第2話「氷は法」
禁輸の通達は、湯気より冷たかった。
けれど湯気には勝てない。湯気は腹の底から上がってくる。
私は鍋の蓋を閉じ、帳簿の余白に新しい式を書いた。
——氷蓄陣。
氷の精霊ウィスプを“祀る”形で設置し、冷気を蓄え、必要な場所へ流す。
目的は二つ。冷蔵庫倉の心臓と、冷輸路の基点。
「精霊は気まぐれだぞ」とボルドが顎髭を触る。
「だからこそ、厨房=祭壇です。温かい菓子を捧げます」
「菓子、ねえ」
「甘いものは、大抵の政治より強いです」
夜半、雪の止み間。城砦裏の凍った泉に、移動釜“ボルド一号”を引きずっていく。
ミリィが毛布にくるまれながらついてくる。「寒い……でも、香り出すんでしょ」
「そう。香りは合図。シロップ焼き林檎を作る」
「り、ん、ご……」
薪に火が入る音が、凍った空気に乾いて響く。
私は小麦粉と卵で薄い生地を作り、鉄板の上で“薄焼き”に伸ばし、林檎を薄く切って並べる。
鍋では蜂蜜を溶かし、残っていた樽底の蜜蝋を削って混ぜ、低い火で艶を出す。
蝋の香りが蜂蜜の角を丸め、雪夜に似合う落ち着いた甘さになった。
仕上げに香草を一つまみ。
湯気が立ち、泉の氷面でふわっと踊る。
「……来る」ミリィが囁く。鼻翼がわずかに震えている。
凍りついた水面に、白い霧が集まり、ひとつの光の輪が生まれた。
ころころと、鈴が鳴るみたいな音。
光の輪の中心に、小さな顔。雪の粒のような髪。目は星みたいにまたたいた。
「ウィスプ。こんばんは」
私は皿を両手で持ち、膝をついた。「貴女の庇護を求めます。北境の台所に、冷たい心臓を」
光の輪が、皿の上をくるくる回る。
ミリィがごくりと唾を飲む音が可笑しい。
ウィスプはやがて、林檎を一切れ、音もなく“さらって”いった。
舌があるのかは知らないが、うっとりという表情は世界共通だ。
「取引条件をどうぞ」と私。
ウィスプは雪片のような声で喋った。「——寒いところ、きれいなところ、あまいおまつり」
「毎月一度、甘い菓子の小さな祭を開くこと。浄水陣の維持を保証。氷を乱暴に使わない。この三つ、守れます」
「やくそく?」
「台所の約束は、国の約束です」
ウィスプは嬉しそうに輪を二重にし、私の指先に触れた。
冷たいはずなのに、痛くない。むしろ、砂糖を溶かした水みたいな優しさ。
光が指から腕へ、胸へ。胸の奥の食堂錬成の紋が、うっすらと光を受け止める。
——契約成立。
同時に、泉の氷が鳴った。
表面から“花”のような結晶が広がり、私の描いた陣の線をなぞってゆく。
氷の心臓――氷蓄陣が、北境の夜に産声を上げた。
◆
翌朝。
城下の小屋をひとつ潰して、冷蔵庫倉を組み立てる。
土間を掘り、氷蓄陣から冷気導管を這わせ、壁は樹皮と藁、隙間に灰。天井は二重に。
ウィスプが時々、天井裏を転がって冷気を落としていく。
温度はミリィの頬と鼻で測る。「ここは息が白い」「こっちは薄い白」——味覚係は嗅覚だけではない。
「ここに魚を入れる」とライナー。
「塩の代わりに氷で保存。禁輸の刃を鈍らせます」と私。
「魚はどこから?」とボルドが目を細める。
「道を敷くと言いました。氷の道です」
午前。
私は城門から東の谷へ、薄い魔法陣の粉袋を背負って出る。
粉と炭で、仮石畳化の式……ではなく、今日は仮氷路の式を引く。
雪を圧し、層にして締め、上から薄く水を撒いて凍らせる。
ウィスプがその上をすべるたび、氷はさらに硬く、滑らかになる。
「滑ったら骨が折れるぞ」とボルドがぶつぶつ言いながら、**滑走橇**を作っている。
橇に釘のような歯をつけ、下には蜜蝋を薄く塗る。
私は導線を示すため、匂い標識を点々と置いた。焦がし砂糖とハーブの袋を小さな塔にし、風下へ淡い香りを流す。
匂いは旗。雪の視界でも、嗅覚は道を忘れない。
午後。
谷の向こうの凍結河川まで、仮氷路一・八里。
川面では、小舟の代わりに氷穴から網を出す人影が揺れていた。
村の漁師たち。禁輸通達で塩が減り、捕っても腐らせるからと、最近は網が出ていなかった人たちだ。
「冷蔵庫倉ができました。三日は魚を保たせます。今日の漁、二割増しで買い上げます」
私は声を張り、食券の束を見せた。
「二割は食券払い?」「屋台で使えるやつだろ」「昨日の粥、うまかった」
ざわめきの先に、ひとり年嵩の漁師が進み出る。「塩がなきゃ運べねぇ」
「運ぶのは氷です」
私は氷蓄陣から冷気を吸い出す小さな箱を見せた。ボルドが徹夜で作ってくれた保冷箱だ。
箱に手を入れた漁師が驚いて手を引っ込める。「冷てぇ!」
「魚を生きた味のまま城へ。明日の市場は“初物祭”。禁輸の朝に、私たちは魚を食べます」
言葉より先に、網が水に潜った。
冬の川は静かに見えて、底では群れが動く。
夕刻、橇に積んだ鱒百二十尾。保冷箱に入れ、氷路を一時間四十分で戻る。
城門前、人が集まり、指をさし、唾を飲む。
ミリィが味を見て、大きく頷いた。「生きてる匂い」
「じゃあ、今日の飯テロです」と私。
城下広場に簡易の屋台を二十並べ、炙り鱒の薄塩を焼く。
塩は貴重だ。だから、塩水霧を用意した。
水に溶かした塩を霧状にして網の上で吹き、表面だけを軽く締める。
焼き面に蜜蝋を一滴。香りが跳ね、炭が鳴る。
油の音、皮の弾ける音。
肉がほぐれ、湯気に冬の川の光が差す。
——禁輸の掲示板の下で、魚が焼ける匂いがする。
この矛盾こそが“ざまぁ”の真骨頂だ。
「通達はどうした」と人々の視線が交わる。
「通達は紙です。氷は法です」と私。
ライナーが隣で口元を歪める。「法のほうは、私が締める」
彼は衛兵を連れ、広場の端で仮条例の公布を始めた。
——『冷蔵庫倉と氷路の保護令』
内容は簡単。破壊・妨害は兵站破壊罪、最高刑は食券剥奪+市外追放。
法を重たくすると反感を買う。だからまず腹に響く刑から始める。
“食べられないこと”は、誰にでも怖い。
焼けた鱒が次々に皿へ滑り、初物祭の歓声が広がる。
私は屋台の一角で、価格掲示板を立てた。
——本日の相場:鱒一切=食券三枚/屋台出店枠=抽選(衛生講習受講者優先)
掲示の端に、子どもたちが落書きを始める。魚の絵、星、ウィスプの丸い顔。
可視化は、秩序の最初の一歩だ。
◆
夜。
帳簿を開く。
本日配膳:五一二/臨時雇用:一五名/魚入荷:鱒一二〇/冷蔵庫倉稼働:安定/食券発行:四八〇/回収:三一五。
収支は、まだ赤だ。けれど、赤は投資だ。
ウィスプが窓辺でくるくる回り、林檎の欠片をねだる。
ミリィは“味覚検札”の札を磨き、「今日の魚は、途中で二尾、匂いが違った。箱の角が甘かったから、多分蜂蜜が垂れて、そこだけ傷むのが早かった」と報告した。
「次回から角に灰の布を挟もう。湿気を食う」とボルド。
「お願いします。現場の味が、制度を育てます」
そこへ伝令。
「セレス殿、王都から監察官が来るそうです。『氷路は王命に背く運搬路だ』と」
ライナーが短く息を吐く。「早いな」
「想定内です。台所裁判の予行演習をしましょう」
私は机から味覚検札の手順書を取り出し、表紙に印を押す。
“味覚係の判定は一次法。営業停止は味によってのみ行う”。
王都の監察は、文で来る。私たちは味で返す。
外は静かに雪が降っていた。
雪の音はしない。ただ、白いものが世界の余白を増やす。
余白が増えると、台所の声が遠くまで届く。
私は灯りを消し、耳を澄ます。
——湯気の音。氷の音。腹が鳴る音。
それら全部が、国家の鼓動になる。
◆
深夜。
城の裏門の影が、わずかに動いた。
ミリィが寝返りを打ち、ふと目を開け、窓の外の匂いに首をかしげる。
「……苦い」
彼女は私の寝台を叩いた。「セレス、粉が焦げる匂い。違う、焦がした小麦じゃない。……油……」
私は跳ね起き、外套を羽織る。
冷蔵庫倉へ走ると、板壁の隙間に黒い瓶が差し込まれていた。
瓶の口から布。布に油。火打ち石の粉。
——放火だ。
「水!」と叫ぶと、ウィスプが飛び出してきて、布の先をぺろりと舐めた。
ぼふ、と白い霧が広がり、火種は霜に変わる。
私は瓶を抜き、手順通り証拠封印の符を貼る。
匂い標識のハーブと混ぜると、瓶の周りに匂いの輪が立ち上がった。
輪の持ち主に触れた者は、明日、鼻に染み付く。
私は静かに言う。「——明日、台所裁判です」
ミリィがこくりと頷いた。
「味は、嘘をつかない」
――――
次回予告:第3話「塩と穀と命」
禁輸に対抗する塩路の確保。王都監察官の“紙の法”に対し、味覚検札と厨房条例で“台所の法”をぶつける。放火犯には“匂いの輪”がすでに刻印済み。数字目標:配膳六五〇/魚入荷一八〇/屋台講習受講者三〇。