悪役令嬢は、浮気王子をお断りします!
王都にある由緒正しき貴族サロンのテラス席。
陽の光が緩やかにレースのカーテンを透かし、白磁のティーカップに反射してきらめいている。
華やかなドレスに身を包んだ令嬢たちが、スコーンを口に運びながら、甘く毒を含んだ言葉を交わしていた。
「聞きました? 第一皇子殿下と聖女マリア様、最近ずいぶん親しいそうですわ」
「まぁ……まだご婚約中の身でありながら……?」
「それも、スカーレット様を差し置いて聖女様に夢中なんて……さすが聖なる月の加護を受けた方ですわね。男性たちも放っておかないわ」
まるで獲物を嬲るような笑い声が咲き乱れる中、
その輪からやや離れた席で、ひとり紅茶を口にしている少女がいた。
オルビア・アリア・スカーレット。
彼女は持ち前の品のよい所作でカップを傾けながら、噂話を耳にして、ふっと鼻で笑った。
(なるほどね、セシル王子。婚約者がいるのに、別の女に夢中になるなんて……)
(だだの浮気男じゃないの。誰よ、前世で彼を白馬の王子様とか言ったの。)
彼女の眼差しは、どこまでも冷ややかだった。
だが、その奥にあるのは、悔しさでも嫉妬でもない。
ただただ――呆れ。
(……いいわ。むしろ好都合。あんな男、こっちから願い下げよ)
彼女は無意識に唇の端を吊り上げた。
(のしをつけてマリア様に献上して差し上げましょう)
ティーカップをソーサーに戻す音が、妙に爽快だった。
(そもそも、浮気男のために私の命を捧げる気なんて、さらさらないもの)
その目には、覚悟とも呼べる光が宿っていた。
ただの貴族令嬢ではない、“生き延びようとする者”のまなざしだった。
***
王宮の庭園の一角。
金の髪をふわりと揺らしながら、スーザン・サラン・マリアージュは柔らかな微笑みを浮かべていた。
「まぁ、スカーレット様……本当にお元気そうでよかったですわ」
そう周囲に言いながらも、彼女の視線は鋭く、その視線の先――
笑顔ひとつ浮かべずに紅茶をすするスカーレットをじっと見つめていた。
(おかしいわね……)
内心、マリアは小さく首をかしげていた。
(ゲーム内のスカーレットなら、今頃とっくに私を敵視して、周囲の令嬢に私の悪い噂を撒いているはず……なのに)
現実の彼女は、マリアを見た瞬間に全力で逃げていくし、身なりも派手さを失い、まるで“空気になろう”としている。
(それに……セシル様との噂も、完全に無視。嫉妬どころか、王子様に興味すらなさそうだった)
(まるで、物語の“流れ”を知っていて、それを避けているかのような……)
マリアの指先が、静かにティーカップの縁をなぞる。
(……まさか、スカーレット。あなたも転生者……?)
脳裏に浮かぶ、ありえないはずの仮説。
だが、あのあからさまな逃走劇。地味に徹し、断罪を恐れるような挙動。
そのどれもが、“運命を変えようとしている”意志に見えて仕方がなかった。
(ふふ……でもね、スカーレットさん)
マリアは唇に笑みを浮かべながら、周囲の令嬢たちに視線を巡らせる。
セシル王子がこちらを見て微笑み、他の令嬢たちが憧れの眼差しを向けてくる。
(私は“ヒロイン”であり、主人公なの。この物語の“中心”)
(あなたが何をどう足掻こうと、私がこの世界で愛される存在であることは変わらない)
(だって私は……“スーザン・サラン・マリアージュ”に転生したのよ)
彼女は再び、柔らかな笑みを浮かべ、まるで聖女のように周囲へ微笑みかける。
(可憐で、健気で、誰からも愛される聖女。それが私の“役”――)
(……そしてその役を演じ切る限り、誰も私を疑わない)
だが、胸の奥には冷たい優越感が確かにあった。
(あなたが何をしようと無駄よ)
(だってあなたは“可哀想な悪役令嬢”。誰からも愛されずに、断罪され、死んでいくだけの孤独な存在)
(どれだけ足掻いても――この物語の“主人公”にはなれない)
ティーカップを静かに口元に運びながら、微笑の裏で心の中で囁く。
(あなたには、悪役令嬢としての役を“最後まで”しっかり果たしてもらうわ)
(そして――ちゃんと物語通りに、死んでもらわなきゃ。じゃないと……)
(このゲーム、面白くなくなっちゃうもの)
****
控えとして従者たちに紛れながら、スカーレットの姿を見つめていた男がいた。
騎士見習い、カリム・アルベール・アーサー。
彼は、令嬢たちの話に耳を傾けていた。
最初は興味もなかった。けれど――その名が出た瞬間、全身に血が昇った。
「……セシル王子と、マリア様……? 馬鹿な……!」
心臓がひときわ強く打った。
(……今まで、浮いた噂ひとつなかったじゃないか。ずっとスカーレット一筋だと、そう思っていたのに)
(なのに、なんだこれは……とんだクソ王子じゃないか!)
拳が震える。無意識に鞘にかけた手が、怒りを物語っていた。
その目は自然と、サロンの片隅に座るスカーレットをとらえる。
彼女は……笑っていた。まるで何も気にしていないかのように。
(平気そうにしてるけど……本当は傷ついてるんじゃないのか?)
だが、彼はその目に、決して揺らがない確信を見た。
(違う。あいつは、そんなヤワな女じゃない)
思い出す。
子供の頃、弱くて泣き虫だった自分を、誰よりも毅然とした態度で守ってくれた“スカーレット”。
――強くて、我儘で、そして誇り高い。
(……でも、もし。もしあの男に捨てられるようなことがあるなら)
アーサーの拳が、ぎゅっと締められる。
(その時こそ……俺が、お前に本当の気持ちを伝える)
(ずっとお前が好きだったって、ちゃんと……)
彼の視線は決して、スカーレットから外れることはなかった。
美しく、気高く、たったひとりで未来と向き合おうとする彼女の姿に、強く誓う。
(守るって、今は言えなくても……きっと、あの時が来たら)
その心の奥で、小さく火が灯った。
アーサーの瞳にもまた、覚悟の光が宿っていた。