが、彼の背後に広がるのは春永がこの世に生を受けてから見た中で、最も物騒な光景だ。
もはや現実の領域から大きく外れたその状況に春永が固まるのも束の間、右肩でダンがクルル、と鳴いた。その声に春永ははっとする。
「嘘…?」
小さく呟いたその声に、しかし、変化は大きかった。春永の前に大きく立ちはだかっていた鬼が、しゅるしゅると解ける様に小さくなっていくのだ。春永は相変わらずぽかんとしていたが、今度は少年の方も呆けた顔になった。
とうとう鬼は豆粒程の大きさになり、ぽんと音をたてて消え去る。すると、鬼の影に隠れる様に縮こまっていた第三者が姿を表した。