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泡沫

作者:
掲載日:2025/10/12

  泡沫 


 「お願いです。お願いですから。どうか・・・、どうか。」


 澄んだ薄群青色の空と、決して歪みのない水平線に向かって跪き、この世界でただ一人、砂を強く握り締めていた。森羅万象の全てから見放さないでほしい一心でそう叫んだ。

 

 気が付いたときは、何気なく立ち寄った雑貨屋の絵葉書で見たようなところにいた。そこは天国に一番近いと言われた国の白浜によく似ていた。暫く立ち尽くすと、いつの間にか一羽の白い鳥が飛び回っていた。その鳥に手を伸ばせば乗ってくるのではないかと思うほどだった。それにしても可笑しなことばかりだった。その鳥の懐きようだけではなく、そこにある全ての線が美し過ぎて、ここにいる自分が今どこにいるか解らなかった。さっきまでは寝ていたはずだったからだ。ここは夢なのか、あの世なのか、はたまた現実の世界で起こっていることなのか。その不確かなみなとは、白い鳥になった神から洗礼を受けることとなる。その神がどんなに正しいこととして指し示したものであっても、その洗礼だけは今の湊には受け入れ難いものだった。


 その白い鳥が頭上を大きく何度か回ると、次は目の前で宙に浮いたまま静止し飛び続けながらこう語り出した。鳥が話しているのは不思議でならなかったが、ここには一羽と湊一人だけだったから信じざるを得なかった。

 「これからお前はお前の未来を見る。」

 「俺の未来?」

 「そうだ。お前の未来だ。」

 と、そうとだげ告げ、いつの間にかその鳥は姿を消した。

 「何だ?俺の未来が見える?」

 と、言うと本当にその未来が目の前に始まった。


 それは言葉のない、音のない、サイレント映画のように流れているものだった。

 「千歳ちとせ・・・。」

 と、湊はその画にいる主人公の名前を呼んだ。


 千歳。湊が今これから一緒に未来を共に歩んでいきたいと考えている大切な人だ。その千歳が純白のドレスを身に纏っている。そのすぐ隣には湊がタキシードを着て千歳を微笑みながら見つめている。ベットから身体を起こしている千歳の腕にはおくるみに包まれた赤ん坊がすやすや眠っている。一緒に住んでる家のキッチンで、左手には赤ん坊を抱き、右手首にサポーターをした千歳が立ったまま何かを食べている。湊の番がきたようで、既に0時を過ぎ、どうやら会社の接待で隣りの人に頭をやたらと下げながらお酌していた。千歳に戻ると、真っ暗な狭い部屋で俯き一人泣いている。そこに、ワイシャツのボタンが二つ目まで外れ、ネクタイも緩んだスーツ姿の湊が帰る。足元もふらついているように見えた。そして、千歳の異変に気付くと、湊はすぐさまその前に跪き、千歳の肩に手を置こうとした。間髪い入れず湊のその手は千歳によって振り払われた。顔を見せなかった千歳が漸く見せたと思えば、どうやら怒り声を上げながら湊を捲し立てているようだ。そして、千歳は隣りの部屋の方を指差して、右手は湊のネクタイを掴んで大きく揺すっている。湊が千歳の指の先に向かうと、氷枕をした赤ん坊がベビーベッドで泣きじゃくっていた。湊はその赤ん坊を抱き抱えながら千歳に近づき、何か話している。ただそれも穏やかな口元ではない。千歳は両手で頭を抱え膝に頭がつきそうになりながら泣いている。しばらく間が空くと、千歳が化粧っけもなく、乱れた髪に目も虚ろで、その目線の先は遠い海を見ていた。そして、千歳の写真の前には線香が焚かれていた。そこで画は終わった・・・。


 呆然と立ち尽くす湊の前にまた白い鳥が何事もなかったかのように悠然と舞い降りた。今度は湊の目の前の砂浜に留まった。

 「これが何だって言うんだ。こうなると決めつけるのは違う。絶対に違う・・・。俺は千歳と幸せになるんだ。俺と千歳ならば絶対に幸せになれる。幸せになるんだ。俺が変わればいいだけの話だろ。千歳と俺の子を守る。絶対に・・・。」

 と、湊は先に、神の下そうとする言葉を堰き止めた。

 「・・・。」

 白い鳥は鳴きもせず、落ち着つきを覚えた人間のようになり、瞼も心なしかゆっくり閉じたり開いたりした。

 「結末は変わらない。お前がどう足掻いてもお前の大事な女の行く末はお前が今見た、『死』しかないんだ。お前と人生を共にする以上、お前の運命をこの女も共に背負うんだ。それだけではない。もうすぐお前の両親も死ぬ。」

 と、神になった白い鳥は穏やかに話し出した。

 「千歳と離れて、両親も・・・。いや・・・・。」

 と、湊は神の言葉をまた止め続けた。

 「ない。」

 「いやある・・・。変える。」

 「この女はお前といることで死ぬ。お前の感情だけでこの女にそれを強いるのか?」

 「・・・・・。」

 「どうだ?」

 「・・・・・。」

 と、湊は神の言葉を前に、自分から溢れそうになっている言葉でさえ口にすることができなかった。湊は力無く跪き、無力な自分に嘆きながら両手からこぼれ落ちる砂を必死に握り締めた。涙が流れ込んで口籠もると小さく、

 「じゃ・・・。俺はどうすればいいんですか?こんなのあんまりです。酷過ぎます。こんなの・・・。」

 と、柔弱な敬語で神に話すと、

 「お前はもう分かっているはずだ。」

 と、神は湊に最も簡単に苛酷な運命を告げた。


 「お願いです。お願いですから。どうか・・・。どうか千歳だけは。」

 

 ついさっきまで神だった白い鳥は幾度か囀り、湊に警戒し、とっととその場から飛び立った。


 息をしていたことを忘れていたのか、苦しさで目を覚ますとそこはいつもの寝室だった。夢であってほしいと思いながらゆっくりと身体を起こすと、両手に砂が付いていた。暫くその両手を見つめていると、白い鳥とあの画の出来事は自分の眼が見てきたことであったという証だと分かった。それでもまだ時間を忘れ、砂との繋がりを探し続けた。半分信じて半分疑うぐらいににしておきたかった。一縷の望みにかけるぐらいの温情を神ならば残してくれるだろうと。


 千歳との出会いは、高校三年の重苦しい上着を脱ぎ捨てる頃だった。千歳は女子校で湊はその近くにある男子校。湊はクラスの友人の政樹との帰り道で、政樹が中学の同級生の千歳に声を掛けたのがきっかけだ。

 「よっ、今帰り?」

 「うん。政樹も?」

 「部活もなくて、今日は塾も休みだし、たまにはふらふらしてみよっかなって。」

 「そっか。」

 と、テンポがいい会話に間が空くと、千歳の視線の先を感じた政樹は透かさず、

 「あ、湊。同じクラスの。」

 と、政樹は湊の背中を少し前に押して紹介した。

 「湊です。よろしく。」

 「千歳、よろしく。」 

 「千歳さん。」

 と、湊が畏って言うと、

 「千歳でいいよ。同い年だし。」

 と、千歳は湊を手繰り寄せた。

 「あ、はい。」

 と、まだ変われない湊で返事すると、

 「はいね。」

  と、千歳は幼い子に微笑むように言った。

 それから湊は千歳の話すことに我を忘れて聞き入っていた。千歳が通っている塾のこと、塾での全国統一模試の日程のこと、数学が苦手でどうしても克服できずに四苦八苦していること。無意識に一言も聞き漏らさないように、千歳専用のフォルダを作って保存した。


 次の日、湊は高校近くの最寄り駅の改札口前で政樹を待つと、そこに政樹と千歳が二人で歩み寄ってきた。

 「よ、おはよ。」

 「おはよ。」

 と、湊と政樹の日常に千歳が加わる。

 「おはよ。湊君」

 「あ、おはよ。」

 と、千歳は微笑みながら湊の顔を覗き込んで挨拶した。この日から三人で通うようになった。

 「そういえばさ、こいつ数学強いよ。」

 と、会って間もない湊の隠しきれない感情を知ってか知らずか千歳をよく知る政樹が絶妙なパスをすると、

 「じゃ、今度教えて。数学苦手で困ってたんだよね。」

 と、千歳は湊を指名してきた。

 「あ、俺でいいの?」

 と、湊はあまりに焦ってそんな答えをすると、

 「うん。湊君から習う。」

 と、千歳はあたかも湊が千歳の家庭教師にでもするかのように言った。

 「うん。俺でよければ。じゃ。」

 「じゃ、今日の帰りの四時に市立図書館でね。」

 「分かった。」

 と、すんなり入ってくる千歳に終始ペースを持っていかれ、この先も次第に生活の全てが千歳中心になっていた。千歳と通学路途中の分岐点でわかれると政樹の会話は上の空で、放課後の千歳との図書館でのことを考えてしまっていた。

 「おい、聞いてるか?」

 「う、うん・・・。」

 と、政樹が湊のいるべきときを教えてくれた。その日の学校は、今までで一番長い時間だった。


 遂に待ちに待った時間が来た。千歳との待ち合わせ場所から逆算した時間で、千歳が高校を出たであろう時間から、湊と千歳の高校との通学路を結ぶ架道橋を下ったところにあるコンビニの駐車場で、湊は偶然を装うように千歳を待った。そこにいつも通り帰る政樹が優しく訝しげな面持ちで湊に近寄ると、

 「お前、今日はやたら早いな。」

 「おう。」

 「千歳との約束か?」

 「う、うん。」

 と、今朝のあれと言わんばかりの顔の政樹に、湊は半分だけ当たってるような顔で返すと、そこに千歳が顔の脇で小刻みに手を振りながら近づいてきた。そんな湊を見たぞという顔を見せると企んだ顔で政樹はそそくさと立ち去った。

 「政樹は帰ったんだね。」

 「うん。呼ぶ?」

 「うん・・・。いい。湊先生に習うから。」

 「そう?」

 「そう。」

 と、二人で納得すると二人の目的地に向かった。


 市立図書館に着くと、千歳は数学どころではなく、好きな小説が・・・、とか好き勝手に館内をふらふらしているので、我儘を言う子供を座らせるように湊は言葉巧みに話した。

 「三十分頑張ろうよ。ジュース奢るから。」

 と、湊が言うと、

 「うん。」

 と、千歳は今までの我儘がどこかへ消えてまったかのようにすんなり聞き入れた。湊もそんな千歳を包み込むかのように見つめていた。


 「私、ここ。ベクトルがよくわからなくてお手上げなの。」

 と、千歳の授業のノートを見た湊は、

 「計算ミスしてるだけだから、慣れれば大丈夫。」

 と言って、抜粋した問題を千歳に解くように言った。

 「おっ。湊のわかりやすい。私は計算ミスしてただけなんだ。解けて嬉しい。」

 「あっ、ごめん。湊君でした。失礼。」

 と、失言を慌てて訂正する千歳に、

 「いいよ。湊で。」

 と、その方がうってつけだぐらいに感じた湊は優しく微笑んでそう言った。

 「じゃ、私のことも千歳って呼んで。」

 と、千歳は湊のすぐそばまでぐっと近づいてきた。


 約束の三十分が過ぎると、湊は千歳がご所望のジュースを買ってきて、休憩室で少し休むと席についた。千歳は一つ難問をクリアするとスッキリしたせいか、持ってきた数学の参考書数冊を枕にして湊の方を向き眠った。まるで眠り姫のように。ペンケース、ノート、参考書をかき集め千歳と同じ高さに積み上げた湊は千歳と同じようにして千歳の方をじっと見つめていた。千歳の白い顔は薄い黄昏色に染まり、千歳の頬が桃色になっているのが浮き立った。筋は通っているが低い鼻、目尻から出ている短いまつ毛、顔の割には小さな口、そして、眩い唇・・・。湊はそんな千歳を脇目も振らず見続けた。


 湊の中で『千歳』という音楽が何度も巻き戻されては流れ続けるオルゴールが鳴り止むと、ふっと我に返った。千歳が起きる前に積み上げたペンケース、ノート、参考書を慌てて元に戻すと、

 「わ、こんな時間。私、寝てた?」

 と、千歳は腕時計を見て帰る支度を始めた。そっぽ向いて気が抜けたような湊に、早く帰り支度するようにと千歳は首を軽く傾げた。


 二人が図書館一階のエントランスに立ち止まると、蒼碧の空を残しながら白雨が降っていた。その温かい雨はアスファルトに落ちると靄となって立ち込めた。そしてその日の雨の匂いは二人にとっていつもと違った。鞄に折り畳み傘があることを思い出した湊は次にすることを千歳が決めないように急いで取り出し、千歳の頭上にそれを広げた。

 「あ、ありがと。」

 と、千歳は傘を見上げて言うと、

 「酷くなる前に急ご。」

 と、湊は傘で千歳を先導した。雲の色が薄暗くなるとますます土砂降りになってきているにも関わらず、千歳はそんな雨などはそっちのけのようで、まるでその雨を楽しんでいるかのようだった。いつもの時間の倍ほどの時間を費やした。湊はそんな千歳が不思議でしかたなかった。

 「毎日雨がいい。うん。そう雨がいい。」

 と、千歳が言ったことで、湊はある確証を得た気がして、いつもの駅に着いたときに頭で考えるよりも先に湊の口が話し出した。

 「そう思っていい?同じ?」

 と、言ってしまった自分に驚く湊に、

 「同じ。そう。」

 と、千歳も目を逸らしたまま渾然とした二人にほっとしたような面持ちで答えた。


 その日から二人だけの時間が進み出した・・・。


 明くる日の朝、その駅から学校へと向かう中、何かが抜けたような顔で歩く湊に政樹はいつものように、

 「よっ。」

 とだけ言って隣りを歩いた。

 「心ここにあらず。何かあったか?」

 と、政樹が湊に問うと、

 「うん。」

 「千歳とそういう関係に・・・、なった。」

 と、湊がこの上ない笑みを浮かべると、

 「お前ら、なんか会ったときからただならぬ雰囲気だったもんな。普通じゃねぇって感じで。そうなると思ってたよ。」

 と、こうなることは想定内ともいうかのように政樹はかすかに笑って、ほんの少しだけ寂しげに言った。そして、その考えに至った経緯を政樹は説明し始めた。

 「だってよ。千歳、小中と男には興味ありません、みたいなやつだったんだぜ。今まで。浮いた噂も全くないし。そんな奴がお前を食い入るように見てんだもんな。千歳、どうかしちまったのかと思ったぐらいだったぜ。お前はお前で俺がいるのに千歳だけを見てるし。お前らやっとお互いを見つけたみたいな風出しやがって。」

 「そうだったか・・・。全然気づかなかった。すまん。」

 「終始その場には俺がいないみたいな。そんな感じで・・・。うん・・・。実は、うん。実は、俺も前から千歳、いいと思ってはいた。相手がお前だもんな。それであんなの見せつけられたら。お陰で不発に終わったぜ笑。」

 と、政樹は湊の友達のままでいた。湊の目には心から笑い切れずにいる政樹が映っていた。

 「・・・。そうだったか。」

 と、湊の口はそれ以上の言葉を出そうとしなかった。

 「千歳に何かあったらたとえお前でも許さねぇぞ。」

 と、政樹は湊の腕を軽く殴るような仕草をして学校へと向かった。


 神の言葉通り、千歳との出会いが湊の人生の最絶頂期だった。そこから奈落の底に落とされるとは思いたくはなかった。


 高校も残りあと少し、大学受験まで数ヶ月というところだった。それは容赦なく湊に現実を突きつけた。両親にはあの後、検診は欠かさないように、車の運転は気をつけるようにと、思い付くこと全て、どちらが親になったかと言う程に湊は口うるさく言い続けた。そして、努力の甲斐もなく、こんなにも早く、望ましくない方へ向かうとは考えたくもなかった。


 「父さんが会社の検診で・・・。その後、湊には心配かけたくないからって。一人で病院に検査をしに行ったの。父さん薄々気付いてたんだと思う。」

 と、母のその一言からまるで頂点から一気に転げ落ちるように始まった。少しも止まろうともせずに。

 「父さん、何?悪いとこあったのか?」

 と、湊の脳裏に神との出会いを彷彿とさせた。母は湊に伝えようとしている一言の重さと裏腹に、それが真実ではないと信じたいという気持ちで混乱しながら話し続けた。

 「父さん、癌って・・・。」

 「癌って言っても治せるんじゃないか?今の医療ならば。」

 「それが、もう駄目だって。母さん、病院から今日は一緒に来てくれって言われて行ってきたの。お医者様が・・・。手の施しようがないって。」

 「そんなこと言ってないで、最新の医療設備がある病院探そうよ。」

 と、湊が家族に起こっている運命を覆そうとすると、小さく膝を抱え、幼い少女のように母は涙を流し続けた。そんな母親の姿は湊にとって初めてだった。


 湊の父と母の出会いも、湊と千歳のようだった。その二人がそんな出会い方をしたと知ったのは、湊が中学の頃だった。


 その二人がまともに喧嘩したのは湊が知り得る限り、そのとき一度限りだった。その父は常に母を気遣うという、父は母の世界を理解するこの世でたった一人の人間だったのだと思う。それもこんなことで父が怒るのか?という内容だった。ある土曜日の夕方だったように思う。玄関の扉が大きな音を立てたので不思議に思った湊はリビングのソファーで一人項垂れている母を見た。母は父が怒って出て行ったとだけしか言わなかった。

 「親父・・・。怒ったの?」

 「うん・・・。」

 「何かしたの?」

 「母さん、ただここに座って庭を眺めて『幸せ』って言っただけなの。」

 「本当にそれだけであの親父がキレるかな?」

 「本当にそれだけ・・・。」

 湊は父の顔を思い浮かべると、母を慰めた。

 「・・・。夕飯ごろには忘れて帰ってくるよ、親父。」

 「うん。」

 「母さん、今日の夕飯何?俺腹へった。」

 「すぐ支度する。」

 と、可愛い息子のために母は重い腰を上げた。母が夕飯を作っている間、湊は玄関の外で父の帰りを待った。


 案の定、一人になって頭を冷やしてきたのか、父は腹が減ったと言いながら罰が悪そうに帰ってきた。

 「おかえり。」 

 「うん。ただいま。」

 「母さん、困ってる。親父が何でキレたんだかわからないって。本当に俺も見たことないけど親父どうしたの?」

 と、湊が仲睦まじいはずの夫婦の仲を取り持とうとすると、父は何か重大なことでも言い始めるかのように口を開いた。

 「母さん、幸せって言ったんだ。幸せって・・・。」

 「え?それのどこがキレるポイントだったの?幸せならば良くない?」

 と、父は暫く黙りこくり父の言葉で語り出した。

 「母さんと初めて会ったのは高校の頃だったんだ。会った瞬間にこの子だって思って。母さん美術部で、その教室の前を父さんたまたま通りがかって。みんな石膏像をデッサンしてるのに、母さんだけなんか絵本みたいな絵を夢中で描いてたんだよな。それがどうも忘れられなくて。その日の帰り、父さん昇降口の脇で母さんを待ち伏せして。駅まで帰る途中に一人になったところで話しかけて。雨降りそうですよなんてわけわかんないことを父さんが言ったから、母さん呆気に取られて。そりゃそうだよな。知り合いでもないし、父さん男だし。でも母さん、それに乗っかってきてくれて。雨降りそうだから急ぎましょうって。その後駅まで興奮しすぎて何話したか記憶にないけど、ちゃんと自己紹介し合ったことだけは覚えてるんだよな。後は、父さんが偶然そこを通りがかったってことで何度か話してるうちに、どちらともなく付き合ってることになって。父さんの素性をあかす暇を与えないぐらい父さん、母さんに色々聞いたな。そしたら、母さん、将来は絵本作家になりたいって。ずっと小さい頃からの夢なんだって目をキラキラさせて言ったんだ。そのとき父さん、この子の夢は叶えてやるんだって決めたんだ。大学は別々だったけど、母さん美術科でデッサン頑張って大学のときに小さいけど賞とって、児童書の出版社に入った頃だった。母さん波に乗り始めたって感じだったな。お前ができて。母さん、お前ができたことすごく喜んで。そこからは、子育てに追われて今の母さんだ。父さんが母さんの夢叶えてやるって決めたのに何一つ叶えてやれてない。すぐそこに母さんの夢はあって捕まえられるはずだったんだ。何だか父さんのせいだとずっと思ってて。父さんと結婚したせいで母さん苦労ばっかりだし。それなのに母さん、『幸せ』なんて言うんだ。どう言っていいかわからないけど、父さんが母さんの夢奪ったみたいに思えて、すごく聞いてて辛くなって。父さん悔しくてやるせなくて・・・。」

 と、ただ前だけを向いて過去を語る父を湊は、この二人こそ本当の幸せを知った夫婦なんだと確信してこう言った。

 「母さん、幸せだな。幸せ。」

 と、湊も父と同じように前だけを向いて言った。そして、父と子は決して揺るがない家族へ戻って行った。黄昏の色が湊の家族を包んでいるかのようだった。


 そんな二人に起こったことだ。父の病気は湊の家族にとっての終止符になっていった。幼い子供に向けるような愛情を育んてきてくれた父がいなくなるかもしれないという現実を目の前にした母。そして、それを信じなくてはならない自分と信じたくない自分との間で今を生きる母。そんな母を湊はただ見守った。父はそんな家族を残し、呆気なくこの世を去って逝った。父が家族を愛していたということだけは残して・・・。そして、それからまもなく神の言葉通り、母も父の後を追うようにしてこの世を去って逝った。母が父をどれだけ思っていたか。母の死は父の愛への遺言のようだった。そして、湊はこの世でたった一人になった。


 父も母も亡くしてしまった湊は、千歳にも会うことさえも忘れてしまった。まるで時をなくしてしまったかのように床に座ってソファに寄りかかって、ただ茫然としていた。どれほどの時間が過ぎたか定かではない頃、インターフォンが小さく鳴った。始めは鳴ったことも気づかなかった湊だったが、何度も鳴ったことでいつもの自分に呼び戻され、ゆっくり玄関に向かい扉を開けた。

 「・・・。お悔やみ申し上げます。」

 と、政樹が湊に俯いた目を少しだけ合わせてそう言った。

 「うん。」 

 「学校・・・。学校、来たくなったら来いよな。」

 「うん。」

 「じゃ・・・。」 

 と、政樹は閉じて一向に開こうとしない湊の扉を、ここを開けてこっちに来るようにとでも示すかのようにそう言って帰って行った。政樹が来て一月後、湊は自分の机の椅子に座っていた。担任の先生が両親のことをを告げたのは政樹だけだったとクラスの雰囲気からすぐにわかった。

 「受験まであと少しだな・・・。」

 「大学、推薦決まったんだろ。いいな。」

 「模試、B判定だった・・・。滑り止めにしようってとこかな。」

 と、普通の学校生活がそこにはあって、湊だけが違う高校生だった。それでも政樹の言う通り学校には来るべきなのはわかっていて、空虚と化した自分と一緒に前に進み続けた。兎に角、生きることだけしかできなかった。


 千歳とは縁があった。千歳と湊は出会ってからというもの、二人を繋ぐ何かが少しずつ手繰り寄せているかのようだった。どちらかが待ちぶせしているわけでもないのに偶然会うことが多くなっていった。いつものように家路へと向かう途中、示し合わせた訳でもないのに、いつかの折り畳み傘を差した千歳の後ろを湊は歩いていた。湊は呼び止めようとはせず、その後を近づかないように、遠くならないように千歳の後ろ姿だけを見て歩いた。次の日は、今にも降りそうな鉛色の雲の下、おそらく図書館帰りだろう千歳の姿が見えた湊は、避けるようにビルの間に隠れた。千歳が友人と話しながら帰る姿を見て、少しだけ普通に戻されたようだった。次第にこれが普通なんだと思い出したときだった。油絵のように一色一色を塗り合わせていくうちに千歳と湊にしか出すことができない色ができた日があった。その日は、帰り道が一緒になった日からひと月が経とうとしている頃だった。

 「千歳。」

 と、湊はその日は何故か呼び止めることができた。

 「湊。」

 と、千歳は嬉涙を覆うように口元は僅かに微笑んで名前を呼んだ。その三文字を音にできた千歳の幸せそうな顔で湊は自惚れた。

 「元気だった?」

 「うん。」

 「元気なら何より。」

 「湊は?」

 「うん。」

 「それ、答えになってないから。」

 「うん。」

 と、湊は千歳の無邪気さをいつまでも守ってやりたかった。

 「変なの。たまに見かけたんだよね。でもすぐにいなくなっちゃうから。嫌われちゃったかと思ってたよ。」

 「そんなことない。全然。ない。絶対。」

 「ならば良かった。ほんと心配したんだから。ほんとに。」

 「ごめん。」

 「いいよ。私、湊いい奴って一番知ってるから。」

 と、湊は千歳のその言葉に癒された。そして、やっぱりこの子だと確信を得た。千歳はその後もずっと近況を詳細に報告して、湊はひたすらそれに相槌を打った。その何気ない千歳が湊を普通に戻していった。

 

 自分の部屋だけの電気を点けることができない湊を何も知らない千歳はもどかしい気持ちで見ていた。湊自身もそろそろ戻らなくてはならないということは頭ではとうにわかっていた。みんなが大学合格の話題に持ちきりな中、受験さえもできずにいる自分と向き合うことから始めなくてはならなかった。それ以前に両親が残していったものの整理も手付かずだった。たまに両親の寝室に入っては見たものの、どうにも片付ける気にはならず、窓を開けて両親がいなくなったときのままのベッドに座っては途方に暮れるを繰り返していた。

 

 そうこうしているうちにみんなは卒業していった。


 卒業してから政樹は何度か湊の携帯にメールをくれた。モノクロで簡略化された政樹からの文面は大学という真髄を避けていた。

 「明日東京に行く。こっちに帰ってくるときは連絡する。」

 と、親友の政樹らしい内容だった。その後すぐだった。珍しく家のインターフォンが鳴った。暫くそれを躊躇っていると、

 「湊、いる?いるんでしょ?出て!」

 と、千歳が玄関の扉を叩きながらそう叫んでいた。湊が扉をゆっくり開くと、

 「やっぱりいた。いると思ったんだよね。」

 「何でここわかった?政樹か?」

 「うん。政樹に強引に聞いて。ごめん。私も来週には東京の大学に行くから。」

 「そっか。おめでとう。大学はどこ?」

 「あ、そうだよね。数学教えてもらって好きになったのに、ごめん。文系に決まって。S大に決まったの。」

 「すごいじゃん。千歳ならできると思ってたよ。」

 「湊のお陰。それで大学って休み長いじゃん。ちゃんと帰ってくるからって言ってから行こうって思って。お別れじゃないよ。挨拶。いってきますみたいな感じで。」

 「こっちのことは気にするな。大学楽しめよ。」

 「何言ってんの。彼氏とかつくって楽しめとか思ってないよね?私にとってこの先、湊以上の人はいないと思ってるんだから。」

 と、千歳本人は大丈夫だから、湊の気持ちは揺らぐなよという風に彼女なりの釘を打ったのだと思う。そんな千歳の真っ直ぐな表現に湊は思わずクスッと笑ってしまった。両親が死んで以来、それは初めてのことだった。千歳はいつもの千歳だった。見えている千歳の顔と、湊の記憶にある千歳の顔が重なって湊自身が自分の以前の顔を思い出した。湊はこのままじゃいけないと思うことができた。千歳を駅まで送る際、千歳が何度も湊の顔を覗き込んだり、見つめたりしているのは真っ直ぐ前を向いて歩いている湊でもわかった。千歳の顔をちゃんと覚えておきたかったが、久方ぶりの恥ずかしさを思い出し、湊は自分の視線に逆らうことができなかった。ただ、千歳がこんな表情で話しているだろうと思い浮かべながら聞き役に徹した。

 「じゃ、ここで大丈夫。GWには帰るから。」

 「うん。無理すんな。」

 「私が来たいから来るだけ。だから気にしないで。」

 「わかった。」

 「連絡するね。電話に出てよ、絶対。」

 「うん。」 

 と、何度も何度も振り返って少しずつ遠のく千歳の顔を、湊は脳裏に焼き付けた。千歳は湊の姿が見えなくなるまでずっとそこにいる湊に手を振った。千歳が会いに来ると言った返事にそう言ったものの、千歳とは会うべきではない、このまま別れるべきだという気持ちが現れていた。千歳が別れ際に見せたその笑顔が湊にそう決心させるようになっていった。湊にとって千歳を大切に思う気持ちは大き過ぎた。


 千歳はその後、連休や大学の長期休暇には必ず会いに来た。それを心待ちにしている自分と千歳を思うからこそ、その決心の間で揺らいだ。千歳の笑顔は変わらずそこにあった。そして湊の会いたいがそれを当に勝ってしまっていた。ただその気持ちが大きくなるにつれて、両親を亡くして珍鬱な自分がいるという事実よりも両親を亡くす前の自分に戻ろうとする自分が知らず知らずのうちに芽生えていた。いつしか本屋で大学を調べて、志望する大学、学科、遂にはもっと先の自分の将来を描き始めていた。もちろん、そこに千歳を見据えることができるように湊なりに策を練っていた。己に課された運命であっても必ず変えられると信じたかったのだ。塾に通い出し、全国模試でA判定を取ると、その合間を縫って大学周辺のアパートを調べた。目ぼしいところは決めておき、と同時に両親との思い出の詰まったこの家を売ると決めた。湊には大学受験よりもこの家との別れの方が惜しくも思えた。そして、正月を迎えてから、湊の人生を変えるための舵を切った。。


 「今年の桜は例年よりも遅く咲きました」というニュースが流れ、湊は合格した大学の入学式に一人で向かった。千歳には家を売ったことも、大学に合格したことも言わなかった。一人前になったら千歳に会って話そうとそう決めていたからだった。湊にとってそれが希望となっていたのだ。それからというもの、大学の講義に、講義の後はバイトに、帰宅後はレポートや試験勉強に明け暮れた。神からの言葉などあの景色もろとも無くしたかった。この身にのし掛かった絶望を跳ね除けるこの前向きさを一縷の望みにしたかったのだ。それも大学三年の中盤に終焉を迎えようとしていた。世の中は就職氷河期から超が付き、『就職超氷河期』とフェーズを一つ上げた。周りの同級生たちもやたらと狼狽した。自分たち一流大学の経済学部ぐらいであれば一流 企業はヴェリーイージーだと驕り高ぶり、聳え立ったその鼻を悉く折っていった。

 「今日もダメだった・・・。なんか、世の中からお前は必要じゃないって言われてるみたいだよな。」

 「お前も今回で何社目だ?」

 と、隣りの席の同志は質問の主に向かって両手を開き、その後右手で人差し指を立てて上下に揺すった。そして、そいつは項垂れた。一部始終を近くで見ていた湊もまた、既に八社には履歴書を送っていて、書類選考を通過したのはたった一社だった。それも、滑り止めぐらいの考えの会社だった。忘れていたはずの神の言葉が辺りが見えなくなるほどに影を落とし始めた。

 「誠に残念ではございますが、今回はご希望に添えない結果となりました。ご要望に添えず大変恐縮ですが、何卒ご了承下さいますようお願い申し上げます。」

 と、その滑り止めの会社までもが湊を却下した。大学卒業までは千歳が綱紀となってあらゆる雑念を粛正してくれた。でも、それも我武者羅に足掻いただけでひとたまりもなく砕け散っていった。

 「俺は・・・。」 

 と、湊は両親の死から今までをしゃぼん玉で浮かんだ船の上のようなところにいただけったと我に返った。 

 「千歳・・・。」

このとき湊の内にある千歳のほとんどに別れを告げたと言っていい。                                                                                                                                                                                      

 それからというもの湊は大学は難なく卒業できた。そして、バイト先の上司の口添えでそのまま正社員に起用され、湊一人は生きることだけはできた。千歳のことといえば政樹経由で大体は把握できていた。千歳自身は、湊が両親との家を手放した辺りには『どうしたの?』という言葉が携帯から出てきそうな程かけてきていた。何度か千歳からの切実な着信を取ろうと親指は動こうとしたが、千歳の想いを中途半端な気持ちで受け取りたくなかった湊はあくまでも『一人前』の自分で千歳の前に現れようとした。このまま千歳にプロポーズしても、あの砂浜で見た画の千歳にしてしまう。それだけはどうしても避けなくてはならなかった。千歳の情報をくれる政樹は千歳が湊と繋がれないと心配しているということだけは携帯にメールに残し、一方の湊は『すまない。今は千歳には会えない』とだけ返信した。そんな湊に見兼ねた政樹はメールではなく湊の携帯に電話した。

 「久しぶり。元気か?」

 「おう。元気でやってる。」

 「・・・。しつこいようでこんなこと嫌なんだけど・・・。湊、お前、千歳に元気だぐらい言ってやれよ。千歳かなり病んでるぞ。あいつあれで真面目なとこあるから・・・。会社にはちゃんと行ってるみたいだけど。たまに飲みに連れ出したときはお前のことばっかりで・・・。聞いてるこっちまで沈んじまうぐらい。」

 「すまない・・・。でも今はほんとに無理なんだ。」

 「そっか・・・。あのさ。こんな話ししたのも実は・・・。千歳、会社の同僚から告白されたって聞いて。俺、それはやっぱり嫌だと思って。湊には前に言ったことあったけど。千歳と付き合いたいし、結婚も考えたいから、千歳にはそのこと、この間言ったんだ。そしたら、湊以外考えられないって。笑っちまうよな。あいつ、それに付き合うにしても湊の周りの人だけは絶対無理だってよ。それ何で?って聞いたら、湊を思い出すからって。あいつん中には俺は入ってないんだよな。お前この意味分かってるだろ。」

 「うん。」

 と、湊は政樹から長年の真情を吐露されたが、返事はその一言だけだった。

 「全く・・・。お前は・・・。」

 と、他にも言いたげな政樹だったが、続けた言葉はなかった。それから数年、政樹から湊への連絡は途絶えた。湊もまた本当の心はそこに置いて再び前に進むしかできなかった。


 湊、政樹、千歳が繋がり始めた。世の中がLINEでやりとりするようになり、やや出遅れた湊がLINEを携帯にインストールすると数日後、湊の携帯に政樹から連絡が来た。

 「久しぶり。」

 と、政樹は十五年ほどの時間を感じさせなかった。

 「久しぶり。」 

 と、湊もまた変わらない友に同じように答えた。

 「元気だったか?」

 「元気でやってる。」

 「いつかんときみたいだな。」

 と、政樹はあの日を鮮明に覚えていた。

 「LINEで友だち?にお前の名前出てきて。」

 「そうだったか。連絡ありがと。」

 「うん。」

 「電話ではなんだから、お前もまだ東京だろ?飲みにでも行かないか?」

 「いいよ。」

 「じゃ、また近いうち連絡する。」

 と、簡潔明瞭に男友達の会話を済ませた。


 政樹が指定してきた店に湊が入ると、既に政樹は席についてビールを飲んでいた。会社帰りのサラリーマンが犇めき合う中で、ただ一人馴染んでいるようで馴染んでいない政樹がいた。

 「よっ。」

 「おう。」

 「わりー。先に一杯やってた。」

 「いいよ。」

 「お前、変わんねぇーな。」

 「変わったよ。白髪も出てきただろ。」

 「俺も。あ、俺、結婚して子供いるんだ。」

 と、政樹はこの世代の慣わしのように携帯の画面の子供の写真を見せた。

 「可愛いな。嫁さんは?」

 と、湊はほんの一瞬だけ顔を曇らせると、

 「これ。嫁さん、千歳じゃない。お前分かりやすいな。」

 と、政樹が湊の気持ちはお見通しと言わんばかりにそう言った。湊は政樹の知る素直な性格のままで頬を緩ませた。

 「お前、ほんとに変わんねー。千歳にはあの後、結婚してくれって言ったんだ。結果は分かってはいたけど。」

 「そうか。」

 「千歳、私は結婚するなら湊だからって。少しぐらい返事の内容変えろよって思っちまうぐらい、昔のまんま。」

 「それで、千歳は元気か?」

 「元気でやってる。ただ・・・。」 

 と、政樹は言葉を詰まらせた。

 「千歳、結構経ってから前に言ってた会社の同僚とあれよあれよという間に結婚しやがって。もう子供も一人。男の子。」

 と、政樹の予想通りだったはずの報告に湊は返すはずの定型文まで言うことができなかった。その後、政樹が湊を慰めるようにひたすら近況を話し続けたが、湊の中にある空虚さを広げるだけだった。政樹が話した内容は頭に入ってこなかったが、千歳の住む場所の会話の箇所だけは湊は記憶した。そして、酒に飲まれる前に二人は帰路についた。

 「無事帰れたか?」 

 と、次の日の朝、政樹からはLINEが届いていた。湊は無事とだけ返信した。


 『千歳が結婚した』、湊の脳の海馬がそのように刻印した。湊がふっと我に返ると千歳の住む街を彷徨っていた。ここ数日の記憶が全く無くなっていた。ここに来たとて千歳に会えるわけでもなく、できることならば千歳を一目でも見れたらそれでいい、ただそれだけだったのだ。どうせ会えないのだからと湊の眼は期待せぬようにと霞んだようになった。会わずして帰るときを察して身体がそう反応したのやもしれない。しかし、湊の会いたいが千歳の会いたいを手繰り寄せたかのようだった。やっぱり千歳とは運命的なものを感じさせられた。商店街を抜けた角を曲がると小ぢんまりとした花屋があって、そこに男の子の手を引いた千歳が花を見ていた。湊は当惑し慌てふためいた。そして、 千歳に見つかってはいけないという一心で、近くにあった電柱に身を潜めた。湊の眼からは涙が溢れていた。湊の身体も心もこの先にある千歳をこの眼に納めておきたかったが、溢れ出る涙でそれを何度も何度も邪魔された。湊の眼に掻い潜って届いた千歳は、昔に劣らず美しかった。女性という中に眠っていた母という泰然さが、千歳の真の美しさを引き出していた。そして千歳は出会った頃から好きと言っていた白いマーガレットの花を買って帰ろうとしていた。決して交わることのない千歳との道に、湊はただ見送ることしかできなかった。

 「千歳が幸せで良かった。」 

 と、湊の口からそう零れ落ちた。千歳の後ろ姿はゆっくりと時を刻むように消えていった。それからというもの、湊は千歳に会いに行こうとはしなかった。ただ次々と湧き出る千歳への欲が悪さをし、いつの間にか携帯を手にし、千歳の番号を開いては消すを何度も繰り返した。


 あれから季節が二つほど過ぎた頃だった。紫、藍と色とりどりの紫陽花が咲き誇る、そんな時だった。その紫陽花たちが湊に手向ける花のようだった。腰が痛むと病院を受診したときは既に遅かった。奇しくも湊の父親と同じ病気だった。我の儚さを季節外れに鳴く蝉に重ねて嘆いていた。嘆く力も無くなった頃、虫の知らせを受け取ったのか、政樹から電話があった。

 「よっ。元気か?」

 「元気・・・。ではないな。」

 「どうした?何かあったか?」

 「うん。政樹今晩飲みに行かないか?」

 「今晩か。いいよ。じゃこの前の店で。」

 「じゃ、後で。」

 と、湊は今にもこの地を離れようとしている身体を友で繋ぎ止めようとした。政樹もまたそんな湊を察し、見えない手綱を必死に引いていた。

 「よっ。」

 と、一人鬱屈とした湊の殻を気の置けない友の政樹は小さく揺すった声で破っていった。

 「おう。」

 「とりあえず飲もうぜ。」

 「うん。」

 と、湊は注文したビールの結露を指でなぞっては、それを口にはせずひたすら何も言えずにいた。そのビールが生ぬるくなった頃、湊はゆっくりと話し出した。

 「あのさ、この前、あ、お前から千歳の話し聞いてから、俺、千歳の住んでる辺りに行って。」

 「行ってって、お前。」

 「うん。行ったら千歳、見かけた。」

 「そうか。して千歳は?」

 「元気そうだった。」

 「そうか。」

 と、湊はそこまで話すとまた口籠った。政樹もまたそこから話を広げようとはしなかった。

 「俺、もう死ぬんだって。」

 と、他人が死ぬように話し始めた湊に政樹は表情も言葉も失い途方に暮れた。

 「俺、親父と同じ病気になって。酷い話しだろ?こんなのってあるかよってな。親父も母さんも亡くして、千歳とも一緒になれず。俺まで・・・。親父があんな死に方したから気をつけていたんだぜ。それなのに・・・。俺の人生ってなんだったんだろうなって、つくづく考えっちまうよな。」

 「・・・。」

 「でも俺、千歳見れたこと、何て言っていいかわかんねぇぐらい幸せって思った。俺、イカれてるよな。自分が死ぬって時に千歳に会いたいってそれだけなんだ。ほんと可笑しなやつだよな。俺。」

 と、政樹は何も言わず聞いていた。

 「政樹、俺、千歳に会いたい。会って話したい。」

 「うん。」

 「今、一番の願いなんだ。」

 「うん。」

 と、湊は拳で血管を締め付けるほど握りしめ、項垂れて、まるで幼い赤子のように人目を憚らず泣いた。そんな湊を前に政樹はただただそこにいた。


 病魔は時待たずして湊の身体を蝕んだ。あれよあれよという間に病床に伏せる日々となっていった。病室から見える景色もまた雨が降ろうと風が強かろうと、たとえ晴れていようとも同じに見えた。そんなある日に、あの白い鳥が再び姿を現した。その日もまた窓の近くを何度か飛び回っては開けてあった湊の病室の窓の縁に止まった。そして、あの日のように語り出した。

 「今日までお前を見てきた。お前は解ったはずだ。」

 「なんだよ。こんな状態の俺が何を知ったっていうんだ?」

 「これからあの女がお前に会いに来る。お前はやり遂げたんだ。」

 「今更千歳に会ったところで何だっていうんだ?」

 と、いかにも含みのあるように語ったと思えば、その白い鳥はまた何事のなかったかのようにそのまま空へと消えていった。湊がこの不可思議なことを思い返していると、さっきの白い鳥の宣言通りに千歳が訪ねて来た。湊にとっては千歳との時間が『生きている時間』で、それ以外は時間ではなかった。病室の扉が開いているところに、あの時のままの千歳がそこに立っていた。そして、千歳はその時間を一歩一歩踏みしめて記憶するように湊の側に近寄った。

 「久しぶり。」

 「久しぶり。」

 「会えて良かった。」

 「俺も会えて良かった。」

 「政樹から聞いて・・・。湊の両親のことも、湊の病気も、全部。私、気が付いたらここに来てた。ごめん。」

 「うん。」

 と、湊がそう言うと、先に涙を溢した。

 「私。」

 と、二人は今までずっと言えずにいたことを涙にした。暫く湊が千歳の瞳を見つめると、

 「俺、一度お前を見に行ったんだ。お前に会いたくて。」

 「うん。」

 「お前が幸せそうで嬉しかった。」

 「うん。」

 「死ぬ前にこうしてお前に会えた。俺は幸せだったんだ。」

 と、湊がそう言うと、千歳は湊の眼を見つめたまま手を握りしめていた。湊もまたそんな千歳を見つめ続けた。そして、湊は湊の中に眠っていた魂を千歳が呼び起こし、その魂が極相となって一つになっていくのを感じた。千歳もまたそれを感じ取っているかのように何も言わず、一つになった時を共にした。また来ると言って帰る千歳の姿を見送った後、湊は深い眠りについた。


 久方ぶりに長い夢を見た。湊が両手を開くとそこにはあの時と同じように砂があった。辺りを見渡すと両親と過ごしたあの湊の部屋だった。

 「湊、ご飯よ。」

 と、母の呼ぶ声が聞こえた。湊はずっとその砂を見ていた。

 


 

 

 

 

 

 


 


 


 


 


 

 


 


 


 

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