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第3話「塩と穀と命」

 夜明け前、雪はやんで、空は紙のように薄かった。

 私は帳簿の表紙に指を置き、三つの文字を書き足す。塩/穀/命。

 禁輸が紙の上で決まるなら、私たちは胃袋の上で覆すだけだ。


 まずは塩。

 塩は血だ。血が止まれば筋肉は動かない。

 北境の塩は、東の岩塩坑と西南の海塩に頼る。海側は王都の監督が濃い。ならば東の塩路を開く。


「――氷路の延伸、今朝から着手します。目標は岩塩坑の前衛村まで二里半」

 私は地図の端に、昨日敷いた仮氷路の延長線を描いた。

 ボルドは頷き、橇の歯に新しい鉄片を打ち込む。「斜面は縄を張れ。転けたら骨が砕ける」

「縄も匂い標識も増やします。焦がし砂糖にミントを足して冬の匂いを尖らせる」


 氷の精霊ウィスプは、窓辺でころころ転がりながら、私の描く線を追って遊んでいる。

「冷たい道、のばす。きょうは、みぎ」

「ええ、右の谷を回っていく」


 穀は重い。だから一気に運べない。

 私は大配膳の前哨として、粉挽き小屋の稼働を倍にする計画を立てる。風車では雪に弱い。そこで蒸気導管を軽く回し、臼の下に温水を巡らせる。

 生地が凍らないだけで作業効率は二割上がる。

 ミリィが粉の匂いを嗅いで、「きょうの粉は“甘い”。麦が乾ききってないやつ」と判定する。

「では、まず粥で使う。膨らみが悪い粉は、粥のとろみに向く」



 午前、城門前。

 王都からの監察官が着いた。黒い外套、銀の留め具。目の焦点は常に紙のほうにある。

 彼の後ろには、見慣れない顔が二人。アーメント商会の印章をぶら下げた男と、痩せぎすの書記官。


「北境に通達済みの禁輸令に背く運搬路を敷設したと聞く」

 監察官は言うより先に書く。筆先が雪より冷たい。

 私は礼をして、手順書を差し出した。『厨房条例(暫定)』――昨日、ライナーと協議して印を押したものだ。

「私たちは王命に従います。塩と穀の禁輸に異議はない。ただし命の輸送は禁じられていません」

「命?」

「食品を腐らせない権利です。氷路は運搬路であり、腐敗防止の衛生設備。通達に抵触しません」


 監察官の眉がぴくりと動き、背後の商会男が鼻で笑う。

「理屈だ。紙で勝てると思うな」

「紙では勝てません。味で勝ちます」

 私は広場の中央に立てた価格掲示板の脇を叩いた。

 その下には、今朝印刷した一枚紙がぶら下がっている。

 ——本日午後、台所裁判

 被告:不明(冷蔵庫倉放火未遂)/証拠:匂いの輪・瓶・味覚検札/裁定:営業許可/立会:監察官


 監察官は顎でうなずいた。「お前たちの“遊び”には立ち会おう。とはいえ、禁輸令違反の処分は別途執行する」

「よろしい。では、その前に――塩を通します」


 私は城門の外、仮氷路の起点に立つ。

 ウィスプが雪面を滑り、薄く氷をなぞっていく。

 ボルドの橇がきしり、若者が縄を張る。

 ミリィは鼻を利かせ、匂い標識の位置を指示する。「ここ、薄い。ミント増やす」

 匂いが濃いほど、迷わない。目印は鼻にもなる。


 日が上がる頃、一群の山人が谷の向こうから現れた。肩に塩俵、背に弓。

 彼らは岩塩坑の前衛村の民だ。禁輸で王都へ塩を下ろせず、在庫が山に詰まっている。

「塩の道をこちらへ」と私は叫ぶ。「食券で半額、蜜蝋で残り半分を払う。春の蜂蜜祭で相殺だ」

 年長の山人が目を細める。「蜜蝋の値は季節で揺れる。王都の帳簿は気まぐれだ」

「帳簿は湯気で温めます。固定相場を掲示板に明記し、毎朝更新。誰の目にも見える相場の台所で」


 短い沈黙のあと、山人は俵をひとつ、氷路の上に落とした。

 氷は低く鳴り、割れない。

 彼は笑った。「……いい氷だ。冬の道は信頼で出来てる。乗ろう」


 塩俵二十が、午前中に城へ入った。

 監察官は黙って書記に数字を書かせる。

 私は彼に、厨房条例の余白に追記するのを見せつける。“本日、塩俵二十入荷/塩水霧の配膳再開”。

 紙は冷たいが、運用が紙に体温を与える。



 正午、広場。

 台所裁判の支度が整う。

 台の上には三つ:匂いの輪を漂わせる瓶、味覚検札の匙、そして湯気。

 観衆は屋台の列より密だ。監察官も商会男も、最前列に立つ。


「被告不明。告発は冷蔵庫倉放火未遂」

 ライナーが開会を宣言し、私は手順書を読み上げる。

 ——“味覚係は一次審級。危険物・毒・腐敗の判定は味と匂いの一致で行う。補助として匂いの輪と舌の鈴を用い、二者一致で決する”

 ミリィが一歩前に出て、深呼吸した。

 彼女の鼻先に、匂いの輪がゆらぐ。昨夜、証拠瓶に貼った符が空気中の香を可視化している。


「苦い油の匂い。それと、火打ち石の粉。……あと、羊脂。これは人の手の油。……たぶん、革手袋」

「対象の推定は?」

「倉庫周りに入る仕事の人。手袋を常用してて、油瓶の扱いに慣れてる」

 私は周囲を見回す。

 広場の端で、三人の男が固まって立っている。背丈が近く、同じ型の革手袋。商会の従属荷役。

 匂いの輪が風に流れて彼らの上に薄く重なり、輪郭が少し濃くなった。


「前へ」

 彼らは顔を見合わせ、うち一人が一歩遅れた。

 遅れた男の鼻先に、ミリィが匙を翳す。匙の先には舌の鈴——甘味・苦味・酸味の微量溶液が並び、匂いと味の反応で小さな音が鳴る。

 苦味の鈴が、ちりと鳴いた。

「火薬油。昨日、触ったでしょ」

 ミリィの声は震えていない。

 男は硬直し、やがて膝をついた。「……頼まれた。瓶を差し込めって。金が出るって」

「誰に」

「監察の前に喋れるか!」と、商会男が叫ぶ。


 ライナーが手を上げる。「静粛に。厨房条例に基づき、営業の安全を脅かした者は食券剥奪と市外追放。同時に、背後関係は城の法で追う」

 私は観衆に向き直り、匙を掲げた。

「味は嘘をつかない。——本日の裁定、冷蔵庫倉の営業継続。屋台は予定通り開く」

 歓声と、鍋の蓋の鳴る音。

 監察官は唇を結び、書記官に長い行を書かせた。

「……“台所裁判”は王法にあらず。だが、治安維持の仮手続きとしての実効を認める」

 彼は視線を上げた。「ただし。禁輸令の範囲を逸脱した場合、直ちに営業停止を命ずる」

「逸脱させません。紙の法と台所の法は、今日、握手した」



 午後、初物祭・二日目。

 魚に塩が戻り、塩水霧が昨日より薄くて済む。

 屋台ギルドの衛生講習は、受講者三十五名。

 私は“合格札”に小さな魚の刻印を入れた。可愛いは秩序を広める。

 ミリィは味覚検札の台で子どもに匂いの嗅ぎ方を教え、「鼻で読む国語」を始めた。

 ウィスプは屋台の上でころころ転がり、林檎の芯を盗み食いしては、子どもに見つかって笑われる。


 夕刻、塩俵四十が追加で入る。

 岩塩の角が美しい。

 私は一片を削り、舌に乗せ、塩の音を確かめた。

 塩には、音がある。良い塩は乾いた鈴の音がする。

「これで、明日の粥は一段上に行けます」

「明日の数字目標は?」とライナー。

「配膳六五〇。屋台の売上は食券回収三九〇。魚入荷一八〇、氷路延伸三里」

「欲張りだ」

「台所はいつでも欲張りです」


 彼は笑みを押し殺し、真顔で頷いた。「兵站厨房の増設許可。城壁内の空き倉を渡す。人員は……志願者が足りるだろう」

 広場では、焼ける音と笑い声。

 禁輸の掲示は、相変わらず板に貼られている。

 けれどその下で、塩の白と魚の銀が、台所の正しさを光らせている。



 夜。

 監察官は城の客間に泊まり、商会男は外の酒場で苛立ちを酒に溶かした。

 私は帳簿を閉じ、厨房条例の巻末に一行を加える。

 ——“塩の輸送と衛生は不可分。氷路の破壊は飢餓の教唆に等しい”

 言葉は強いほうがいい。腹に届くから。


 ミリィが欠伸を噛み殺し、手を挙げる。「ねぇ、セレス。……“ざまぁ”って、いつ来るの?」

「もう来てるよ」

「え、どこ?」

「禁輸の看板の下で魚を食べる。これ以上の“ざまぁ”は、なかなか無い」

「たしかに……おいしい“ざまぁ”だね」

 彼女は満足げに頷き、机に突っ伏して眠った。


 ウィスプが窓辺で小さく鳴く。

「つぎは、なに?」

「法を一段、上げます。厨房衛生法の草案を。王都の紙と並べる準備」

 私は新しい紙を開き、見出しを書いた。

 ——『厨房衛生法(草)/冷鎖・検札・出店資格・台所裁判』

 紙を置いた瞬間、遠くで狼煙塔がまた赤く染まった。


 伝令が駆け込む。

「王都商会、禁輸“強化”の工作! 山側の関所に買収の噂!」

 私は紙の端を折り、立ち上がる。

「価格で戦う準備を。蜂蜜連合を――明日、招集します」


 湯気が一段と濃くなる。

 この国の呼吸は、もう小さな台所を越えて、街道と市場と氷にまで行き渡っている。


――――

次回予告:第4話「砂糖の戦争」

王都商会の値崩し攻撃に対し、蜂蜜連合で甘味の相互関税を提案。価格は剣。同時に**厨房衛生法(草)**を公表し、監察官を“紙の机”から屋台の湯気へ引きずり出す。数字目標:配膳七五〇/氷路延伸四里/屋台講習合格五十。

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