第四章 幽都の踏切
午前一時五十五分。
新橋停車場のホームは、灯の島のように静まっていた。改札は鎖で閉じ、駅長・柏原は背で改札口を塞ぐ。白井いとは祠の外に立ち、鳴らない鈴に触れず、指を組む。
滋丘は祠前に八重環の外環を薄く張り、内側に座り(空席)を置く。柊はホーム中央――継ぎ目に立ち、胸中に視線結界の支点を植え込む。
一時五十八分。
狐の口の奥に詰められた鉄粉は、日中のうちに榊樹脂と塩で固着させてある。鉄寄せの誘因を殺し、上から清めの逆気配を薄くかぶせた。祠の周囲には油煙をわずかに散らし、匂いの配列だけは偽の“線路”として残す。
柊は羅針盤を継ぎ目の脇に、温度計をレールの内外に置いた。数値はゆっくりと二度差を作り始める。
二時一分。
風が変わる。榊の香の下から、煤と鉄の匂いが底冷えのように立ち上がる。羅針盤の針が線路の外側でわずかに踊る。
「来るぞ」
滋丘が祠の前で、榊の先を八重環の結びに触れた。
二時二分。
柊の瞼の裏で、影の軌条が開き始める。現の軌条と一尺半ずれた影の線が、まるで薄い水路のように濃くなる。
柊は息を一つ吐き、視線で一本の線を引いた。見えない二本の軌条を横切る、細い白線――踏切だ。
「下ろす」
柊は低く呟き、視線結界の線を固定した。空気が重くなる。音の通り道を、ひと呼吸だけ塞ぐ。
二時三分。
祠の榊がかすかに鳴る。鳴らないはずの鈴は沈黙を守る。
白井いとは祠の外で小さく息を吸い、懐から婚約者の帳面を握りしめた。あの頁――『外で切るな。内で切れ』――柊は頭の中で何度も反芻する。
二時四分。
音が先に来た。
カン。
鋏の署名が、空気に刻まれる。
同時に、見えないブレーキ鳴動が地面の底から震えを寄越す。
「内で切らせる」
滋丘が祠前で八重環を軽く回す。座り(空席)が内側に沈む。
鋏の影が、外から内へわずかにずれる――その刹那。
「反転。」
声が、背後から落ちてきた。低く乾いた、実務の声。
柊は振り向かない。だが視界の端、紙札がふわりと飛び、八重環の結び目に触れるのが見えた。
式が裏返る。座りが浮く。
鴉羽玄造がいた。
灯を背に、黒い制帽を斜めに押しやり、外套の裾に油煙の染みを付けた痩身。目は笑わず、手だけが迅い。
「帝都は、死者の静謐で動くのだ。」
言葉は紙片と同じ。今度は口で言うだけだ。
鴉羽の指先から、反転札が二枚、石狐の口へ滑る。固着した鉄粉の縁だけを撫で、匂いの配列を外向きに反らす。
座りがほどけ、鋏が再び外へ戻ろうとする。
「――踏ませない。」
柊は視線を引き直した。
踏切線を、もう一本。今度は縦に。影の軌条の鼻先に、白い棒を立てる。
視線結界の支点がきしみ、胸骨の内側で熱が走る。
「視線の棒で突くな。結べ」
滋丘の声が飛ぶ。
柊は頷き、棒を輪に変える。継ぎ目を囲い込む小さな輪(視線環)。
そこへ八重環の内環が重なる。環と環が咬み合い、座りが再び沈む。
鋏の影が、内側で迷う。署名の位置が、一瞬だけ宙にぶら下がる。
鴉羽は一歩、影を跨いだ。
外套の裾が、ふわりと冷気をたてる。
「若いの。境界は一本で足りる。複線にすれば、事故が増える」
「では、一本に重ね直すまでです」
柊は輪を狭めた。内と外のズレ一尺半が縮む。影の軌条と現の軌条がほとんど重なる――ただし、踏切のこちら側で。
音が、こちらに移る。
カン。
署名が、内で打たれた。
鴉羽が反転札をもう一枚、継ぎ目に投げる。紙片が空中で裏返り、柊の視線環を撫で――消えた。
「紙では、おまえの目は覆えん」
滋丘が祠前で、榊の先を砂鉄に触れ、清浄を一息だけ強める。
匂いの配列が、内向きに収束する。
白井いとが祠の外で、帳面の一行を口の中で読む。
「外で切るな。内で切れ」
言葉が、座りを支える。
鴉羽は初めて目を細めた。
「音を頼るとは。軍は音を嫌うのではなかったか」
「音は“生きている”側の署名です」
柊は視線を緩めずに言った。「静けさは、休ませるためにだけ借りる。あなたはそれを運用にしようとしている」
「運用こそ文明だ。兵も物資も、幽都を経れば、熱も音もなく運べる」
「人も、ですか」
「“人”は荷だ」
言い切られた一語が、ホームの温度をさらに下げた。
滋丘の声が硬くなる。
「荷に戻させぬために、われらはいる」
そのやり取りの最中――踏切のこちら側、改札の内で、空気がわずかに濃くなった。
座りに重さが出る。
柊の靴底が沈む。
白井いとの視線が、改札の内側で何かを捉える。
「……あの腕」
誰かの袖が、空気の中にひとかけ現れ、消え、また現れる。
踏切は下りている。今だ。
「内へ」
柊は視線環をさらに狭め、座りを改札側へ寄せる。誘いの傾斜を一分だけ増す。
鋏の影が、それを追う。
カン。
署名が、改札の内側で鳴る。
空気の濃さが、そこに集まる。
――戻る。
鴉羽の指が動く。外套の内から、長い札。
式の根に触れる危い札だ。彼がそれを継ぎ目へ投ずるより早く――
祠の鈴が、一度だけ鳴った。
鳴らないはずの鈴が。
白井いとの指は鈴に触れていない。境界の外に掛けた鈴が鳴るはずはない。
だが今、内で署名が連続し、境界そのものが一瞬だけ内へ撓んだ。鈴は境界の内に入ったのだ。
音が、こちらを満たす。反転札の刃が鈍る。
鴉羽は札を握り潰した。紙が乾いた音を立てて折れる。
「……今夜は引く」
その声に、未練はない。ただ計画の先を見る者の調子。
「試運転は終わりではない」
「ここは終点です」
柊は言い、視線を解かない。
「万世橋に行くな」
滋丘の言葉に、鴉羽は薄く笑った。
次の息で、影から鴉羽が消えた。足音も残さない。静けさだけが引き波のように去っていく。
鋏の影は残り、署名はこちらに定着したまま。
二時五分。
踏切はまだ下りている。
柊は視線環を維持しながら、声を落とした。
「今、人を寄せる。改札の内へ」
滋丘が頷く。八重環の内側を薄く回す。
白井いとは祠の外で、帳面の一行をもう一度小声で読む。
『外で切るな。内で切れ。影を踏むな。』
音が、返事をする。
カン。
カン。
署名はこちらで重なる。
空気は濃くなり、改札の内に、人の輪郭が集まる。
柏原の喉が鳴った。
「……高畠……!」
そこに立ち上がりかけの影――帽章、白手袋、煤けた懐中時計。
踏切はなお下り、座りはこちらに沈んでいる。
戻すための時間はわずかだ。
柊は視線に力を足す。胸の中で支点が軋む。
「内へ。内だけを見ろ」
それは高畠だけにではなく、消えた者すべて、そして自分自身に向けた命令だった。
二時六分。
幽都の踏切はまだ下りている。
救出は、始まったばかりだ。




