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少年の大志

 おぼろにゆがんだ視界いっぱいに、淡い桃色が広がっていた。凝視するディンの顔に、一度大きく風を吹きつけ離れていく。遠ざかってようやく、ブリリアントの鼻だったのかと認識できた。吹きつけた風は安堵の息だったのかもしれない。


 仔ブタの背後に炎が見えた。いつのまに日が暮れたのかだろうか。


「体、つらくない?」


 記憶をさかのぼる間もなく、ブリリアントにかわってルーシェが曇った視界を塞ぎ、ディンはまばたいた。心配げな声音で問われた言葉の意味がわからなかったのだ。


 まばたきした拍子にすうっと、生ぬるい感触が目尻を伝い、視界が晴れる。それは耳の上辺りを抜けて、髪の中へと潜っていく。軌跡を親指の腹でたどられて、ディンは初めて自分が泣いていたことに気がついた。


「ほら、水」


 半身を抱き起こされるかたちで、水筒に口をつける。些細な動きにも軋む体に、ディンは顔をしかめた。


「あっちこっち痛い」


「斜面を滑落したから」


「あ……あ、そうか。そうだった」


「半分は熱のせいだね。魔物にやられた傷から発熱したんだろう」


「ちゃんと手当てしたのに……」


「炎症を起こしてるんだ」


「炎症?」


 ルーシェはディンを寝かせながら、呆れたように息をつく。が、すぐに表情を和ませた。


「ったく、おまえって。なんかしっかりしてるんだか、そうでないのか、ホントわかんないね。大人びた口を利くかと思えば、日も暮れそうなのに、平気で山道歩いてくし」


「やっぱり夜山道を歩くのはまずかったのか」


「――……おまえね」


 ルーシェはさっきよりも大きく息をつく。だが、ふと決まりが悪そうな様子でこめかみ辺りをかくと、ディンから目を逸らした。


「悪かったよ。熱があるの、気づいてやれなくて。おまえ、普通にしゃべってたから。でも、かなりつらかっただろ?」


 ディンは思わず笑ってしまいそうになって、笑いをかみ殺す。ぷいとそっぽを向く仕草も、小声でぼそぼそとしゃべる様子も、自分などより彼女のほうがよほど子どもみたいだ。これは彼女なりの謝罪なのだろう。


「全部、慣れない山道のせいだと思ってた」


 素直に思ったことを口にするとルーシェは、寝てろと髪をかき混ぜるようにしてディンの頭をなでた。


 炎が周囲を暖かく照らしだしていた。炎のはぜる音に、ふくろうの低い鳴き声がまじる。魔物が現れて逃げだした動物や虫たちが、森に戻ってきていのだろう。


 傍らで赤々と燃える炎を見つめるルーシェは、山道で見せた激情が嘘だったかのようだ。物憂い感じではあるが表情は穏やかだ。一体なにが彼女をあれほど怒らせたのか、考えてみるが想像もつかない。


「なにをあんなに……怒ってたんだ?」


 山道では答えてくれなかった問いを、今なら教えてくれるだろうか。ゆらゆらと揺れる炎に照らされた繊細な横顔を、ディンは自分の外套にくるまって横になったまま見つめる。ディンの視線に、ルーシェは肩越しに目を向たが、すぐ炎に視線を戻した。


「わたしは魔物だよ。別に他の魔物に仲間意識があるわけでもないけどね、それでも自分たちを滅ぼすっていってる人間を前に、寛大でいろって?」


 ルーシェを挟み、ディンとは反対側で寝そべっているブリリアントの背をなでながら、彼女は答える。子どもなど口先一つでだませると思っているのか、真偽を判断する力などないとでも信じているのか、おとなはすぐに誤魔化しを口にする。しかしおとなよりも子どものほうがずっと、嘘には敏感だ。


「だったら何故助けてくれたんだ?」


「だからブヒコさんが……」


「そうじゃなく、今のことだ。斜面を落ちて、熱があって、助けず放っておけば死んだかもしれない」


 じっと見あげる。本意をただす眼差しに、目だけで振り返ったルーシェは肩を竦めた。


「子どもがね、実力を顧みず無茶なことしようとしてたら、怒ってでもとめるもんなんだよ、おとなってのは。両親にだって怒られなかった? ――もしかしてあの一行の中に?」


 その返事にしても、はぐらかそうとしているだけだとしか思えない。だったら答えたくないのだろう。そう見切りをつけ、ディンはルーシェの言葉に頭を振った。


「両親なら五年前、魔物にやられて死んだ」


「そっ……か。他に血縁がなくて神殿に?」


 神殿では、孤児が成人するまで面倒を見てくれる。働き口を見つけて出ていく者もいるが、魔物に親を殺された子どもは、そのまま神官になる確率が高い。


「いや。俺の場合は両親も神官で、祖父もまた神官で、こっちは健在だ。まあジイさまは怒ってはいたが、ジイさまの場合は別に、俺を心配しているから怒っていたわけでもないから」


 夢で聞いた祖父の声を思い返す。逆らうことを許さない、厳しい声。夢の言葉は、現実によくいわれていたことだ。けれど現実ではあれほどの力を持っていなかった。それはディンがまだ、自分の無力さを本当の意味で知る前だったからかもしれない。


「ジイさまに、今のように魔物が出現したら駆けつけて倒す対症療法でなく、もっと根本的な解決方法を探すべきだと進言した。だが、子どものくせにわかったふうなことを言うなと一喝されて、相手にしてもらえなかった」


「だから自分ひとりでどうにかしようって?」


 ルーシェは呆れ半分困惑半分の表情で、ディンを見る。


「でもね、おまえはまだ子どもで、いろいろ学ぶべきことも多くて、体もできあががってない。もう少し大きくなるのを待ってから出直したほうがいい」


「ひとりじゃない。同じ考えの者は総本山にもいる」


 ただ、魔物の王のことはさすがにその者たちの間でも、否定派のほうが多い。存在そのものが疑問視されているからだ。昔から噂はあるが、誰も本物を見た者はいないのだ。


「それに大きくなったらひとりで魔物を倒せるようになるのか? そうでないのなら、今でも未来でも違いはない。だが今行動しなければ、犠牲者は増えるだけだ」


「ひとりで魔物を倒せないとわかっているなら、自分がやろうとしていることがどれだけ無謀か、わかるだろうに……」


「自分に力がないことはわかっている。志半ばで死ぬかもしれないが、それでも構わない。俺ひとりではなにもできない。だがなにかしたい。ただ俺の言葉は子どもだというだけで届かない――聞こうとしない。だから俺は行動するんだ。俺の言葉を聞き、行動を見て、考えを変えてくれるひとがいるはずだ。そうして水面を揺らし、大きな流れになって世界を動かすんだ。俺は水面を揺らす、最初の一雫になりたい」


 言い終えた途端、ぞくりと背筋に戦慄が走った。


 ルーシェがじっと見据えていた。まばたくこともなく向けられる視線に、ディンは自分が憎まれているのだろうかと思った。


 睨まれているわけではない。ただ感情の抜け落ちた紫色の目に、全身鳥肌が立つ。背筋が凍りついて、視線を逸らすことさえかなわない。


 熊の姿をした魔物と対峙したときのことが、脳裏に返る。たとえ普段どれほどその目以外には、彼女が本来の性を感じさせなくても、彼女もまた魔物なのだ。


 何故なのか。山道でも、彼女はいきなり怒りだした。自分のなにが、ルーシェをそこまで刺激するのだろうか。胸の中でどれだけ疑問符を重ねたかディン自身わからなくなったころ、ふっと、ルーシェが目を逸らした。


「……夜明けまでにはまだ時間がある。寝たほうがいい」


 抑揚を欠く声は、それ以上の交流をこばんでいた。ディンがいくら見つめても、その晩、繊細な横顔が振り返ることは決してなかった。

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