第三章 黒禍ノ會の残影
夕陽が駅舎の木肌に沈み、梁の節が赤黒く浮きはじめる時刻。詰所の卓上には、昼間に揃えた紙片が静かに呼吸しているかのように重なっていた。偽の時刻表、改札の月印、検札鋏の欠け、榊樹脂の匂い、そして鴉羽玄造の花押。
柊は指先で紙の角を揃えながら、昼間から胸の奥に引っかかっていた違和を言葉にする。 「“静かな列車ほど始末が悪い”――滋丘さんの言葉は、まるで運用を語る口振りでした。誰かが静けさを使うのだとしたら、ここは乗降場ではなく開閉器です」 「言い換えればスイッチだ」
滋丘は榊を一枝、祓串に結びながら頷く。「おまえが視た継ぎ目は、列車そのものではない。こちらと幽都の間にある踏切だ。そこを、誰かが切り替えている」
駅長・柏原が畏れを押し殺して口を開く。「切り替える者は、やはり黒禍ノ會と……」
「まだ決めつけないでください」
そう言いながら、柊は懐から薄汚れた仕入帳を取り出した。昼過ぎ、芝の神具店に立ち寄り、榊樹脂の仕入れ先を洗ったのだ。帳面の端に、三週間前の記載がある。
――榊樹脂 大瓶三 油煙小壺五 砂鉄細粉二袋
受取名は崩し字で「阿羽」。代金は前金。配達先は記されず。
「阿羽……鴉羽を崩した当て字か」
滋丘が帳面の筆致を、昼に見た図面の花押と並べ、線の癖を確かめた。「払いの戻りが同じだ。同手で間違いない」
紙上の点が、また一つ線で結び直される。
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日が落ちきる前に、柊たちは駅裏の保線区画へ回った。廃材と枕木の匂い。油に濡れた土の上、煤の指跡が均等な間隔で続いている。
柊はしゃがみ込み、人差し指で枕木の木口をなぞった。円い年輪の端に、白い粉が円弧を描く。
「チョークで月の相を記している」
等間隔の枕木に、朔・弦・望……“望”の印が線路の中央に重なるように引かれていた。二時四分を芯に据えた偽の時刻表と同じ発想。
「ここで調整しているのだ」滋丘が言う。「“開き”の揺れ二分を、月の弓で整流するみたいにな」
柊は鼻先で空気を嗅ぐ。昼よりも濃い鉄の匂いに、わずかに清浄な香が混じる。
「榊樹脂だ。ここにも塗っている」
枕木の端、犬釘の頭が黒光りしている。油煙で鈍く光る上に、榊樹脂が薄く曇をかける。そうすることで、鉄の寄せと神前の清めが和合する――本来交わらない二つを、意図的に偽装して。
保線区画の角に、呼気で揺れる小さな影があった。燈も持たずに立ち尽くす若い男。制服は駅務のもの。頬はこけ、爪の隙に黒い粉が詰まっている。
「早見……か」柏原が息を呑む。だが男は振り向かず、空の一点を見つめている。
柊が二歩近づき、穏やかな声で呼びかけた。「早見さん。手を見せてもらえますか」
差し出された掌は、油と砂鉄でざらつき、指の節々に細い切り傷。その一つに、樹脂が固まっている。
「どこで、それを」
男の口が乾いた音を立てる。「……検札の台に。阿羽さまが、ここに塗れと。榊は匂いが良いから、狐も嫌がらぬ、と」
柏原の肩がふるえた。「“阿羽さま”……鴉羽玄造。おまえ、いつから手伝っていた」
「手伝いなどしておりません」早見の目は虚ろのまま、しかし言葉だけはきっちりしている。「式に従っただけです。音の来る方へ印を押し、月の形に合わせて切符を切る。鋏は、音を教えてくれる」
「誰の式だ」
「……静けさの式。死者の静けさを借りれば、列車は音も熱も持たずに、帝都を抜ける」
滋丘がわずかに身構え、榊の先端を砂鉄に触れさせる。
「早見。おまえの目はどこを見ている」
問いと同時に、男の視線が線路の外側へ一寸だけずれた。そこに、柊の皮膚だけが感じている**“もう一本の線”が通っている。
「そこに、何が見える」
「……列車が。いや、列だけが。灯の列**。その中に、空席が少し」
柊は滋丘と目を交わす。空席――それは、今夜こちらが用意する予定の“座り”だ。
早見は続ける。「阿羽さまは仰いました。軍は音が嫌いだと。音があると、敵に見つかると。死者は静かだから、都合がいいと」
その言葉の論理は、寒さより冷たい。
早見を詰所へ案内し、温い茶で指の震えを鎮める間に、柊は男の記憶を整理した。
一月ほど前、夜勤中に**“鳴らない列車”を初めて視たこと。翌日、阿羽を名乗る男が詰所の裏で待ち、印章の扱いを教えたこと。駅務の基準では禁止されている外印を「慰霊運行の特別手続き」と偽って持ち込ませたこと。狐の口への鉄粉**、榊樹脂、油煙の順。
柊は茶の湯気の向こうで、男の瞳孔が光を拾わないのを見て、深く息を吸った。
「早見さん。今夜、こちらで式を逆立てます。あなたは何もしない。祠にも寄らない。音がしても、目を向けない」
男はうなずく。うなずく角度まで、式のように正確だった。
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夜の少し手前。駅の隅に、白井いとの小柄な影があった。袂を固く握り、けれど足取りは迷いなく、祠の前に立つ。
「お願いがあります」
柊が頷くと、いとは胸元から古びた帳面を出した。淡い鶯色の和紙。
「彼の帳面です。線路のこと、時間のこと、私に分かるように書き直した覚え書き。中に、変な詩みたいなものがあって……」
柊は受け取り、灯りの下で頁を繰る。数字と時刻のあいだに、短い言葉が挟まっている。
――『音のない方へ歩け。影を踏むな。切符は内で切れ。外で切ると戻れなくなる』
頁の端、薄く油煙の指跡。
「彼は気づいていた。外と内を入れ替える罠に」
滋丘が静かに言う。「“外で切ると戻れない”――月印はまさに外印だ」
いとは唇を噛み、しかし涙はこぼさない。「静かな列車の話をした夜から、彼は音に敏い人になりました。台所で包丁を置く音に怯えて、でも私には優しく笑って……。だから、私も音で、何かできないかと」
彼女は、祠の脇につるした鈴に指先をそっと触れた。
「これは鳴らない鈴なんですね」
「境界の外に掛けたからだ」滋丘が言う。「音は境を署名する。今夜は鋏の音に署名させる」
いとは小さく頷き、帳面を柊に預けた。「彼が戻ったら、叱ります。帳面の角がまた曲がってるって」
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詰所に戻ると、早見は温い湯で指の砂鉄を洗い落としていた。爪の間の黒は、爪楊枝で丁寧に掻き出され、最後に榊の香で指先が拭われる。
柊は机上に都心の地図を広げる。新橋から三田、芝口、築地――鉄道線が龍脈の細流に沿って走る場所を、薄墨で印す。寺社の位置に小点。点と点を月相の手で結ぶ。
「ここに導線を敷こうとしている」
線の交点が夜の都心に鈴のように散る。
「橋――万世橋も含めて」
柊の言葉に、滋丘が短く目を細める。「先を急ぐな。今は新橋だ。ここを閉じる」
地図の端に、薄藍の紙片が滑り込んだ。いつの間にか開いた障子の隙から、風に乗って誰かが入れたのだろう。紙片には、細い筆致で、ただ一行。
――帝都は、死者の静謐で動くのだ
署名はない。だが声は聞こえる気がした。昼に紙の上で見た花押の主の声が。
柏原が青ざめる。「……阿羽が、ここに」
「脅しだ」滋丘は紙片を塩で押さえ、火鉢で淡く燻す。「自分の論理を、こちらにも踏ませたいのだ。踏ませれば、こちらも静けさの共犯になる」
柊は胸の中で、いま読んだ言葉を反転させる。
――帝都は、生者のざわめきで動く
線路を渡る靴音、魚河岸の怒鳴り声、子供の泣き声、宴席の笑い声。雑音が折り重なって、ようやく都は生きている。死者の静けさは、休ませるためにだけ借りられるべきだ。
柊は視線を上げ、滋丘と目を合わせた。
「彼(鴉羽)に言葉で勝つ必要はありません。構造で勝ちます。今夜、切り替えは私たちがやる」
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夜半。改札は閉鎖され、ホームは無人となる。灯の島のような光が、線路の黒を浅く照らす。羅針盤は継ぎ目の脇に、温度計はレールの内外に一本ずつ。狐の口には、逆気配をほんの薄く。
柊はホーム中央に立ち、視線結界の支点を胸の奥に植える。二本の軌条が一寸半ずれて重なる像が、瞼の裏でくっきりと交差する。
滋丘は祠の前、八重環の外環を薄く張り、内側に空席の座りを置く。いとは祠の外で目を閉じ、鈴に触れずに指を組む。柏原は改札口に背を向け、背中で駅を守る。
風。
匂いが変わる。榊の香の下から、煤と鉄の冷たさが立ち上がる。肌の上を氷の糸が撫でる。
二時一分。
羅針盤の針が、一度、ためらい、線路の外側で踊る。
二時二分。
柊の視野で、影の軌条が開き始める。
二時三分。
祠の榊がほんの少し揺れる。狐の口の逆気配が、影の軌条の鼻先をくすぐる。
二時四分。
音が、先に来た。
カン。
鋏が、空席の座りで署名する。
柊は視線で線を固定した。滋丘は八重環を薄く回す。
――静けさが、滞る。
視えない列の一部が、座る。座りに重さが宿る。
その刹那、ホームの端から別の音が混じった。砂利を踏む、人の足音。
柊は振り向かない。だが音の主は自ら名乗った。
「終点だよ」
声は低く乾き、ひどく実務的だった。
柊はゆっくりと息を吐き、視線を放さずに言う。
「車掌殿」
答えはない。代わりに、鋏の先で空気が摘まれる気配がする。
滋丘が祠の前で、一音だけ祓詞を立てた。
「外で切るな」
白井いとの掌が祠の外でぎゅっと握られる。鈴は鳴らない。
鋏の影が、内へ移る。
カン。
署名が、こちら側で打たれた。構造が、こちらに寄る。
黒禍ノ會の残影は、姿を見せなかった。だが式はここに来ていた。切り替えがこちらで完了したとき、風の層が一枚はがれ、ホームの温度が夜の常温へ戻る。
羅針盤の針はゆっくり中心へ戻り、温度計の二度の差は消えた。
空席は、まだ座ったままだ。
柊は思った。――座りが維持できるのは、わずかな時間だ。その間に、向こうから人を引き寄せる。




