第1章 ― 緋燈ノ禍(ひとうのまが) ― 第4話
夜の帝都は、あまりに静かだった。
まるで“耳を塞がれた”かのような、不気味な沈黙――それは、都市の奥底が目覚める前触れだった。
「結界が……揺れています」
祓導局が張った境界結界が、浅草の一角で歪み始めていた。
その中心にあるのは、かつて“緋燈ノ禍”が現れた、いや、“棲みついていた”街区。
名も記録も記憶も、すべてから抹消された焦土だった。
そして、いま、その中央に――“中枢”が、姿を現す。
「……あれが、“緋燈ノ禍”の本体か」
巨大な提灯のような胴体。炎の羽衣がうねり、顔には無数の仮面が重なっている。
それは、消された“名”たちの断片が寄り集まって形づくられたものだった。
「見るな! “名を奪われる”。自分の存在が曖昧になるぞ!」
滋丘の叫びに、一馬は反射的に目を閉じた。
だが、彼の“視える目”は、たとえ閉じても真実を捉えてしまう。
空間に刻まれた裏面――怪異の“本質”が、そこにあった。
(これは……怨霊なんかじゃない。“思想”だ。名を消し、都市を純化しようとしている)
そのとき、一馬の背後に、一人の青年が立っていた。
無表情な顔。しかしその瞳には、確かに“何か”が宿り始めていた。
「思い出した……妹の名前は、あやか。俺の名前は――風間仁志」
その瞬間、仁志の影が揺らぎ、緋燈ノ禍の仮面が一枚、はらりと落ちた。
「……“思い出された者”には、干渉できないのか」
一馬は立ち上がり、懐から札を取り出す。
夢の中、黒衣の男に託された、“書き換えられた符”。
《幽界顕現》
「滋丘さん、俺……これを“使え”って、あの夢で言われてた気がする。
でもこれは、破壊の札じゃない。“顕現”の力だ」
「まさか……“緋燈”に先んじて、都市に記憶を刻む気か?」
「“消された記憶”を、“名のある存在”として蘇らせる。
この符が持つ力は――きっと、そういうものだ!」
一馬は札を掲げ、仁志の名をはっきりと口にした。
「風間仁志――お前はここに、いる!」
光が奔る。
結界は破壊されるのではなく、書き換えられる。
地面には新たな境界線が走り、空間そのものが“再編”されていく。
緋燈ノ禍の仮面が崩れていく。
それは、都市の底に沈んでいた名もなき者たちの嘆き――
声なき断末魔が、炎となって弾けた。
そして、沈黙。
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数日後
風間仁志は、軍医局の記録に正式に再登録された。
妹・あやかも、奇跡的に古い記録の隅に発見された。
もとより、彼らは“消された”わけではない。
ただ、誰にも“思い出されなかった”だけなのだ。
「……ありがとう、柊。一生、忘れない。……いや、忘れるなよ?」
「忘れたらまた呼ぶさ。お前の“名”をな」
二人は笑い合った。
だがその背後で、滋丘は懐の文書を見つめていた。
《黒禍ノ會》
その名が、ようやく表に出てきた。
あの夢に現れた黒衣の男。
あの符の構造。
都市と怪異と記憶を結ぶ“扉”を、最初に開いたのは――間違いなく《彼ら》だ。
「黒禍ノ會……やつらはまた動き出す。今度は、帝都を“呪術都市”に変えるつもりでな」
滋丘の目は、もはや過去ではなく、来たるべき未来を見据えていた。
(これはまだ、始まりにすぎない。名も記憶も焼き尽くす、“黒の思想”が、これから本当の姿を現すのだ)
都市の灯が、再びともる。
それは人々の記憶を照らす火ではない――**“深層の闇を映す光”**だった。
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第一章「記憶の焦土」 完