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プロローグ

 息が荒い。喉は焼けるように乾き、足はもう鉛のように重かった。

 それでも彼は階段を上り続けた。

 ――何度死んだか、もう数えるのをやめていた。


 少年――エリはビルの最上階に向かっていた。

 先日、エリは入社早々に職場で大地震に見舞われた。

 ……災害は地震のみに留まらず、同僚達と共に閉じ込められたはずの本社ビルは突如として怪物の巣窟に変貌した。廊下は迷宮のように歪み、上層へ進むごとに変異体の数は増し、牙と爪と絶叫が容赦なく彼を貫いた。

 しかし殺されても殺されても、気付けば彼はまた一階下の踊り場に立っていた。

 血を吐き、涙を流し、それでも再び階段を踏みしめる。


 なぜ自分だけが蘇るのか――その理由は分からない。

 ただ確かに分かるのは登るたびに胸の奥に「何か」が溜まっていく感覚だった。

 それは他人の叫び、願い、祈り。

 死に際に聞いた声が、焼き付くようにエリの中で重なっていく。


 ――どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 ――家に帰りたい。早く家族の顔が見たい。

 ――こんなところで死にたくない。


 それらは夢とも幻ともつかぬ形で心臓を圧迫し、熱となってエリの内側を焦がした。彼はそれを「願望」と呼ぶしかなかった。

 自分のものではない、他人の思念の残滓。

 それが幾層にも重なり、彼をここまで押し上げてきた。


 最上階の扉が見える。

 エリは震える手で取っ手に触れた。

 血と汗で濡れた掌に、冷たい金属が食い込む。

 息を整える暇もなく、扉を押し開けた。


 ――そこにいたのは、一人の女性だった。

 白衣を纏い、黒髪を背に流す。

 人間のように見えるが、どこか異質な雰囲気をまとっている。

 光の届かぬ室内で、彼女だけが淡く発光しているように感じられる。

 視線が合った瞬間、エリの心臓が大きく跳ねた。


「……ここまでよく登ってきたね」


 女は静かに微笑んだ。

 声は澄んでいて、しかし耳の奥で反響するように響いた。


「貴方は何度も死んだ。けれどその度に立ち上がり、最後まで諦めなかった。親友を止めてくれてありがとう」


「……貴女は誰ですか……?さっきの……この事件を起こしたテロリストの仲間ってわけじゃないんですよね……?」


 息を切らせながらエリは問い返す。


「違うよ。貴方の目にどう映っているかは分からないけれど……彼にはもう私の姿も見えていないと思うから」


 女性はゆるやかに歩み寄り、手を胸に当てた。


「君は今、このビルに溜まった願望を抱えているよね」


 言葉に、エリの呼吸が止まった。

 彼女の口から「願望」という語が出るとは思わなかった。

 自分が感じてきたこの熱、この重さを正確に言い当てられた気がした。


「どうしてそんなことを……」

「私はもう人ではないから願うことはできないの。願望の在処を知り、それを見届けることはできても。自分自身が何かを願うことは許されなかった」


 女の瞳は黒く底が見えず、どこか哀しげだった。


「私が願うべきことは一つだけ。――人が、不審死から解放され、最期を人らしく迎えられる世界。でも、それを願うことは私にはできない」


 エリは唇を噛んだ。

 彼女の言葉が、嘘には思えなかった。

 胸の奥に溜まった無数の声が、ざわりと揺れる。


「……僕にどうしろって言うんですか」

「思うまま、願いを叶えればいい」


 循は一歩近づき、囁くように言った。


「ここに集まった人々の願望を貴方が解き放つの。それはきっと貴方自身の願いとも重なるはずだから。これだけの願いがあれば何だってできるわ」


 エリは拳を握った。

 頭の中に蘇るのは、幾度も見た惨状。

 何の理由もなく人は死に、変異体に引き裂かれ、命が弄ばれる。

 こんな世界に、どんな意味があるというのか。

 胸の奥が灼ける。言葉は叫びとなって迸った。


「――こんな理不尽な世界、変えてやる!」


  ――その瞬間だった。

 最上階の床が震え、板の隙間から低いうなりが漏れ出した。

 空気の密度が一瞬で変わり、胸の奥を押し潰すような重圧が走る。

 耳鳴りが高まり、壁の縦じま模様がゆっくりと波打っていく。光だけではない何かが、建物の骨を伝って解放されていった。


「音が、音が聞こえる……」


 まず届いたのは音だった。

 遠くの階から、人の声が互いに混ざり合い、音色を変えて積み重なる——子どもの笑い、老婆のすすり泣き、叫びにも似た懇願の合唱が、振動となってエリの歯茎に伝わる。声は一つずつ輪郭を取り戻し、やがて単独の言葉として結晶する。

 ひび割れた壁面が、まるで古いレコードの針のようにその言葉を刻みつけ、空間に「記憶」の刻印を残していった。


 次に、匂いが戻ってきた。

 焦げた電線の匂い、湿った紙の匂い、誰かが遠い日常に置き忘れた食卓の匂い――それらが階段を逆流するように上がり、エリの喉を刺激した。匂いは単なる過去の残像ではなく、欲求の重さを身体に伝える媒体になっていた。その混じり合いは鼻腔に広がり、胸の中で固まり、手に触れられるほどに濃密になっていく。


 そして手触りだ。

 無形のはずの想いが、湿った布のようにエリの掌にまとわりついた。

 冷たくねっとりとしたそれは指の間で絡み合い、やがて細い糸の束となって彼の指先から床へと注がれた。糸は床板に吸い込まれると同時に、コンクリートのひびを埋め、剥がれかけた塗装を新たに織り直すように動く。

 建物の破損が逆回転するかのように修復され、空間が一呼吸で整っていく。


 目に見える変化も起きた。

 割れた窓枠から吹き込んでいた冷たい風が止み、代わりに小さな光源が次々に現れたのではなく、壁の裂け目から「小さな場面」が浮かび上がる。居間のソファ、台所の鍋、子どものおもちゃ——だがそれらは幻影ではなく、触れられる実体に近く、指先が触れると微かに温度が返ってきた。いくつかの断片はここで死んでいった者たちの最後の望みを象ったものに見えた。


 体温が戻る。

 凍りついていた時間が溶け、エリの肌にやわらかな汗がにじむ。

 呪文のようだったざわめきが収束する頃には床に撒かれた無数の「願いの糸」は静かに消え、代わりに薄い膜のような余韻だけが残った。

 

 ――循はその光景を見上げ、わずかに微笑んだ。


「……これで貴方は願いを叶えた。世界は『願望』を形にする仕組みを得たんだよ。誰もが願いに直接、触れることが出来るようになったの」


 光はやがて静まり、室内は再び闇に包まれた。

 エリの膝が折れ、床に崩れ落ちる。

 その余韻はすぐに消え、残ったのは深い静寂と「世界」がほんの少し変わってしまったという確かな感触だけだった。


「待って……僕は……とんでもないことをしてしまったんでしょうか……」

「大丈夫だよ。間もなく貴方の記憶は消去されるから」


 ――何も苦しむことはないの。

 彼女は膝をつき、倒れたエリの額にそっと手を置いた。


「国によっても、私によっても。何も心配は要らないよ。君のお陰で世界は救われたのだから。悪いようにはならないでしょう」


 ――いつかまた会いましょうね。

 瞼が重くなる。最後に見たのは、光を宿した彼女の瞳だった。

 こうしてエリの意識は闇に沈んだ。

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