第1話「粥は宣言」
断罪の鐘が止む頃には、私はもう——台所で辺境を回す覚悟を決めていた。
王都の大広間。婚約は破棄、爵位は停止、持ち出し許可は一冊のレシピ帳のみ。
それで充分だ。法より先に必要なのは、腹を満たす匙の数であることを私は知っている。
氷風の北境へ。
城門をくぐると、空の倉と、痩せた家畜の肋骨、井戸の前の長い列が出迎えた。
辺境伯代理のライナーが肩をすくめる。
「歓迎できる用意はない。薪も塩も底だ」
「では、厨房をください。たった半日でいい」
彼の目がわずかに細くなる。「何を作る」
「宣言です。粥という名前の」
城砦の隅に残されていた石竈。煤だらけの鍋を磨き、レシピ帳を開く。
私の固有スキル——〈食堂錬成〉。ページの余白に描いた“式”を、現場に敷く。
まずは浄水陣。井戸の脇に塩と灰、ハーブを結び、足元に薄い魔法陣を走らせる。
白く濁った水が、泡立ちを残して澄んでいく。
次に結界核としての厨房を起こす。竈の周りに四本の柱を立て、天井に蒸気を回す導管を組む。
火が爆ぜ、鍋が唸る。
最後に市場陣。竈から半径二十歩、石粉と炭で薄い輪を描き、秤と価格札——いや、今日は無料だ。札にはこう書く。
——本日の配膳:一人一杯、子どもと老は優先。
「…魔法で厨房を?」と、見物のドワーフが眉を上げる。
「厨房は国の核です。ここから市場に、倉に、道に広げます」
最初の鍋は、麦と干し根菜と骨からとった薄い出汁。
誰もが舌打ちする味だと分かっている。だから、香りだけは奪わない。
私は袋から、王都の末端倉で拾ったスパイスの欠片を取り出し、粉にして指でひとなすり。
湯気が変わる。顔を上げる鼻が増える。
行列は一時間で城壁を一周した。
配膳係に子どもを三人、力自慢に男手を四人。即席の雇用だ。
「金は?」ライナーが問う。
「今日だけは食券。紙でいい。名前を書いてもらい、印を押す。一枚=一杯、余りは明日以降の屋台で使える地域通貨にします。偽造防止は符刻印で」
「通貨だと?」
「腹が基軸の暫定通貨です。税は後回し。まずは動線を作る」
昼には一三二杯、夕刻までに三〇一杯。
配膳列の渋滞がひどくなり、私は二口目の竈を錬成した。
湯気の輪が二重になる頃、凍える風の中にひとつ、甘い匂いが混じる。
小さな影が袖を引いた。煤だらけの頬、猫のような目。
「ねぇ、それ、なに入れたの」
「スパイス。名前はまだ秘密」
「わたし、嗅げるよ。腐ってるか、とかも、だいたい分かる」
「なら、味覚係をお願いできますか」
「……いいの?」
「あなたの舌は、今日からこの国の“法”です」
女の子は胸を張り、「ミリィ!」と名乗った。
彼女の頷きひとつで、私は味覚検札の職務札を与える。王都では笑われた遊びだが、ここでは命綱だ。
夕刻。鍋が底を見せ始めたとき、粗末な商隊が城門を叩いた。
前に出たのは、王都最大アーメント商会の下請けらしい若い行商だ。
「塩と粉なら、持ってきてやった。王都価格の三倍だがな」
人々の顔に絶望が走る。
ライナーが剣に手をかけたとき、私は鍋の蓋を静かに閉じた。
「三倍——良い商売ですね。ところであなた方、蜂蜜は?」
「は、ちみつ?」
「北境の森には蜜蜂が多い。今は冬で乏しいけれど、樽底の蜜蝋は残っているはず。塩の対価に蜜蝋三樽、どうでしょう」
「蝋なんて…」と彼は鼻で笑う。「食えないだろう」
「食えますよ。今日の粥に落とせば風味が変わる。保存食にもなる。春には蜂蜜の大鍋祭を開く。あなたは“北境蜂蜜組合”の第一号特約商になれる」
行商の目が揺れ、後ろの荷車に視線が泳ぐ。
私は続けた。「それとも、王都へ戻ってこう言います? 『辺境は、三倍価格でも塩を買う愚か者です』と。次は四倍をふっかけてくる。南の村は今日、凍える」
沈黙。
彼は唇を噛み、やがて頭を下げた。「……蜜蝋三樽で手を打とう」
「ありがとうございます。食券三百枚をお渡しします。あなたの隊は城下の屋台でそれを使い、温かい粥を食べ、夜営してください。明朝、正式契約を」
小ざまぁは湯気のように目に見えないが、確かにそこに立ちのぼった。
行商は去り、塩は倉へ、湯気はさらに濃く。
その夜、簡易の帳簿を開く。
本日配膳:三〇一/臨時雇用:七名/塩入荷:二樽半/食券発行:三五〇。
数字は小さい。けれど“回っている”。
ライナーが私の横で、静かに頷いた。
「初日でここまでとは。君は料理人か、役人か」
「台所の長です。役職名は、これから作ります」
「では、明日からは冷鎖を作れ。魚が腐る前に城に入れたい」
「可能です。氷の精霊を口説きに行きましょう。温かい菓子を持って」
焚き火がはぜる。人々の頬に色が戻る。
ミリィが私の袖を引いた。「これ、味が少し変。粉の中に、苦いの混じってた」
「混入?」
「うん。でも、わかる程度」
私は彼女の鼻先に指を立て、鍋の蓋をわずかに開ける。
——香りは、正直だ。
犯人を炙り出す前に、私は検札の手順を書き、札に符を刻む。
“味は嘘をつかない。味覚係の判定は、当座の法とする。”
そのときだ。
城門の狼煙塔が赤く染まる。伝令が雪を蹴って駆け込んできた。
「王都通達! 北境への塩と穀の禁輸、ただちに実施!」
湯気が、ぴんと張り詰める。
私は鍋を見、行列を見、彼らの胃袋に約束した。
「ならば——道を、敷きます。塩路を、こちらで」
配膳より速く、制度を回せ。
台所から始まる国づくりは、いま、禁輸の合図で動員へと切り替わった。
――――
次回予告:第2話「氷は法」
氷の精霊ウィスプを“温菓子外交”で口説き、**冷鎖**の心臓を手に入れる。禁輸に対し“道を敷く”最初の一手。配膳数、一日五百杯を狙う。