表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

最終章 帰還する灯

二時六分。

 幽都の踏切は、まだ下りていた。

 柊の胸中に植えた視線結界の支点は軋み、熱は骨の内側で乾いた鈴のように鳴っている。座り(空席)は改札の内側に沈み、鋏の署名がそこへ重ね打ちされ続ける。


「――前だけを見ろ。外へ目をやるな」

 柊は、濃くなる空気に向けて静かに言った。

 まず一人、白手袋が空気を裂いて出た。腕、肩、そして煤で縁取られた顔――高畠だ。

 柏原が一歩詰める。「高畠!」

 だが柊は手で制す。「内を通して、改札まで。足音を残して歩け」


 高畠の靴が木板を打つ。コツ、コツ、コツ――生者のざわめきが、静けさを押し戻す。

 続いて、給仕の青年、夜勤の検収係、失踪を届け出ていた商人風の男――影の層から輪郭が内側へと浮かび、署名の音に護られてひとりずつ改札を潜った。

 白井いとは祠の外で、鈴に触れぬまま帳面を胸に抱き、自身にも言い聞かせるように小声で繰り返す。

「外で切るな。内で切れ。影を踏むな……」


 その時だ。

 鋏の気配が、ふいに二重に増えた。

 カン、カン――もう一つの署名が、改札の外で鳴ろうとする。

 車掌の影が、空席の縁を摘まみ、外へ引き戻す仕草をする。

 匂いの層が裏返りかけ、鈍い油煙が鼻腔に満ちた。


「――住むな、柊」

 滋丘の声が低く鋭い。「結界に住むな。見るだけでいい」

 柊は自分の視線が輪から内側に入り込みかけていたのに気づき、わずかに呼吸をずらす。

 棒ではなく輪、押すのではなく縫い留める――昼間、身に叩き込んだ運用を、もう一度徹底する。

 視線環が小さく締まり、八重環の内環と噛み合う。

 外で鳴りかけた署名は、内へ撓み、カンとひとつ、こちら側で沈む。


「彼は――」

 白井の声が震え、しかし折れなかった。祠の外から、帳面の角を指で叩く。

「刃の欠けを、まだ直していないはずです」

 柊は頷く。懐から検札鋏の欠けを包んだ布を取り出し、視線環の縁――空席の座りに、“目印”として極小に置く。

 匂いが一瞬澄む。榊の香が、油煙の上で薄く広がる。


 影の層から、白い鋏の刃先がためらいがちに覗いた。

 挟まれた空気が欠けの位置でわずかに歪む。

 署名。

 カン。

 彼が、“こちら”に署名したのだ。


 次の瞬間、肩が現れ、頬が現れ、煤の涙筋が電灯の白に濡れた。

 白井はいきなり飛び込まない。祠の外で両手を組み、笑ってそれから叱る準備をした。

「遅い。角、また曲げたでしょ」

 彼は開いた口で呼吸し、ようやく声を作った。

「……遅れました」

「内で言いなさい」

 白井が一歩だけ寄り、しかし境界を踏み越えない。その姿勢が、座りをさらにこちらへ引く。


 二時七分。

 踏切はまだ下りている。

 残る影が三つ。

 柊は視線を緩めずに、静かに言う。

「――靴の音を、残して来い」

 音が境界を署名する。生者の側の署名だ。

 コツ、コツ。

 最後の影が、ためらいがちに一歩、二歩。

 鋏が、こちらで二度鳴った。

 二時八分。

 風が変わる。

 踏切の遮断桿が、音もなく上がり始め、座りが浅くなる。

 穴が閉じる。

 柊はそこでようやく視線をほどき、胸の奥に置いた支点を外へ返す。骨の内側の鈴は、今度こそ静かになった。


 ホーム中央。

 戻った者たちが、改札の内側に立っていた。

 時計は動く。

 高畠は固く握っていた懐中時計を見下ろし、秒針の律動に顔の力を抜いた。

 柏原は声が出ず、替わりに詰襟の一番上の釦を外した。

 白井はいったん深呼吸してから、婚約者の鋏を指差して叱る。

「刃、欠けたままです」

「……直します」

「今日です」

「はい。今日」

 その「今日」という言葉が、静けさに日常を連れ戻した。



---


 その頃、駅裏の保線区画。

 神祓隊の外周班は、昼間に目星をつけておいた仮設の資材置場へ網をかけていた。油煙と榊樹脂、月印の印章、反転札――式の道具は、人の手の高さに必ず置かれる。

 影が一つ、木柵の隙をすり抜けるように滑った。

 鴉羽玄造だ。

 手には細長い箱。中には薄い銅板――霊導軌条の**“舌”が束で収まっている。

「――そこまでです」

 外周班の軍警が踏み出す音は、わざとの大きさだった。音で境界を実在にするためだ。

 鴉羽は抗わない**。ただ視線だけが、線路の向こうを測っている。

「通行証ならある」

「工部省の官印を偽造してまで駅裏で箱を動かす理由を、署名してもらいましょう」

 軍警の皮肉に、鴉羽は薄く笑う。

「試運転は終わらない」

「ここでは終わりです」

 榊と塩の袋が鴉羽の懐から出、反転札が足下に落ちた。

 外周班の一人が小声で言う。「万世橋工区 夜間試運転……そう記した札を、奴は別に持っているはず」

 鴉羽はその言葉に、初めて目を動かした。

「橋は楽だ。水が下にあると、音が逃げる」

 彼はそれだけ言い、拘束に身を預けた。未練はない。論理の先だけを見ている目だった。



---


 明け方前。

 八重環は解かれ、祠には榊が一枝新しく立てられた。狐の口は空。

 柏原は、改札の鍵束を握り直し、戻ってきた駅員たちに短く礼を言った。

「生きて戻ってくれて、ありがとう」

 高畠は笑おうとして失敗し、代わりに帽章を正した。

「持ち場に戻ります。……ですが、二時半からは、ここは閉めます」

「そうしてくれ」滋丘が頷く。「祠は朝に掃除する。狐の口には手を入れず、榊だけ新しく」


 白井はいよいよ婚約者の鋏を取り上げた。欠けを撫で、「今日、直す」ともう一度繰り返してから、柊に向き直り、深く頭を下げた。

「ありがとうございました。……叱ることが、またできます」

 柊は軽く首を振る。

「叱れる日常は、われわれでは用意できません。あなたが用意するものです」

 白井は笑う。涙は落ちない。

「なら、仕事に戻ります」


 駅の空気は、夜より少しだけ暖かい。

 二重の軌条は、静かに重なり直る。

 列車の姿は最後まで視えなかった。

 ただ、遠くで鋏の音が、もうひとつの都へ遠ざかるのを、皆が確かに聴いた。



---


 詰所。

 卓上に、外周班から戻った包みが置かれた。反転札、月印、銅の舌、そして小さな紙片――細い筆致で、一行。

 ――帝都は、生者のざわめきで動く

 署名はない。だがこの一行は、こちらの署名だった。

 柊は紙片を榊の根元に差し込み、滋丘に目をやる。

「万世橋へ行く札が、鴉羽の懐から別に出ました」

「橋は音を逃がす。奴の論理にはことわりがある。だが、倫理りんりはない」

 滋丘は榊の結びを整えた。「生者のための静けさしか、都には要らん」


 窓の外で、魚河岸の怒鳴り声が始まる。荷車の軋み、商人の呼び声、小走りの足音。

 ざわめきが、都を動かす。

 柊は、救い出した者たちが今日も靴音を残して働く光景を想像し、懐の懐中時計――止まっていたそれの小さな鼓動を指先に確かめた。

「帰還、確認」

 彼は静かに言い、帳面に今日の日付を記した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ