夫の隠し部屋を開けたら、私への誕生日プレゼントが十年分並んでいました
結婚して十年目の朝、夫がいなくなった。
いつもなら、リディアが目を覚ますころには食堂にいる人だった。
夫――アルベルト・クラウゼ公爵はひどく朝が早い。夜会の翌日であろうと、夜更けまで仕事をしていようと変わらない。七時には新聞を広げ、苦い珈琲を飲んでいる。リディアが向かいの席に着けば、新聞から顔を上げて「おはよう」と言う。
それだけだった。
夫婦になって十年。その朝の挨拶より親密な言葉を、二人が交わしたことはほとんどない。
だから最初、食堂にアルベルトがいなくても、リディアはさほど気に留めなかった。
珍しいこともあるのだと思っただけだ。
だが、彼の席には冷めた珈琲すらなかった。
「旦那様は?」
給仕に尋ねると、老執事のセバスがわずかに目を伏せた。
「旦那様でしたら、夜明け前にお屋敷を発たれました」
「……どちらへ?」
「港へございます」
リディアは持っていたナプキンを膝へ落とした。
今日が何の日なのか、もちろん覚えている。
二十八歳の誕生日。
そして、アルベルトと結婚してちょうど十年になる日だった。
「私には、何もおっしゃらずに?」
「書斎に、お手紙を残しておられます」
嫌な予感というものは、どうして当たるのだろう。
書斎の机に置かれていたのは、一通の手紙と、一枚の書類だった。
書類の下にはアルベルトの署名がある。
離縁届だった。
手紙のほうは、もっと簡潔だった。
『十年が経った。約束通り、君を自由にする。公爵領西部の屋敷と十分な資産を君の名義にしてある。今後、君が私やクラウゼ家に負うものは何もない。どうか、君の望む人生を生きてほしい』
リディアは二度読んだ。
三度目は読めなかった。
文字が滲んだからだ。
「……何よ、これ」
声にすると、急に腹が立った。
十年前の約束なら、覚えている。
十八歳だったリディアの実家、ルーデン伯爵家は破産寸前だった。父が事業に失敗し、屋敷も領地も抵当に入っていたころ、手を差し伸べてきたのがアルベルトだった。
当時二十九歳。すでにクラウゼ公爵家の当主だった彼は、伯爵家の負債をすべて引き受ける代わりに、リディアへ結婚を申し込んだ。
選べるような状況ではなかった。
父を路頭に迷わせるか、公爵の妻になるか。
だからリディアは後者を選んだ。
結婚式の日、アルベルトは言った。
『十年でいい』
十年間、公爵夫人としてそばにいてくれればいい。その後は、望むなら離縁しよう。
だからこれは予定通りなのだ。
最初から決まっていた。
それなのに、胸の奥にぽっかり穴が空いたようだった。
十年のあいだ、アルベルトは一度もリディアを抱かなかった。夫婦の寝室を訪れることもなかった。愛していると言われた覚えもない。誕生日を祝ってもらったことさえない。
必要なものがあれば何でも買ってくれたが、それは公爵夫人に必要だからというだけだった。
宝石も、ドレスも、馬車も、使用人も。
不足したことはない。
ただ、それらは一度だって、アルベルト本人の手から渡されたことはなかった。
白い結婚。
そういうものなのだと、リディアは思っていた。
なのに十年も一緒に暮らせば、人は妙なことを覚える。
アルベルトは考えごとをすると左手の親指を撫でる癖がある。甘いものは苦手なくせに、蜂蜜を入れた紅茶だけは好きだ。雨の日は古傷が痛むらしく、右足を少し引きずる。
リディアが夜会から遅く帰った日は、どれだけ夜更けでも書斎の明かりがついていた。
朝になれば、何もなかったように新聞を読む。
一度だけ、リディアが尋ねたことがある。
『昨夜、起きていらしたでしょう?』
『仕事があった』
そう答えた。
翌朝、机の上にあった書類が一枚だけだったことを、リディアは知っている。
ずるい人だった。
優しくするくせに、それを優しさだと認めない。
だからリディアも、気づかないふりをしていた。
十年が過ぎても、もう少しだけこの生活は続くのではないかと、どこかで勝手に思っていた。
「自由なんて……」
誰もいない書斎で呟く。
「頼んでないわよ」
返事はなかった。
腹立ちまぎれに離縁届を机へ戻した拍子に、肘が本棚の端へ当たった。
一冊の本が床へ落ちる。
拾おうとして、リディアは眉を寄せた。
本ではなかった。
革張りの背表紙だけを貼りつけた木片だ。
その奥に、小さな金具がある。
何だろう。
指をかけて引くと、かちり、と音がした。
本棚がゆっくり動いた。
「……嘘でしょう」
アルベルトの書斎に隠し扉があった。
十年間暮らしていた屋敷なのに、存在すら知らなかった。
いかにも彼らしい、とリディアは思った。言わなくてもいいことは徹底して言わない男だ。
扉に鍵はかかっていなかった。
開けると、窓のない小部屋があった。
壁際の棚と、机。
それだけの部屋だった。
けれど棚を見た瞬間、リディアは動けなくなった。
箱が並んでいた。
十個。
大きさも包み紙もばらばらなのに、すべて同じ筆跡で札がついている。
『リディア十九歳』
『リディア二十歳』
『リディア二十一歳』
一年ずつ数字が増えていく。
最後の箱には、
『リディア二十八歳』
と書かれていた。
今日の日付だった。
「……何、これ」
手が震えた。
十九歳の箱を取る。
包み紙はところどころ色褪せていた。
結び目をほどく。
中から出てきたのは、小さな髪飾りだった。
銀の台座に、青い石が嵌め込まれている。
リディアは息を呑んだ。
覚えている。
結婚して三か月ほど経ったころ、アルベルトとともに王都へ出たことがある。
公爵家に嫁いだばかりのリディアは、自分のために何かを買うことがまだ怖かった。店の前で足を止め、この髪飾りを眺めた。母の瞳に似た青だった。
値札を見て、すぐに離れた。
欲しいとは言わなかった。
隣にアルベルトがいたことさえ忘れていた。
それが、ここにある。
二十歳の箱には、一冊の古い植物図鑑が入っていた。
リディアは椅子に腰を落とした。
「これ……」
幼いころ、母と一緒に読んだ本だった。
伯爵家が困窮したときに蔵書の大半を手放し、それきりになっていた。もう絶版になっているのだと、いつだったか庭師と話した覚えがある。
そのときアルベルトは、ずっと離れた場所で庭師と剪定の相談をしていたはずだった。
二十一歳。
外国製の万年筆。
二十二歳。
銀細工のチェスの駒。
ナイトだった。
その年、リディアはアルベルトとチェスをしていて駒を一つ落とした。
角が欠けてしまい、ひどく慌てた。
『申し訳ありません』
『駒だ。怪我がなくてよかった』
彼はそれだけ言って、欠けた駒を拾った。
翌週には新しい一式に変わっていた。
リディアはてっきり捨てられたのだと思っていた。
箱の中の銀のナイトは、欠けた駒とまったく同じ意匠で作られていた。
二十三歳。
小さな香水瓶。
二十四歳。
革張りの旅行鞄。
二十五歳。
薄青いショール。
それを見たとき、とうとう涙が一滴、箱の上へ落ちた。
三年前の冬だった。
馬車の窓から、薄青いショールを巻いた女性を見た。
雪の中であまりに鮮やかに見えて、つい目で追った。
それだけだった。
欲しいなどとは一言も言っていない。
「見てたの……?」
リディアは誰もいない部屋に問いかけた。
「あなた、そんなものまで見ていたの?」
二十六歳の箱にはオルゴールがあった。
蓋を開けると、懐かしい旋律が流れた。
母が寝かしつけてくれたときの子守歌。
リディアは両手で口を覆った。
アルベルトの前で歌ったことが、一度だけある。
夜会からの帰りだった。
酒に酔ったわけではない。幼いころの話になって、ほんの一節だけ口ずさんだ。
あのときアルベルトは窓の外を見ていた。
何の反応もしなかった。
聞いていないと思っていた。
「どうして……」
二十七歳の箱まで開けてから、リディアは立ち上がった。
涙が止まらない。
「どうしてよ」
愛されていないと思っていた。
夫は自分に興味がないのだと思っていた。
それなら、この十個の箱は何なのだ。
これほど細かなことを覚えている人間が、無関心であるはずがない。
「だったら、どうして一度も渡してくれなかったのよ!」
声が狭い部屋へ響いた。
怒鳴ったところで、アルベルトはいない。
残るのは二十八歳の箱だけだった。
今日のために用意された箱。
リディアはすぐには開けられなかった。
代わりに、部屋の机へ目をやった。
何冊かの帳簿と、古い書類の束がある。
一番上の紙には、ルーデン伯爵家の名があった。
十年前の日付だった。
リディアは涙を拭い、紙を手に取った。
読んでいくうちに、指先が冷たくなった。
そこに書かれていることを理解するまで時間がかかった。
父が抱えた負債。
債権者の一覧。
その中に、リディアもよく知る名があった。
ガルド侯爵。
当時、六十を越えていた男だ。
妻を二人亡くし、三人目の妻を探していると噂されていた。
書類の間から、一通の手紙が出てきた。
父の筆跡だった。
『クラウゼ公爵閣下。娘をお救いくださったこと、どれほど感謝しても足りません。ガルド侯爵から、返済の代わりにリディアを後妻として差し出すよう迫られたときには、もはや私には死ぬ以外の道がないと思っておりました』
リディアは息を止めた。
何も知らなかった。
父は一度だって、そんな話をしなかった。
『侯爵より先にすべての債権を買い取ってくださり、さらに娘を公爵夫人として庇護するとおっしゃってくださった。あなたのおかげで、あの子は救われました』
続きがあった。
『ですが、どうかこのことはリディアにはお伏せください。あの子は、自分のために誰かが犠牲になることを何より嫌います。恩を知れば、きっと一生あなたに返そうとするでしょう。私は娘に、そのような人生を送らせたくありません』
手紙を持つ手が下がった。
十年前の記憶が蘇る。
結婚式の夜。
十八歳だったリディアは、知らない屋敷の知らない部屋で、一人震えていた。
父の借金を肩代わりしてくれた男。
その代わりに自分を妻にした男。
そう思っていた。
アルベルトが寝室の前まで来たとき、怖くて仕方がなかった。
けれど彼は、中へ入らなかった。
『今夜は君一人で休むといい』
驚いて顔を上げたリディアに、アルベルトは静かに言った。
『今夜だけではない。君が望まない限り、私は夫婦としての義務を君に要求しない』
あのときは、その言葉すら憐れみに聞こえた。
惨めだった。
父の借金と引き換えに買われた娘。
そう思っていたからこそ、せめて心だけは渡したくなかった。
『あなたからは、何も欲しくありません』
アルベルトの表情を、今でも覚えている。
いつも感情の読めない人が、ほんの少しだけ目を見開いた。
『……何も?』
『贈り物も、優しさもいりません。十年で、受けた恩は必ず返します。それまでは公爵夫人として務めます。だから……』
十八歳のリディアは唇を噛んだ。
『これ以上、私から何も取らないでください』
長い沈黙があった。
アルベルトは怒らなかった。
言い訳もしなかった。
ただ、
『わかった』
と答えた。
その夜から一度も、彼はリディアの寝室へ入らなかった。
一度も、誕生日の贈り物を渡さなかった。
「そんな……」
膝から力が抜けた。
「そんなの……」
何もいらない。
確かに言った。
自分で言った。
けれど、十八歳だった。
怖かった。
父も家も未来も、何もかも失うように思えていた。
あの日の一言を。
この人は。
「十年も守ったの……?」
馬鹿だ。
信じられないほど馬鹿だ。
リディアも。
アルベルトも。
涙を拭おうとして、もう一つの封筒に気づいた。
アルベルトの筆跡だった。
『リディアへ。もしこれを読むことがあるなら』
封を切る。
『この部屋を見つけることはないと思う。私が屋敷を出たあと、すべて処分するつもりだったからだ。だが、どうしても最後の一つだけ捨てられそうにない。だから少しだけ、未練を書くことを許してほしい』
その瞬間、リディアは振り返った。
二十八歳の箱。
手紙を握ったまま、箱を開ける。
中には指輪が二つ入っていた。
細い銀の指輪。
宝石ひとつない。
二人は結婚指輪を持っていなかった。
結婚式のとき、リディアが要らないと言ったからだ。
手紙の続きを読む。
『私は君と出会った日のことを覚えている。君は覚えていないだろう。結婚より三年前、王宮の春の園遊会だった』
十五歳のころだ。
『迷子になって泣いていた子供に、君は自分の菓子を全部渡した。自分も食べたかったのだろう。最後の一つを渡すとき、ずいぶん惜しそうな顔をしていた』
涙の合間に、リディアは笑ってしまった。
それは少しだけ覚えている。
幼い男の子だった。
泣き止んだ顔が可愛くて、菓子のことなどすぐ忘れた。
『私は、その顔を忘れられなかった』
笑いが止まった。
『君の家の窮状を知ったのは、それから三年後だった。ガルド侯爵の話を聞き、私は勝手に動いた。君を救ったつもりだった。だが、君にとっては、見知らぬ老人の代わりに見知らぬ私へ売られただけだったのだろう。そのことに、結婚した夜になってようやく気づいた』
リディアの指が震えた。
『君を好きだったから助けた。だが、助けた直後の君にそれを告げれば、私の愛は脅迫になる。私は君の家の債権を持ち、君の父を救い、君の夫になった。私には金も爵位もあった。君には逃げる場所がなかった』
一文字ずつ、胸へ刺さった。
『その私が愛していると言えば、君は拒めないかもしれない。贈り物をすれば、受け取らなくてはと思うかもしれない。触れれば、妻なのだから耐えなくてはと思うかもしれない』
そこで一度、文字が途切れている。
書く手を止めたのだろう。
『それが怖かった』
リディアは手紙を胸へ押しつけた。
この男は。
何を考えていたのだろう。
十年も。
すぐ隣で。
『最初の誕生日に、青い髪飾りを買った。君が店先で見ていたからだ。渡そうと思っていた。だが包みを持って君の部屋へ向かう途中で、あの夜の言葉を思い出した』
あなたからは、何も欲しくありません。
『だから渡せなかった。翌年も、その翌年も同じだった。毎年、今年こそはと思った。毎年、やめた』
涙が紙に落ちた。
『私の愛まで、君の借金にしたくなかった』
リディアはとうとう声を上げて泣いた。
十年間。
一度も祝ってくれなかった。
そう思っていた。
違った。
毎年選んでいた。
毎年買っていた。
毎年、渡さないことを選んでいた。
自分が欲しいと願ったものを、自分の欲望のままに押しつけないために。
『十年が経った。君の父上の負債はとうに清算されている。君自身の財産も十分に作った。もう君は、私に何ひとつ負っていない。これでようやく、あの日の約束を果たせる』
約束通り、君を自由にする。
机の上の手紙と同じ言葉だった。
『本当は最後に一つだけ聞いてみたかった。十年前と同じ質問を』
リディアは息を止めた。
『今、欲しいものはあるか、と』
その下には、しばらく余白があった。
最後に一行だけ書かれている。
『だが、それすら君を困らせる気がして、聞けなかった。どうか幸せに』
「……この……」
涙が止まった。
代わりに、別の感情がむくむくと湧いた。
「この、大馬鹿!」
リディアは立ち上がった。
椅子が倒れた。
手紙を掴み、隠し部屋から飛び出す。
廊下を走り、階段を駆け下りる。
「セバス!」
公爵夫人が屋敷の中で大声を出すなど、この十年間で初めてだっただろう。
老執事が目を丸くして現れた。
「奥様?」
「アルベルトはどこ!?」
「旦那様でしたら、先ほど申し上げました通り港へ――」
「どこの港!」
セバスが完全に固まった。
「……王都東港でございます」
「何時の船?」
「午後三時の定期船かと。南方へ向かわれ、そのまま王国公使として二年間――奥様!」
最後まで聞かなかった。
玄関へ走る。
外套すら自分で掴んだ。
御者が馬車を出そうとするのを見て、首を振る。
「馬を一頭!」
「しかし奥様、馬車のほうが――」
「間に合わないでしょう!」
十年前、公爵夫人になってから一度も一人で馬を走らせたことはなかった。
十八歳までは、領地で散々乗り回していた。
淑女らしくないと父に怒られた。
そんなことまで、今はどうでもよかった。
港へ向かって馬を走らせながら、リディアは何度も腹を立てた。
勝手すぎる。
人の言葉を十年も律儀に守っておいて、最後だけは勝手に決めた。
自由にする?
誰が頼んだ。
確かに十八歳の自分は、アルベルトから何も欲しくなかった。
二十歳の自分ならどうだった。
二十二歳の自分なら?
二十五歳の自分なら。
去年はどうだった。
夜会でほかの男からダンスに誘われたリディアを見て、アルベルトは相変わらず何の顔もしなかった。けれど帰りの馬車では、珍しくずっと機嫌が悪かった。
あのとき、少し嬉しかった。
そんな自分に気づかないふりをした。
アルベルトも何も言わなかった。
どうして二人そろって、十年前の言葉だけを守り続けたのだろう。
港に着いたときには、髪はぐしゃぐしゃだった。
公爵夫人として完璧に整えられていた髪型など見る影もない。
馬から飛び降りる。
船着き場へ走った。
船員たちが荷を積み込んでいる。
「アルベルト!」
何人もの人が振り返った。
その中に、見慣れた銀灰色の髪があった。
旅行用の黒い外套を着た男が、信じられないものを見る顔でこちらを見た。
リディアは初めて知った。
アルベルトにも、あんな顔ができるらしい。
「……リディア?」
走り寄った。
息が切れている。
言いたいことは山ほどあるのに、何から言えばいいのかわからない。
だからまず、持ってきた離縁届を彼の胸へ押しつけた。
「これは要りません」
アルベルトが紙を見る。
それから、リディアを見る。
「なぜ、君がここに」
「あなたの隠し部屋を見つけました」
今度こそ、彼の顔から完全に血の気が引いた。
「……あれを?」
「全部見ました」
「そうか」
「手紙も読みました」
「…………そうか」
またそれだ。
この男は困ると「そうか」しか言えなくなる。
十年暮らして、そんなことも知っている。
「何か言うことはないんですか?」
「申し訳ない」
「違います!」
港中に響きそうな声が出た。
アルベルトが目を見開く。
「どうして謝るんですか。私が聞きたいのは、どうして勝手にいなくなるのかってことです!」
「それは……約束だったからだ」
「十年前の?」
「ああ」
「あなた、十年前に私が言ったことは何でも守るんですね」
皮肉のつもりだった。
アルベルトは真面目に答えた。
「守ると決めた」
その返事に、また泣きたくなった。
「だったら、これも守ってください」
「何を?」
「私は今、その離縁届が要りません」
アルベルトが黙る。
「君はもう自由だ」
「だから?」
「だから……私に遠慮する必要はない」
「してません」
「恩を感じる必要も――」
「感じてません!」
「リディア」
「少しは感じていますけど、それとこれとは別です!」
自分でも支離滅裂なのはわかっている。
けれど十年分だ。
今日ぐらい好きに言わせてほしい。
「だいたい、最後だけずるいです。十年間、私が言ったことを律儀に守ったくせに。どうして離婚するかどうかだけ、私に聞かないんですか」
「聞けば……」
アルベルトは初めて目を逸らした。
「君は優しいから、私を哀れんで残るかもしれない」
リディアは唖然とした。
「本気で言ってます?」
「ああ」
「あなたは馬鹿です」
「……そうかもしれない」
「そうです。ものすごく馬鹿です」
公爵に面と向かって馬鹿と二度も言った。
周囲の船員たちが聞こえないふりをしている。
もうどうでもいい。
アルベルトはしばらく黙ったあと、低い声で言った。
「私は君より十一も年上だ。結婚したときから、君の人生を十年も貰った。それ以上を望むべきではないと思っていた」
「誰が決めたんですか」
「私が」
「それを勝手だと言ってるんです」
返事がない。
リディアは息を整えた。
ここまで来たのだ。
言わなければならない。
十年前、自分が言えなかったこと。
いや。
十年前には、まだ存在していなかった気持ちを。
「アルベルト」
「うん」
「十年前、私が何と言ったか覚えていますか」
彼の目が少しだけ痛そうに細められた。
「忘れるわけがない」
「あなたから何も欲しくない、と言いました」
「ああ」
「取り消します」
アルベルトが瞬きをした。
リディアは彼を見る。
怖かった。
十八歳のあの夜とは、まるで違う意味で。
この人を欲しいと言って、もし断られたら。
考えるだけで逃げ出したくなった。
けれど、それではまた同じ十年を繰り返す。
アルベルトが、ひどく慎重な声で尋ねた。
「……今は、欲しいものがあるのか?」
手紙に書いてあった質問。
最後まで聞けなかった質問。
リディアは頷いた。
「あります」
「何が欲しい?」
十年前なら答えられなかった。
今なら答えられる。
「あなたが欲しい」
アルベルトは動かなかった。
時間が止まったようだった。
「十年分の贈り物も全部もらいます」
リディアは続けた。
泣きそうだったから、少し怒った口調になった。
「髪飾りも、図鑑も、チェスの駒も、ショールも、全部。勝手に捨てるなんて許しません」
「……ああ」
「それから十一年目も欲しいです」
「ああ」
「十二年目も」
「ああ」
「十三年目も。その先もずっと、あなたが選んだものを、今度はあなたの手から受け取りたい」
そこでアルベルトが顔を覆った。
驚いた。
泣いているのかと思った。
違った。
笑っていた。
十年間で初めて見る、どうしようもなく困ったような笑い方だった。
「それは……ずいぶん欲張りだな」
「十年間我慢したんです。今さら遠慮すると思います?」
「いや」
アルベルトの目元が赤かった。
「思わない」
「あと、もう一つあります」
「まだあるのか」
「あります」
リディアは彼の外套を掴んだ。
離れていかないように。
「あなた、手紙に書いてましたよね。私の愛まで君の借金にしたくなかった、って」
アルベルトの顔から笑みが消えた。
「ああ」
「だったら、もう借金じゃありません」
「……リディア」
「私が勝手に好きになったんですから」
それを言った瞬間、不思議なくらい胸が軽くなった。
そうだ。
いつからだったのかなど、もうどうでもいい。
雨の夜、帰りを待っていた書斎の明かり。
何も言わずに膝へ掛けてくれた毛布。
苦い珈琲。
新聞越しの「おはよう」。
チェスで負けそうになると少しだけ眉間に皺を寄せる顔。
一緒に過ごした十年すべてが、いつの間にかリディアの中に積もっていた。
愛などないと思っていた。
なかったのではない。
名前をつけなかっただけだ。
アルベルトは長いあいだ、何も言えずにいた。
やがて、恐る恐る確かめるように尋ねた。
「今度は、私の望みを言ってもいいだろうか」
「聞きます」
「君には、それを断る権利がある」
「わかっています」
「断っても、私は何もしない」
「アルベルト」
「何だ」
「早く言って」
彼は一度、目を閉じた。
十一年分の何かを吐き出すような息をした。
「愛している」
たったそれだけだった。
なのにリディアはまた泣いた。
「遅いです」
「すまない」
「十年遅い」
「……本当にすまない」
「だから、謝るんじゃなくて」
続きを言う前に、アルベルトの指が頬へ触れた。
途中で止まる。
確認するような目だった。
リディアはその手に自分の手を重ねた。
それでようやく、彼は触れた。
額に。
頬に。
最後に唇へ。
十年間、一度もしなかった口づけは、驚くほどぎこちなかった。
リディアもたぶん同じだった。
離れたあと、アルベルトが呟いた。
「船が出る」
「ええ」
「私は乗らなくていいのだろうか」
「乗りたいんですか?」
「いや」
「なら帰りましょう」
「公使の件があるんだが」
「辞退してください」
「国王陛下に怒られる」
「一緒に謝ります」
アルベルトがまた笑った。
今度はリディアも笑った。
十年も一緒に暮らしてきたのに、二人とも相手のこんな顔を知らなかった。
結局、アルベルトは船に乗らなかった。
国王への説明は大変だったらしい。何をどう話したのか、リディアは聞いていない。ただ数日後、王妃から「十年間も何をやっていたの、あなたたち」と呆れた手紙が届いた。
反論の余地はなかった。
屋敷へ帰ると、リディアは隠し部屋の箱をすべて自室へ運ばせた。
アルベルト本人に。
一つずつ。
「本当に全部持っていくのか」
「全部もらうと言ったでしょう」
「旅行鞄まで?」
「使います」
「香水はもう十年前のものだ。香りが変わっているかもしれない」
「飾ります」
「図鑑も同じものを図書室に入れたぞ」
「これは私のです」
「……そうか」
最後に、二十八歳の箱が残った。
二つの銀の指輪。
アルベルトはそれをしばらく見つめていた。
「これは、捨てようと思っていた」
「許しません」
「君が要らないと言ったものだから」
「今は欲しいです」
リディアは左手を差し出した。
「つけてください」
アルベルトの手が止まった。
また確認するようにこちらを見る。
「本当に?」
「何回聞くんですか」
「怖いんだ」
あまりに素直に言われて、リディアは何も返せなくなった。
この人も怖かったのだ。
拒まれることが。
自分の気持ちがリディアを縛ってしまうことが。
その怖さを抱えたまま、十年間そばにいた。
「大丈夫です」
今度は優しく言った。
「欲しいって言ったでしょう」
アルベルトはリディアの左手を取り、薬指へ銀の輪を通した。
少しだけ緩かった。
十年前に測った寸法なのだから仕方がない。
それがおかしくて、二人で笑った。
それから一年後。
二十九歳の誕生日の朝、リディアが目を覚ますと、隣にアルベルトがいた。
この一年で変わったことは多い。
寝室が一つになった。
朝食の席へ向かう時間が、二人とも少し遅くなった。
アルベルトが笑う回数が増えた。
そしてなにより、言葉にするようになった。
十年間黙っていた反動なのか、最近ではこちらが恥ずかしくなるほどだった。
「おはよう」
アルベルトが目を開けた。
「おはようございます」
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
彼は寝台を出ると、昨夜から棚に置かれていた箱を持ってきた。
隠す気など最初からないらしい。
「今年はずいぶん堂々としてますね」
「隠すと怒るだろう」
「当然です」
「去年、一生分くらい怒られた」
「十年分しか怒ってません」
「十分だと思うが」
「足りません」
箱を受け取った。
今年は何だろう。
開ける前から楽しみだった。
ふと、リディアは手を止めた。
「アルベルト」
「何だ」
「一年前、私、十一年目も十二年目も、その先も贈り物が欲しいって言いましたよね」
「ああ」
「一つ、条件を追加してもいいですか?」
アルベルトが警戒する。
「聞いてから決める」
「毎年、同じものもつけてください」
「同じもの?」
リディアは笑った。
「愛してる、って」
アルベルトはしばらく黙った。
それから、昔なら考えられなかったほど自然に笑った。
「それなら、贈り物とは別に毎日渡しているつもりだが」
「誕生日は特別です」
「そうか」
彼はリディアの左手を取った。
今ではちょうどよく直された銀の指輪へ口づける。
「誕生日おめでとう、リディア」
そして、もう一度。
今度はまっすぐ彼女を見て言った。
「愛している」
リディアは箱を抱いたまま笑った。
十一年前には、何も欲しくないと思っていた。
十年間、欲しいものなどないふりをしていた。
けれど今なら、胸を張って言える。
「ええ」
リディアは夫の頬へ手を伸ばした。
「それが一番欲しかった贈り物です」
最後まで読んで頂きありがとうございます!
作者のペンギンの搾り汁(Tiho)です。
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