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仔ブタを連れた魔物

 年輪を重ねた太い幹が、折り重なって倒れていた。そこから普段は臨むことのない太陽がまだらに照らしだす光景は、目を背けずにはいられなかった。


 苔むした幹やシダの葉に散った血が、目に鮮烈だ。おびただしい量の血の中に、人間と馬の体が、バラバラに散らばっていた。癇癪を起こした子どもが、人形たちの手足をもいでは投げ捨てたかのようなありさまだ。


 空気が張りつめる。風さえもが息をひそめ、そよとも動かない。


 だが、目の前の光景に心を痛める余裕は、今の少年にはない。


 腰を抜かしたように座りこんでいる少年は、一〇を越えたくらいだろうか。くせのある黒髪に、澄んだ夜空の色の瞳の、太くまっすぐな眉がいかにも意志の強さを思わせる。名をディンという。


 ディンはじっと一ヶ所を見つめあげる。


 シダや苔の緑との対比で、血が一際生々しく赤かった。むせ返るような血臭とで、赤い紗幕がかかっている錯覚さえ覚える。その向こうに、小山のような巨体の熊が立ちふさがっていた。


 力強い四肢に、短い尾、針のように太く固い毛で全身をよろった獣。獰猛で、巨体からは思いもかけないほど俊敏な獣である。


 しかし、ただの熊ではない。後ろ足で立ちあがった身の丈は、普通の熊の倍はありそうだ。巨体の体当たりはたやすく木々をなぎ倒し、丸太のような腕の一振りは造作なく人馬を引き裂いた。


 すべては目が語っていた。他の生き物には決して現れることのない、鮮やかな紫の虹彩――魔物である。


 熊の怪物が息を吐くたび、大きな音とともにディンへと風が吹きつける。その間だけ、濃厚な血臭がかき消される。その息に獣の生臭いにおいがしないのが、妙な感じだった。


 だが、それこそが彼らが獣ではない、異形であるなによりもの証拠だ。


 それがいったいどんなもので、そしてどこから現れるのか、知る者はない。忽然と人里に現れ、すべてを破壊する。どんな武器も通用しない頑強な肉体を持ち、食べるでなく人間を襲い、村を壊す、破壊の申し子だ。


 浅く呼気を繰り返しながら、魔物もまたじっとディンを見つめる。


 見つめる瞳から視線を逸らしたら終わりだ。だからまばたきもせず、ときおりチカチカとまたたく光が宿る双眸を、ディンはじっと見つめ続ける。


 魔物と目があった瞬間から、体は凍りついたように動かなかった。頭の中身までが石になったみたいだ。


 呼吸さえままならない。浅い息を繰り返すので精一杯だ。なのに後ろ手に体を支える腕だけが、別の生き物になったように小刻みに痙攣する。時折大きく引きつっては、肘が砕けそうになる。そのたびにディンの背中には冷たい汗がどっとあふれた。


 まばたきできない乾いた目が、刺すように痛む。暴れ馬を胸に飼っているように鼓動が荒れ狂い、今にも胸を突き破りそうだ。どこから限界がきても不思議ではない。


 真っ先に耐えられなくなったのは、体を支えている肘だった。痙攣にかくんと、幾度めか大きく右肘が引きつる。さっきまではかろうじて持ち直せた肘が、今度は体を支えきれなかった。


 ヒヤッ、と、全身を冷える感覚が襲った。砕けた右肘から、ディンは地面へと倒れこんだ。


 視線が外れた瞬間、魔物が咆哮した。仰け反るようにして、天へ歓喜の雄叫びがほとばしる。声量に、空気がびりびりと震えた。


 魔物が発する鬼気に、心臓がわしづかまれた。鼓動が一瞬とまった気がした。


 鋭い爪をそなえた太い腕が振りあげられる。


 振りかぶられた腕を見た瞬間、頭の中を衝撃が貫いた。衝撃は、ディンがギリギリのところで守っていたタガを破壊した。


 頭の中が真っ白になった。今まで必死に押しとどめていたものが、堰を切ってあふれだした。気づくとディンは固く目をつむり、体を縮め、声の限りに叫んでいた。


 だから、何故その音が聞こえたのかと問われても、ディンにもわからない。ただ聞こえたのだ、としかいいようがなかった。


 頭の上のほうで、くしゃり、と音がした。土の上に降り積もる、堆積物を踏む音だった。


 ディンはおそるおそる目を開く。そして思わず目をしばたたいた。


 視線の先にはいたのは仔ブタだ。まだらに差しこむ光の輪のひとつに、太目の猫ほどの、薄桃色肌に真っ白な薄い被毛の生き物が、前足を揃えちょこんと座りこんでいた。


 状況は頭から飛んでいた。呆然と目の前の存在を見つめる。


 視線に気づいた仔ブタは、ちらりとディンを横目で見た。目があうと頬を赤くし、あわてたように肩越しに背後を振り返った。


 応えて白い手が伸びた。細い手は、薄桃色の小さな頭をそっとひとなでし、通りすぎる。


 華奢な後ろ姿だった。歳はたぶん一〇代をでてはいないだろう。上衣の上に高襟の腿の半ばまでを覆う上着に、鐙のついた下衣で、靴は履いておらずつま先ががむきだしだった。格好自体は男のものだが、体つきは明らかに男のものではない。


 しかし、女というには肉づきが薄い。手足はすらりと伸び、肩で揺れる細い銀の髪が、光を受け透けてきらめく。細身の肢体と相まって、水晶や玻璃の細工ものを思わせた。


 目前を横切っていく彼女の足を目で追いながら、ディンは起きあがる。ほっそりとした足は、羽は生えているみたいに体重を感じさせない。足音がしないせいだと、すぐに気がついた。よく見ると、彼女の足は地面にふれるかふれないかの、微妙な高度を踏んでいた。


 彼女は魔物の前に立つと、頭上高くにある紫の目を見あげる。


 彼女の態度に臆するふうはない。


 どころか、それ以上の光景にディンは我が目を疑った。


 相手は腕の一振りで、呆気なく果てるだろう。人間の中でさえ細くか弱い部類だ。だというのに目の前の彼女から少しでも遠ざかろうと、熊の姿をした魔物は上半身を必死に反らしている。それでいて、下半身は縫いとめられたかのように動かなかった。魔物のほうこそが彼女に脅えているのだ。


 細い足が宙を蹴った。華奢な体が、物語の中の風の精みたいに浮かびあがる。彼女はのぞきこむ角度で、ぴたりと魔物と目をあわせた。


 薄い背中は黙って、震える声で鳴く魔物を見おろす。なにかを思い悩むような沈黙が続く。なにを思ってているのかまでは、背中からではうかがい知ることができない。


 どれくらい沈黙が続いただろう。長い沈黙のあと、彼女は小さく息をついた。


 落ちた息が契機だった。彼女の雰囲気ががらりと変わった。思い悩むふうだったのが、冷たく冴えた気配へと、鮮やかに変化した。


 魔物が猛々しく吠える。彼女の変化は魔物の目にも明白だったらしい。我が身の危機に魔物が彼女に躍りかかる。


 彼女は再び宙を蹴り、より高いところへと飛びあがった。


「お互い、自分が選んだ道だから」


 高く澄んだ、玻璃が鳴るような声を、知らず想像していた。だが彼女の声はしっとりと落ち着いていて、少し意外だった。


 気うつな声を聞かせた彼女は、魔物の頭部にぴたりと右の掌を押しつける。


 次の瞬間、ディンは雨が降ったのかと思った。

 パタパタッと、細かいなにかが速い拍子で地面を打つ。遅れて地響きが続いた。魔物の巨体が堆積物を巻きあげて倒れたのだ。


 雨ではないとすぐに気がついて、ディンは震える己の肩を抱きしめた。


 地を打ったのは雨滴などではない。一撃にて粉砕された魔物の頭部だ。粉微塵にされた肉や骨が、体液と共にばらまかれる音だったのだ。証拠に、倒れた体に頭部はない。


 一瞬魔物を屠れる人間など、この世に存在しない。


 もとより、空を飛べる人間も、魔物をおそれない人間もいないのだ。


 魔物の体が揺らめいた。ゆらりと、熱気の向こうに景色を見るように輪郭がぶれ、徐々に体が透けはじめる。光に解けるように、姿がおぼろになっていく。まるでその存在が夢幻だったかのように。


 魔物が消えさるまでじっと様子を見つめていた彼女は、地に降り立つと振り返った。


 鼓動が痛いくらいに跳ねた。のどが干あがり、体は強張った。ディンは顎を引くと、奥歯を噛み締めて彼女を見つめた。


 振り返った彼女の瞳は紫。

 魔物だけがその身に帯びる色だ。


 やはり――と、ディンは思った。やはり彼女は人間ではなかったのだ。


 けれどディンは、おそろしいはずの紫の瞳を見つめていた。いや、目を奪われたというほうが正しい。


 重たげなまつげにけむる紫の目は、涙に濡れていた。水晶のかけらのような雫が白い頬を滑り落ちる。次から次へとこぼれるに任せたまま彼女は歩いてくると、仔ブタの前で片膝を突いた。そして立てた膝へと額を押しつける。


 仔ブタが心配げに、声もなく泣く彼女に鼻面を寄せた。


 一人と一匹の様子を見つめていたディンは、一度唇を引き結ぶと意を決して口を開いた。


「何故、泣いてるんだ?」


「泣きたいから」


 彼女は顔もあげず、ぶっきらぼうに答えた。仔ブタがじろりと、険しい視線を送ってよこす。とがめられているのかもしれない。だけど気にかかる気持ちのほうが強かった。


「どうして泣きたいんだ?」


「悲しいから」


「どうして悲しい?」


 さらさらとかすかな音を立てて髪がこぼれた。顔は見えなかったが、彼女がディンを見ようとしたのか、膝に額を寄せたままの頭が少しだけ動いた。


「あのさ、泣きたいときくらい好きに泣かせてくれる?」


 ふっと一拍置いて、険のある声がいった。彼女の言葉に、それもそうかとディンは口を閉ざした。代わりに、そっと手を伸ばす。


 魔物といえば手負いの獣みたいなものだと聞いていた。凶暴で、意思の疎通などとうてい望むべくもない。荒れ狂うだけの存在だ。


 けれど彼女が魔物であったとしても、ディンにはもう恐ろしいとは思えなくなっていた。


 もし魔物を一撃で倒してしまう、すさまじい力を持っていなければ、紫の目を持っていてもただの人間だと思ったかもしれない。


 彼女のような魔物を、他に聞いたことがなかった。


 思った通りの手触りの髪にふれる。頭を撫でると、人型の魔物は少しだけ身動いだ。


「子どものくせに」


 小さくそう呟いたが、彼女はディンの手を振り払いはしなかった。


 変わった魔物だと、そう思った。

新しい連載です。


楽しんでいただけるとうれしいです。

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