2 逃げた男
婚約式まで、あと一ヶ月。
軍人貴族アークライト家の長女、シャノンは、朝露の残る庭を眺めながら静かに息を吐いた。代々王国に剣を捧げてきた名門ではあるが、戦の減った今の時代においてその栄光は過去のものとなりつつある。誇りはあれど金はない。名はあれど力は衰えつつある。それが、今のアークライト家だった。
だからこそ、騎士タイラー・グレンヴィルとの婚約は救いだった。
若くして武功を挙げ、名門貴族の血を引く将来有望な騎士。彼との結びつきは、没落しかけた家を再び王都の中心へと押し上げるはずだった。少なくとも、周囲はそう信じていたし、シャノン自身もまた、そうであろうと願っていた。
だが、その願いは一通の書簡によって踏みにじられる。
婚約式の一ヶ月前。父の執務室に届いたそれは、あまりにも簡潔だった。
婚約を白紙に戻したい――理由は真実の愛を見つけたから。
そしてその“真実の愛”の名は、シャノンの妹、ベラだった。
父は激昂し、母は蒼白になり、使用人たちは言葉を失った。社交界に広まるまで、半日もかからなかった。軍人貴族の長女が、妹に婚約者を奪われた。しかも式の直前に。これほど見世物になる話はない。
だが、当のシャノンだけは、驚かなかった。
三年前のあの日から、すべてを知っていたからだ。
偶然目にした庭園での密会。タイラーが優しくベラの手を取り、耳元で何かを囁いていた。その距離は、義兄弟になる者同士のものではなかった。あの時、胸を刺すような痛みと同時に、冷たい確信が芽生えた。
彼は家を愛してなどいない。
その後、静かに証拠を集めた。信頼できる部下に調査を命じ、資金の流れを追い、魔導具で会話を記録した。そこで明らかになったのは、想像以上に醜悪な計画だった。
タイラーは最初からシャノンと結婚するつもりなどなかった。没落しかけとはいえ軍功家門であるアークライト家と正式に縁を結び、内情を把握し、立場を固める。そのうえで妹ベラを表舞台に押し出し、婚約直前に“愛のため”と称して婚約者を変更する。裏切られた姉は社交界で傷を負い、信用を落とし、家の実権は実質的に妹とその夫に移る。
それだけではなかった。
シャノンを婚姻に不利な立場に追い込むため、男娼を近づけて醜聞を作れと、タイラーはベラに持ちかけていたのだ。罠にかけ、既成事実を作り、婚約破棄の大義名分にする。シャノンが没落したあとは貧困生活を送らせ、思う存分見下してやろうと笑い合っていた。
その会話もまた、すべて記録されている。
ベラは迷いながらも、それを受け入れた。目立たぬ次女として生きてきた彼女は、初めて差し出された光に手を伸ばしたのだろう。姉を踏み台にする光に。
シャノンは、何も知らぬふりを続けた。
泣き叫ぶことも、問い詰めることもせず、ただ淡々と証拠を揃えた。そしてそれらを、三年前から少しずつ王家へと報告していた。軍功家門の内部を狙う不穏な動きとして、冷静に、客観的に。
王家が最も嫌うのは、内側からの権力簒奪だ。特に軍事に関わる家門ならば尚更である。
婚約破棄の書簡が届いたとき、すべてはすでに終わっていた。
表向き、タイラーとベラの婚約は成立する。夜会では二人が祝福され、シャノンは憐れみの視線を向けられた。敗者は沈黙するしかない。誰もがそう思った。
だが、ゆっくりと状況は変わっていく。
グレンヴィル家への融資が見直され、軍での昇進が保留となり、王宮からの招待状が途絶え始めた。理由は明かされない。ただ静かに、確実に、距離が置かれていく。
社交界は敏感だ。風向きが変われば、態度も変わる。
ベラは華やかな中心に立つはずだった。だがいつの間にか、囁きの輪の外側に立たされていた。白い目が向けられ、笑顔の裏に警戒が潜む。
やがて王家による正式な監察が入った。
タイラーは軍務を一時停止され、婚姻契約は再審査対象となる。公にはされないが、何かを掴まれていることは明白だった。
焦燥に歪むタイラーの顔を、シャノンは静かに見つめる。
逃げたのは彼のほうだ。式の一ヶ月前、正面から向き合うこともせず書簡一枚で。
だが逃げた先にあったのは、思い描いた栄光ではなかった。
ある夜、ベラが震えながら訪ねてきた。
「どうして、こんなことに……」
その問いに、シャノンはただ穏やかに答える。
「家のために犠牲になるのでしょう?」
かつて彼女が口にした言葉を、そのまま返して。
破談令嬢と呼ばれながらも、シャノンのもとには王宮からの召喚状が届く。軍制改革の助言を求めるという内容だった。没落しかけた家の長女ではなく、冷静に家と王国を守ろうとした一人の貴族として。
婚約一ヶ月前に逃げた男はその後も不誠実な男として、逸話がたくさん残された。




