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番外編 帝都幽霊列車 第一章 白い息のホーム

夜明けの新橋停車場は、眠りから冷たく覚めたばかりの獣のように、鉄の匂いをうっすら吐いていた。秋の朝靄が下がり、プラットホームの上だけ白く濃い。線路の上はさらに一段、空気が薄く、まるでそこだけ別の夜が居残っている。


 柊一馬は詰所の戸を引き、帽章に指を添える。 「神祓隊・柊。現場保存のご協力、感謝します」  待っていた駅長・柏原は、煤で縁の汚れた白手袋をねじるように握りしめた。 「……幽霊列車、などと口にしたくはないんですがね。人が消えりゃ、そうも言ってられません。昨夜も、巡回の高畠が……」


 柊の背後から、ゆったりとした足音。和装の外套(がいとう)に身を包んだ滋丘が入ってきた。薄い眼鏡の奥、目だけがよく動く。 「まず、音の記憶から聞こう。“視えること”は、いつだって遅れて来る」


 詰所の卓上には、封筒入りの遺留品が二つ。止まった懐中時計と、煤けた切符。柏原が封筒を押し出す。 「時計は二時四分で止まっていました。切符は……昨夜、誰のものやら。改札を抜けられてはおらんはずですが」  滋丘が封筒越しに切符を指でたたく。紙がわずかに硬い音を返す。 「刻印……日付の印が、いささか古い式だな」  柊は硝子越しに覗き込み、記号の切れ端が月齢(げつれい)を示しているのに気付く。だが今はまだ言葉にしない。確信には、もう少し寒さが要る。


 ホームへ出ると、白い息が柊の口から短く立ち上る。脇を行き交う職人たちの吐息より、線路の上の白さが濃い。見下ろした柊の足下だけ、霜柱の芽のように空気がざくりと硬い。  柊は立ち止まった。 「駅長、昨夜、どちら側から音が?」 「銀座よりの暗がりから、ブレーキが鳴るような……いや、あの音は先に来たんです、列車より」 「列車を、見たのか」  滋丘の問いに、柏原はうつむく。 「すみません。影と言うべきか、(もや)の濃い帯が一本……それに、車掌の、あの鋏の音だけが」


 ホームの隅、煤けた灯籠の下に、赤ら顔の若い連中が立っていた。夜勤明けの給仕や荷扱い人だ。柊は順に名を聞き、音の証言だけは重ねて採る。

「カン、と一度。すぐ間を置いて、カン、カン」

「最初の音が、こっちへ来る“合図”みたいで」

「それから、寒くなるんです。線路と同じ幅で、ずうっと」

 同じ証言が三つ重なる。視えた、という者は一人もいない。


 柊は木箱から温度計を取り出し、ホーム端と線路上に交互に出し入れした。目盛りの落ち方が、見事に違う。線路の上だけが、二度低い。 「鉄と怨気が、どこかで共鳴している。寒さが“線”になっている」  滋丘が袖口から細長い紙片を出し、指先で折る。白い紙は、折り目を増すごとに硬くなる。 「柊、視えるなら“継ぎ目”を拾え」 「了解」


 柊は目を閉じ、呼吸を浅くする。視界の灯りを一つずつ消し、音を一つずつ前に出す。靄が近づき、冷気が線になって足首に絡み、見えない線路が現実の線路の下へ薄く重なっていく。

 ――二本、ある。

 一本は帝都の鉄、もう一本は、誰かが敷いた別の“道”。


「見えるか」 「ええ。現の軌条に、影の軌条が半身ずれて重なっています。ホームから一尺半内側に、もう一本」 「ずれたほうが“後から”作られた線だ。誰が、何のために」


 その時、ホームの向こうで、か細い声が上がった。 「駅長さん……給仕の白井です。詰所に言づてを」  振り返ると、袂を握りしめた若い女が、柊たちを見て立っていた。頬は夜勤の冷えで青い。白井いと――失踪した控車掛の婚約者だという。 「昨夜、彼、出がけに釘を一本、上着の襟に挿して行きました。『邪を遠ざける』って。工場でそう聞いたそうです。……関係は、ありますか」  柊は目だけで滋丘を見る。滋丘は短くうなずいた。 「鉄は“寄せる”。誘いにも祓いにもな」  柊は白井に穏やかに声を掛ける。 「お話、助かります。危ないことはさせませんから、覚えていることを少しだけ」


 詰所で湯気の立つ茶を前に、白井はいくつかの細部を供述した。婚約者は時間に厳しい人間で、いつも懐中時計の針を二分ほど進めていること。夜勤の前、妙に静かな列車の話をして、「静かだからこそ危い」と笑ったこと。

 柊は懐中時計の封筒を手元に引き寄せた。確かに針は二時四分。――もし普段から二分進める癖が本当なら、“開く刻”は二時二分”。だが昨夜は二時四分で止まっている。二分の差は、“開き”の揺れなのか、それとも――。


 滋丘が卓上の切符を取り上げ、印面に息を吹きかけた。白粉のような煤が飛び、刻印が鮮やかになる。丸い印章の外縁に、三日月のような小さな切れが見えた。 「駅長、この印は誰が打った?」 「うちの改札なら、丸に日付だけのはずで……この月印は見ませんねえ」  滋丘は切符を封に戻すと、白井に向き直る。 「彼は、音を言っていたな。『静かだから危い』と」 「はい。静かなのに、鋏だけが響くって」


 ホームへ戻る。朝靄(あさもや)は薄くなり、工夫の掛け声が段々と高くなっていく。柊は線路に沿って歩き、視界の隅に“別の線”を温存したまま、石の狐の祠に立ち止まった。プラットホームの出入口を挟むように対になった石狐――口の奥が、かすかに鈍く光る。

 爪先で地面を払うと、指先に細かい鉄粉がまじった砂が触れた。柊はその指を見せる。 「駅長、ここを掃除するのは誰です」 「毎朝、掃除夫が……ですが、狐さまの口は触りません。祠はお稲荷さんで」  滋丘が小さく、しかしはっきりと息を吐いた。 「**仮祀かりまつり**の手口だ。稲荷の結界を、鉄の気に引き寄せ直している」


 柏原が顔色を失う。 「じゃあ、本当に、誰かが……」 「“幽霊”に仕事をさせる輩がいる、ということだ」  滋丘は視線だけで柊を促す。柊はうなずき、紙片を一本取り、ホームの東端と西端、二つの石狐の間に細い“視線”を引いた。目を細め、紙片の白を一本の線に見立てる。線は空中ではらりと震え、見えない軌条の継ぎ目で止まる。 「ここです」  柊が示した場所は、ホームの中央。昨夜、高畠が最後に姿を見せた場所だ。


 その瞬間、風が変わった。ふいに横から冷気が吹き、靄が細い帯となって一本だけ濃く流れる。柊の頬の産毛が逆立ち、懐中の時計の鎖がわずかに鳴る。

 ――来る。

 滋丘が袖の中で紙片をちぎり、口中で祓詞の最初の音だけをほどく。柏原は思わず一歩退き、白井はいのち綱のように柊の袖を掴みかけ、しかしそこで手を引っ込めた。


 音が先に来た。

 カン、と鋏が鳴り、微かなブレーキ鳴動が、線路の底から地面ごと震わせる。視えない車輪の鼓動が、靴底を叩く。

「下がって」  柊は低く言い、視線で線を固定した。靄の帯がその線に沿って伸び、空席だけがホームの中にぽっかり開く。誰もいないのに、風がそこへ座り、灯りがわずかに暗くなる。


 次の刹那、鋏の音が、柊の斜め後ろで一度だけ軽く響いて、遠ざかった。靄はほどけ、白い息が普通の朝の温度へ戻る。

 柏原は肩で息をした。 「な、何も……何も来ていないのに、音が」 「来たのは“向こう”です」

 柊は視線をほどき、紙片を懐へ戻した。

「二時四分。ここが開く刻だ。今夜、確かめましょう」


 滋丘は頷き、駅長に向き直る。 「今夜から暫く、二時半以降は改札を閉じ、ホームには誰も入れないでくれ。掃除も祠も手を付けるな。狐の口の中のものは、そのままに」

「は、はい。軍の命とあれば」 「軍の命ではない。生きて帰らせるための約束だ」


 白井が、そっと口を開く。 「彼は、戻れますか」  柊は迷いなくうなずいた。自分の声が、冷気で硬く、しかし澄んでいるのがわかった。 「連れ戻します。そのために来たので」


 詰所へ戻る足取りは早い。柊は卓上に昨夜の時刻表と運行記録、そして封じられた切符と時計を並べる。二度の揺れを頭の中で合わせる。二時二分の癖、二時四分の停止。

 滋丘が椅子に腰を下ろし、短く言う。 「今夜、二重に張る。外はわしの八重環、内はおまえの視線だ」 「継ぎ目で、踏み切らせる、ですね」 「そうだ。車掌が鋏を鳴らす前に、そこへ“座り”を作る。向こうの軌条からこちらへ足を踏み外させる」


 柏原が湯を注ぎ直し、白井の前に置いた。白井は両手で茶碗を包み、震えの収まらない指をあたためる。 「私、今夜は祈ってます。ここで。祠の前で」 「祈りは“通訳”になる」  滋丘が静かに言った。 「死んだ方の言葉と、生きた方の言葉の、な」  白井は小さく頷き、懐から紙片を出した。折り畳まれたまま、角が磨り減っている。

「これ、彼の検札鋏(けんさつはさみ)の欠けです。ちょっと刃を落として、そのままにしてたんです。戻ってきたら、叱ってやらなきゃ」  柊は受け取り、紙片ごしに刃の微かな樹脂の匂いを嗅いだ。榊に似た清い香り――人為の気配。


 詰所の時計が正午を打つ。外は工事の騒音で賑やかに、しかしホーム中央には、まだ**見えない“空席”**の影が残っている気がした。

 柊は筆記用具を手に取り、今夜の配置図を引き始める。二時四分、二本の軌条、石狐の口、鋏の音。

 滋丘は黙って祓串を鞄から出し、榊の一枝を結びつけながら呟く。 「静かな列車ほど、始末が悪い」

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