第1話 記憶喪失の英雄
「楽にしてくれていいよ。これは他でもない君の退院祝いなのだから」
その声は応接室の空気を丸ごと塗り替えるように響いた。
重厚な革張りの椅子、黒光りする長机、壁に掛けられた巨大な抽象画――どこもかしこも場違いで息苦しいほどの豪奢さだった。そこに似つかわしい人物として彼女は当然のように座していた。
黒髪は艶やかで眉のあたりで切り揃えられている。長く垂れる髪の内側には鮮やかな青が差し込まれており、それが彼女の瞳の色と不思議な調和を見せていた。どこか絵画のような美しさがあり、同時に威圧感も放っている。
彼女はフレデリーク・マリ――フェノム・システムズの代表。
――よりによって、どうして自分が!
少年――そんな大物と同じ机を囲むなど平社員の身分では想像すらしなかった。エリは入社したての新人であり、仮に定年退職まで勤め上げたとしても一度も顔を拝めないまま終わっていた可能性が高いだろう。そんな人物に退院を祝われ、身に覚えのない功績を称えられている。
エリは視線を落とし、指先を何度も組み替えた。膝が触れ合うほど近いはずなのにまるで手を伸ばしても届かない場所に相手がいるように感じる。
「あの……僕は本当に悪いことをして記憶を消されたわけじゃないんですよね……」
エリは自分の声が場に似合わず軽く響いてしまい、思わず肩をすくめる。
「僕は本当に何も覚えてないんですよ。退勤後に忘れ物に気付いて仕事場に戻ったら……目が覚めた時には病院のベッドの上だったんですよ。だから……僕が会社を救ったとか言われてもよく分からないんです」
言いながら自分で情けなくなる。けれど口にせずにはいられなかった。
フレデリークは影の落ちる長い睫毛の奥から微笑みを覗かせた。その表情はからかっているようであり、同時に「全てを知っている」という余裕の色を含んでいる。
――状況を整理しなければ。
エリはほんの昨夜、病院のベッドで目を覚ましたばかりだ。
消毒液の匂いが鼻を刺し、天井の白が目に痛かった。最初に聞こえたのは誰かの歓声。次いで足音、医師や看護師が駆け寄ってきて同僚らしき人影が涙ぐむのが見えた。だが当の本人にはなぜ自分が入院しているのか一切心当たりがない。
そんなエリに「記憶の消去措置によるものです」と医師は静かに告げた。
……この社会において記憶の消去・改竄は珍しいことではない。
表向きには心的外傷の除去――戦争や事故で心を病んだ者を救うための医療行為とされている。だが実際には「国家や企業にとって不都合な事実を知った人間」からその記憶を切り取る用途のほうがはるかに多い。自分もまた後者に該当するという。
国の役人が立ち会い、記憶の消去は正式に行われた。
――そこまでは理解できる。自分もきっと何かを偶然知ってしまったのだろう。
だが問題は目覚めてからの扱いだ。
エリは知らぬ間にテロ事件の唯一の生存者であり――「英雄」として祭り上げられていた。
「事件当日、君は『変異体』の跋扈する本社ビルで生き残った。変異体を解き放った精神異常者も、あの混乱も、すべて君の目の前で終息したのだろう。こうしてただ一人、君だけが戻ってきたのだから」
フレデリークの声は淡々としていた。
こちらを英雄と称える調子ではない。ただ事実を告げるのみだ。
だというのに。その「事実」は周囲の人々にとって奇跡にも等しく響いていた。
「ですから、僕は戦ったわけじゃありません。ただ……生き残っただけです。気がついたら病院にいて……僕は何も見ていないですし、本当に知らないんです」
エリの言葉は情けなく響くが、それが紛れもない本音だった。
――軽い荷物ですら持ち上げられない自分がテロリストや変異体と渡り合えるはずがない。英雄?そんなものは虚飾にすぎない。
フレデリークは小さく首を振った。
「戦ったかどうかは問題ではないよ。君は生き残っただろう。それが全てだ。我々はその一点に価値を見出している」
返す言葉が見つからなかった。
エリは反論すればするほど自分の声が空回りするだけだと直感した。
窓の外に視線を逃がす。ビル群は鉛色の空の下に沈み、遠くには廃墟化した区域が黒い影のように広がっていた。
――数十年前から続く星間戦争。
異星人が放つ兵器は人間を原因不明の「不審死」に追いやるか、あるいは異形へと変貌させる。それらは「変異体」と呼ばれた。
変異体に共通する姿はなく、強さも能力もまるで統一性がない。資料の中には「彼らは人の歪んだ心が具現化した存在だ」と書かれているものすらある。
フェノム・システムズは、その異星兵器や変異体の除染・研究を請け負う企業だ。
本社ビルにサンプルがいても不思議はない。
――だが、その中で「自分が生存できた」という話はどう考えても荒唐無稽だ。
「……記憶が無い以上どうしていいか……何を喜んでいいのか分からなくて……」
エリは小声で声を捻り出すようにして呟く。
するとフレデリークはすっと立ち上がった。
長い指がテーブルの上を滑り、薄いファイルをこちらへと押しやる。
「ならば、このニュースを喜んでくれたまえ」
ファイルの表紙には「人事異動通知」と記されている。
表紙をめくると整然とした文字が並んでいた。
そこに書かれていた部署名を見てエリは思わず眉を寄せる。
「だ……代行チーム?」
企業においては見慣れない言葉だ。
星間戦争の後、国は変異体絡みの異常現象――「特殊事件」が行政機関だけでは対処しきれなくなり、民間にこれらの処理を求めた。そこで栄えたのが代行業だ。依頼者に代わり、家出人捜索から殺人まで何でもやるという。
言葉通りの意味ならば、企業の仕事ではないだろう。
少なくとも配属希望を出したこともなければ社内の掲示板で見かけた覚えもない。研究課や回収課といった分かりやすい部門名に比べ、抽象的で掴みどころがない。
「そうだ。君にふさわしい職場を用意したよ」
フレデリークはためらいなく断言した。
「各地を巡り、変異体から『願望』を回収する。それが君の新しい任務だ」
「が……願望?」
言葉の意味を測りかね、エリは反射的に問い返していた。
「人間は多くを望むからね。叶えられなかった約束、果たされぬ想い。異星兵器に蝕まれた者が変異体に成り果てたとき、その願いは歪んだ形で世界に残滓を刻む。それが願望だ」
フレデリークの声は講義のように落ち着いていた。
「願望は都市を汚染し、人の心を狂わせる。放置すれば新たな変異体の種にもなりうる。我々がそれを回収することで、均衡はわずかに保たれる。それが代行チームの役割だ」
淡々と語られる説明は理屈の上では理解できた。だが、実感を伴わない。
変異体が恐ろしい存在であることは知っている。だが「願望を回収する」とは一体どんな作業なのか、想像が追いつかなかった。
――そもそも退院早々に異動を言い渡されるなんて。
「待ってください。僕はそんな特別な力なんて……それに僕がやる理由なんて、どこにも……」
エリは言葉を濁しながら訴える。
「君にしかできないことだよ」
フレデリークは彼の言葉を切るように告げた。
青い瞳が、まっすぐにエリを射抜く。
「証拠に……あの事件の後からだ。願望を物質として回収できるようになったのは。今までは「願望」は目に見えず、手に取れるような代物ではなかったんだよ」
胸が凍るような感覚に襲われた。
――彼女は知っている。自分ですら気づいていない「何か」を。
「……僕が、今の状態にしたって言うんですか?」
「分からない。だが、あの空間で生き残ったのだ。君には特別な「何か」……それこそ兵器に対する耐性のようなものがあるのではないか?」
フレデリークは机に片手を置き、身を少し乗り出した。
「君は選ばれたのだよ」
言い返そうとしても、喉に言葉が貼りついて出てこなかった。
自分は戦った覚えもなければ、人を救った記憶もない。
ただ目を覚ましたら英雄扱いされていた。そんな自分に、なぜ。
「これからについてだけど何も心配は要らないよ」
フレデリークは再び背を離し、椅子に深く腰を下ろす。
「君には案内役を付けるから。経験豊富で、君の力を見極め、導く者をね」
安心させるように言いながらも、彼女の声音には退路を許さぬ強さがあった。
エリは唇を噛む。英雄と呼ばれること自体が重荷で、願望だの代行だのという任務はなおさらだ。だがこの場で拒めば自分はどんな扱いを受けるのだろう。
「……僕に選択肢はあるのでしょうか?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けなく響いた。
フレデリークは一瞬だけ口元を緩めた。
「選択肢は常にあるさ。ただし君がどちらを選ぼうと我々は英雄を必要としている。ならば最善を尽くすべきだろう?」
議論の余地はなかった。
フレデリークの言葉は、柔らかく響くにもかかわらず、決定事項を告げる鐘の音のように揺るぎなかった。
長い沈黙の後、エリは項垂れるしかなかった。
フレデリークは椅子から立ち上がると、コートの裾を払って扉の方へ歩く。
その背に、青いインナーカラーがひらりと揺れた。
「後のことは彼女に聞くといい」
そう告げると同時にノックの音が響く。扉が開き、規則正しい足音が床を叩いた。
現れたのは一人の黒髪の女性社員だった。制服の上着を肩から無造作に羽織り、手には分厚いファイルを抱えている。目元には薄い疲労の影が浮かんでいたが、その眼差しは鋭く、こちらを値踏みするように射抜いた。
フレデリークは彼女とすれ違いざまにわずかに微笑み、応接室を後にした。
――残されたのは、エリと彼女だけ。
しばし重苦しい沈黙が流れる。やがて女性は、ため息混じりに口を開いた。
「……貴方が、新入り?」
声音には、隠しきれない倦怠と試すような色があった。
エリは答えられずただ小さく頷くしかなかった。
こうして自分が英雄と呼ばれる理由もわからぬまま――。
彼の新たな職場「代行チーム」での日々が、静かに幕を開けた。




