最終章 帰還する灯
二時六分。
幽都の踏切は、まだ下りていた。
柊の胸中に植えた視線結界の支点は軋み、熱は骨の内側で乾いた鈴のように鳴っている。座り(空席)は改札の内側に沈み、鋏の署名がそこへ重ね打ちされ続ける。
「――前だけを見ろ。外へ目をやるな」
柊は、濃くなる空気に向けて静かに言った。
まず一人、白手袋が空気を裂いて出た。腕、肩、そして煤で縁取られた顔――高畠だ。
柏原が一歩詰める。「高畠!」
だが柊は手で制す。「内を通して、改札まで。足音を残して歩け」
高畠の靴が木板を打つ。コツ、コツ、コツ――生者のざわめきが、静けさを押し戻す。
続いて、給仕の青年、夜勤の検収係、失踪を届け出ていた商人風の男――影の層から輪郭が内側へと浮かび、署名の音に護られてひとりずつ改札を潜った。
白井いとは祠の外で、鈴に触れぬまま帳面を胸に抱き、自身にも言い聞かせるように小声で繰り返す。
「外で切るな。内で切れ。影を踏むな……」
その時だ。
鋏の気配が、ふいに二重に増えた。
カン、カン――もう一つの署名が、改札の外で鳴ろうとする。
車掌の影が、空席の縁を摘まみ、外へ引き戻す仕草をする。
匂いの層が裏返りかけ、鈍い油煙が鼻腔に満ちた。
「――住むな、柊」
滋丘の声が低く鋭い。「結界に住むな。見るだけでいい」
柊は自分の視線が輪から内側に入り込みかけていたのに気づき、わずかに呼吸をずらす。
棒ではなく輪、押すのではなく縫い留める――昼間、身に叩き込んだ運用を、もう一度徹底する。
視線環が小さく締まり、八重環の内環と噛み合う。
外で鳴りかけた署名は、内へ撓み、カンとひとつ、こちら側で沈む。
「彼は――」
白井の声が震え、しかし折れなかった。祠の外から、帳面の角を指で叩く。
「刃の欠けを、まだ直していないはずです」
柊は頷く。懐から検札鋏の欠けを包んだ布を取り出し、視線環の縁――空席の座りに、“目印”として極小に置く。
匂いが一瞬澄む。榊の香が、油煙の上で薄く広がる。
影の層から、白い鋏の刃先がためらいがちに覗いた。
挟まれた空気が欠けの位置でわずかに歪む。
署名。
カン。
彼が、“こちら”に署名したのだ。
次の瞬間、肩が現れ、頬が現れ、煤の涙筋が電灯の白に濡れた。
白井はいきなり飛び込まない。祠の外で両手を組み、笑ってそれから叱る準備をした。
「遅い。角、また曲げたでしょ」
彼は開いた口で呼吸し、ようやく声を作った。
「……遅れました」
「内で言いなさい」
白井が一歩だけ寄り、しかし境界を踏み越えない。その姿勢が、座りをさらにこちらへ引く。
二時七分。
踏切はまだ下りている。
残る影が三つ。
柊は視線を緩めずに、静かに言う。
「――靴の音を、残して来い」
音が境界を署名する。生者の側の署名だ。
コツ、コツ。
最後の影が、ためらいがちに一歩、二歩。
鋏が、こちらで二度鳴った。
二時八分。
風が変わる。
踏切の遮断桿が、音もなく上がり始め、座りが浅くなる。
穴が閉じる。
柊はそこでようやく視線をほどき、胸の奥に置いた支点を外へ返す。骨の内側の鈴は、今度こそ静かになった。
ホーム中央。
戻った者たちが、改札の内側に立っていた。
時計は動く。
高畠は固く握っていた懐中時計を見下ろし、秒針の律動に顔の力を抜いた。
柏原は声が出ず、替わりに詰襟の一番上の釦を外した。
白井はいったん深呼吸してから、婚約者の鋏を指差して叱る。
「刃、欠けたままです」
「……直します」
「今日です」
「はい。今日」
その「今日」という言葉が、静けさに日常を連れ戻した。
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その頃、駅裏の保線区画。
神祓隊の外周班は、昼間に目星をつけておいた仮設の資材置場へ網をかけていた。油煙と榊樹脂、月印の印章、反転札――式の道具は、人の手の高さに必ず置かれる。
影が一つ、木柵の隙をすり抜けるように滑った。
鴉羽玄造だ。
手には細長い箱。中には薄い銅板――霊導軌条の**“舌”が束で収まっている。
「――そこまでです」
外周班の軍警が踏み出す音は、わざとの大きさだった。音で境界を実在にするためだ。
鴉羽は抗わない**。ただ視線だけが、線路の向こうを測っている。
「通行証ならある」
「工部省の官印を偽造してまで駅裏で箱を動かす理由を、署名してもらいましょう」
軍警の皮肉に、鴉羽は薄く笑う。
「試運転は終わらない」
「ここでは終わりです」
榊と塩の袋が鴉羽の懐から出、反転札が足下に落ちた。
外周班の一人が小声で言う。「万世橋工区 夜間試運転……そう記した札を、奴は別に持っているはず」
鴉羽はその言葉に、初めて目を動かした。
「橋は楽だ。水が下にあると、音が逃げる」
彼はそれだけ言い、拘束に身を預けた。未練はない。論理の先だけを見ている目だった。
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明け方前。
八重環は解かれ、祠には榊が一枝新しく立てられた。狐の口は空。
柏原は、改札の鍵束を握り直し、戻ってきた駅員たちに短く礼を言った。
「生きて戻ってくれて、ありがとう」
高畠は笑おうとして失敗し、代わりに帽章を正した。
「持ち場に戻ります。……ですが、二時半からは、ここは閉めます」
「そうしてくれ」滋丘が頷く。「祠は朝に掃除する。狐の口には手を入れず、榊だけ新しく」
白井はいよいよ婚約者の鋏を取り上げた。欠けを撫で、「今日、直す」ともう一度繰り返してから、柊に向き直り、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。……叱ることが、またできます」
柊は軽く首を振る。
「叱れる日常は、われわれでは用意できません。あなたが用意するものです」
白井は笑う。涙は落ちない。
「なら、仕事に戻ります」
駅の空気は、夜より少しだけ暖かい。
二重の軌条は、静かに重なり直る。
列車の姿は最後まで視えなかった。
ただ、遠くで鋏の音が、もうひとつの都へ遠ざかるのを、皆が確かに聴いた。
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詰所。
卓上に、外周班から戻った包みが置かれた。反転札、月印、銅の舌、そして小さな紙片――細い筆致で、一行。
――帝都は、生者のざわめきで動く
署名はない。だがこの一行は、こちらの署名だった。
柊は紙片を榊の根元に差し込み、滋丘に目をやる。
「万世橋へ行く札が、鴉羽の懐から別に出ました」
「橋は音を逃がす。奴の論理には理がある。だが、倫理はない」
滋丘は榊の結びを整えた。「生者のための静けさしか、都には要らん」
窓の外で、魚河岸の怒鳴り声が始まる。荷車の軋み、商人の呼び声、小走りの足音。
ざわめきが、都を動かす。
柊は、救い出した者たちが今日も靴音を残して働く光景を想像し、懐の懐中時計――止まっていたそれの小さな鼓動を指先に確かめた。
「帰還、確認」
彼は静かに言い、帳面に今日の日付を記した。




